その自ー失の限りにおいて承認されるのだ

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

 了解とは虚偽であり虚偽とは倫理なのだから、何を了解し何を了解しないかに、主体の被投的投企がかかっている。
 一方でわたしたちはさほど倫理的に徹底されておらず、主体はしばしば、何を了解してしまったのかを知らない。
 世界の利用規約はとてつもなく小さな字でびっしり書かれているので、わたしたちの誰もそれを読みこなしてからacceptボタンを押すことなどできない。
 ここで重要なのは、わたしにはそれを読むことができなくても、読める誰かを想定することは可能だ、ということだ。わたしたちは、誰かがその長い長い利用規約を最後まで読み、その上でacceptしたのだ、と想像しないでいられない。
 実際、誰かは読んだのだ。その誰かとは特定の個人ではなく、一部だけを読み後は読み飛ばした人びとの全体の向こうに立ち上がる幻像のようなものかもしれないが、完全なるaccept者というものが、わたしたち個々人に対し常に可能的に先立っている。
 その者に対し、主体自身が「主体性」を預け放棄することにおいて、わたしたちの倫理は後から成立する。
 この成立、あるいは契約は、一回性のものではなく、何度でも何度でもやり直される。
 そのたびにわたしたちは長すぎる利用規約の前に自失し、その自ー失の限りにおいて承認されるのだ。



シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする