まったく理解に苦しむことだけれど、これほどまでに物語の持つホメオスタシス的隠蔽性に抗い、世界の乱雑性それ自体の中に切り込んで行く人が、その同じ筆で「太った女から母性を連想する」とか「すべての可憐な少女は濡れる」などと、なぜ記せるのだろうか。そのたびにわたしは本を壁に投げつけたくなるし、実際、本とかティッシュの箱とかグラスとか皿とか色々なものを投げるので、うちは皿がすぐなくなる。一つの家に必要な皿の枚数は何枚か。
こうしたものを、オッサンなるものが一般的に持つ少年的性質というか、独特の「頭の良い幼稚さ」として切り捨ててしまうのは簡単だし、たぶんその説明で大体合っているのだけれど、幸か不幸か世の中には想像以上に多種多様なオッサンがいるもので、そうでないオッサンも数多く、なおかつ自分で「そうではない」と思っているオッサンは大体「そう」の方に分類され、ところでここで「そう」と書くのは「そうでなくもない」「頭の良い幼稚さに無自覚なオッサン」ということなのだけれど、「そう」と書くの方が意味がわからなくて断然かわいい。
理解しがたい、と言いつつ、理解しがたいという時には大体半ば理解していて、つまりそれは物語に対し陥落しているということで、本当のところ、オッサンもさほど単純なものではないだろう。理解してしまってはいけないのだし、理解に苦しむというなら、本当に文字通り理解に苦しみ苦しみ苦しみ抜いて死ぬのが世界に対する真の誠意というものなのだけれど、このホメオスタシスというものを維持するために、世界には戦争というものがある。そこに自覚的であれるか否かが勝負の分かれ目で、誠意なんか知るか、と引き金を引いてしまう倫理的態度が求められるのだけれど、自覚的、などというのは誠にもってペテンであって、人が何かを自覚して、自覚し続ける、などということがあるのだろうか。何でも入れられる空っぽ箱のようなものがあって、そこに知識や認識や記憶が入っているわけではない。一度「自覚」したものも、ご飯を食べてお風呂に入って化粧水かなんかペタペタやっている間にどっかに行っていたりする。だから戦争はとても難しい。わたしたちはさほど倫理的にはできていない。
そう言っているわたしの目の前で、ペデストリアンデッキをこちらに向けて歩いてきた女性のすぐ後ろに下から鳩が飛んで上ってきて手すりに止まり、女性が一瞬振り返って「鳩か」という顔でまた前を向き直りそのまま通り過ぎた。こういうところに世界の美しさがあり、オッサンがクソみたいなことを吐いてもまだまだ人生には生きるに足る何かがあるのだけれど、本当のところ、「ペデストリアンデッキ」という言葉がどうしても出てこなくて、どうやって調べれば良いのかもわからず、苦し紛れに「駅前 空中」と検索したところ、驚くべきことに「ペデストリアンデッキ」が一番最初に表示された。この驚異的利便性を前にした時に感じる、ひび割れをパテで埋められてしまったような微かな虚無感というのは、物語の持つ催眠的快楽と暴力にかなり近い。
今や鳩は飛び去り、ペデストリアンデッキには中国人だけが残り、日は傾き、どこか遠く、吸血コウモリでも聞き分けることのできないほどはるか彼方で、オオヨシキリがギョギョシギョギョシと鳴いているのだろう。そっちがわたしだ! クソが!
(そして今、「中国人」という、必要もなく不用意に使われた言葉に対して、いくらかの人が反射的に感じたであろう生理的不快感は、わたしが投げつけた皿によく似ている。それ以前に、同じく不用意に使われた「オッサン」という言葉に対して、いくらかの人が感じた不快、苛立ち、憤りもまた、正しく暴力の連鎖として働いている。アディオス! 憤死して来世で会おう。わたしたちの為すべき仕事は、こうして、わたしたち自身が知りもしないところで粛々と進められている)