正義の速度

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 正義にも実行速度というものがあり、速ければ良いというものでもない。たどり着く場所が一緒だとして、すぐに着けば一番というものでもなく、スピードを出しすぎれば事故になる。
 物事はすべて移りゆくものだけれど、移りゆく速度というものがあって、天変地異ならいざ知らず、一夜にして万事が入れ替わるというのはやはり尋常ではない。
 人の力で速めようすれば相応の労力コストがかかるもので、良くも悪くもこれが足かせになってきた。しかし技術があれば、急ぎ足も易くなる。
 昨今のネットにおける「正義執行」の速度を見ると、そんなことを考える。
 昔の不良少年がバイクに惹かれたのは、それが簡単に自分のパワーを増幅させてくれる、ということに一つの理由があっただろうが、そういうものはしばしば事故を起こす。頭の中にある自分に追いつかない現実、プライドを満たさない自信。急いで埋めれば取り返しのつかないことになる。薬物も然り。
 急いで書いた文章は一晩寝かさないと恥をかく(よくかいています)。
 「若気の至り」とはそういうスピードの出しすぎなのだけれど、技術が速度のコストを低くして、かつてはなかなか買えなかったバイクが簡単に手に入るようになった。それで勝手にコケて死ぬならまだしも、少なからぬ人びとが他人を轢き殺している。
 「間違ったこと」に敏感な人間に限って、他人の(理屈のつかない)心の機微には鈍感なのではないか。
 世の中、白と黒というほど単純ではないし、間違ったものも間違ったものなりにこの世にある。そういうものを正していくにしても、程々の速度というものがある。急げば不正よりなお不正を招く。
 速度には代償がつくもので、どんなに急いだところで神ならぬ人が世の理不尽を一掃できるわけでもない。
 正しさなど所詮頭の中にあるにすぎない。
 今あるスジの通らない世界の実相をゆっくり眺めてからでも遅くはない。
 頭の中にあるものは思っているほど正しくもなく、降って湧いたバイクで走れば永遠に目的地には辿り着かない。



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