すべての風は神風だからだ

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 飛距離ということを考えている。
 たとえば最近ここに書いているようなものは、軽いボール投げみたいな感じでポーンと放って、まぁ飛ぶところまで飛べばいい、飛ぶも良し飛ばないも良し、といった程度に見ていて、非常に短いブログ用の文章というのはそれでも良いのだけれど、もう少し遠くの世界を見たいと思えば思い切りボールを投げる必要があって、かつわたしは遠投が苦手だ。遠投というのは文字通りの遠投のことで、確か中学生くらいの時はなんとか投げとかいって大きなグリップしにくいボールを投げさせられた記憶があるのだけれど、これがまた全然飛ばなかった。砲丸投げみたいな投げ方しかできない。その後身体は色々鍛えたので、普通のボールならまぁ、素人のキャッチボール程度くらいはできるけれど、握りにくいボールを頑張って遠くまで投げる、みたいなことは今でも下手だと思う(やっていないのでわからないけれど)。
 まだ余談が続くのだけれど、うちの身近なお方はボール投げが下手で、元々下手くそだったわたしよりたぶん下手で、ただ筋力の関係から、本当に本気を出せばわたしよりは遠くに投げられるらしい。らしい、というのは、本気のモードみたいのがうまく出せていなくてたまにしか全力が出ないからで、下手というのはそういうことではないかと思う。フォームが酷い。これはもう、別に球技など得意でもないわたしから見ても酷い。人の形は手二本足二本でさほどバリエーションがないから、球技プロパーが得意でなくても何事か長年やっていれば正しさくらいは見てわかる。しかし中学ではバスケ部だったらしいので、大きいボールとボール投げのボールは要領が違うのかもしれない。人には得手不得手というものがある。
 フォームが酷いのと全力が出せないのは相関していて、人は形を持っていて形には力学的に正しいものとそうでないものがあり、正しくない形でパワーだけ無闇に出すと身体が壊れる。だから力が出ないし、出さないように無意識にコントロールしてしまう。形が正しければそれだけで統合的な力が出せるけれど、それに加えて、全力を出しても怪我しにくい。何かがうまくいかない時、力が出そうで出ないもどかしい状態の時は、関節の角度とかを細かく丁寧に見ていった方が良い。
 以上で余談を一旦終了するけれど、文字通りの遠投と同じく、思考における遠投もさほど得意ではない、というより、本当のことを言うと、徹底的に誠実に飛距離を伸ばそう、という気持ちが弱い。いや、飛距離は伸ばしたい。悪いけれど、普通に投げてもその辺の人よりは全然飛ばせる自信はある。しかし世界一という程ではない。かなり伸ばせている時は、純粋に統合から発せられる距離ではなくて、つまり一度投げてしまったら後は風まかせ、という距離ではなくて、投げた後でふーふー息を吹きかけて応援したり、何かレーザー的なものを照射して加速したり、何ならボールにジェット噴射をつけたり巨大な団扇で扇いだり、そういうことで出している距離である。だからズルと言えばズルで、まぁなぜズルするのかと言えば純粋な飛距離争いでは到底トップの人に勝てないからだけれど、団扇とか扇風機とかトンデモ道具を持ち出して面白おかしく飛ばしていく、鳥人間コンテストで言えばユーモア賞的な線を狙っている部分も、正直ある。
 これは余計な自分語りだけれど、わたしは元来テキトーな人間で、ユーモア賞的なものが大好きなのだ。しかし世間は意外とそうでもないらしい。そういうことに、かなり歳を重ねてからようやく気づいた。普通は早くて幼稚園、遅くても大学生くらいでは気づくのではないかと思う。わたしは新卒で就職活動をしなかったけれど、していたら面接はウケだけを狙って続々と落ちていたことだろう。そもそもなぜ就職活動をしなかったかと言えば、「就職活動をしないとどうなるか」というネタをやっていたからで、結果としてどこの会社からも採用通知が来なかった。驚くべきことである。
 そんな調子なので社会的にも身体的にも何度か大怪我をしているわけで、命があっただけ神様に感謝している。しかしわたしなどはまだまだ常識人のうちで、わたしの師匠の師匠は、スーパーカブで配達の仕事をしている時にふと「自分ならスーパーカブで壁を走れるのではないか?」と閃いて、そのままバイク壁走りに挑戦したそうだ。結果的にできなかったそうだけれど、この方は八十五歳まで生きて亡くなった。普通なら十七歳くらいで死んでいる思考回路である。わたしも三十歳までに必ず死ぬと思っていたけれど生きてしまって、この調子だと意外と二百年くらい生きるかもしれないし、もう尻尾も三本くらい生えている。
 気がつくとまたどうでもいい余談をしているのだけれど、言いたいのは飛距離のことだ。肩に頼って思い切り投げて飛距離を出す、というのは、まことにもって尊敬すべき姿勢であり、わたしはそういう作家が大好きなのだけれど、では自分自身も同じ芸をするかというと、あまりする気がない。大好きとは言ったけれど、尊敬はするもののマッチョすぎて辟易するところもある。人として顔を見たいかと言えば、まったく見たくない。十中八九しょうもないオッサンと相場が決まっている。飛距離を伸ばすことに一念、他のことにかまけずに来たからだろうけれど、そういうなりふり構わないものはまったくもって下らないと思う。なりふりを構ってかつ飛距離を伸ばす、くらいの夢を持ってもらいたい。オッサン臭いものが大嫌いだ。
 いやもちろん、それでも肩は鍛えるし肩だけでも相当の飛距離を出せないとお話にならない。何事も基礎が大事だけれど、基礎の延長だけですべてが変わる、つまり基礎そのものにすべてが詰まっている基礎と、そうではない基礎がある。筋トレみたいなものが後者だ。ここでの肩の鍛え方は後者ではないか、と睨んでいる。いや、違うかもしれない。もっと全人的に鍛えられた肩、というのもあって、そういう人なら、人として美しくかつ飛距離も伸びるのかもしれない。あまりリアルでそういう人にお目にかかったことがないのだけれど、地球全体ではそれなりにいらっしゃるのだろう。残念ながら、わたしはそういう血ではないらしい。
 実際問題として、本当に距離を出そうと思えば肩だけでは飛ばせない。肩で飛ばすのは、ガッと投げて落ちてきたところをまた捕まえてガッと投げているからで、流石に初弾だけで延々と飛ばすことはできない。これはもう、遠投の得意な人でもそういう投げ方をしている。明白にわかる。
 遠投ではなく紙飛行機のような方法で飛ばす方がむしろ一般的だろう。この紙飛行機というのは物語とか了解とかそういうのに乗って飛ばす方法で、本当はあまり良い方法ではない。まぁ世の中には紙飛行機とかラジコンとかが飛ぶのでも喜ぶ人が多いし、実際、どう考えてもボールよりはラジコンの方が飛距離だけなら飛ぶわけだから、それがダメとは言わないけれど、もう全然違う競技というか遊びになっているので、比べても仕方がない。ラジコンにはラジコンの強さがあるけれど、そんなものに参加する気はない。ボールを投げるところで飛行機を投げるから面白いのだ。
 もちろん全面的に飛行機にしてはただのズルなので、基本風には乗らず、でも時々風を使う、あるいは風に乗らせておいて「そんなものは嘘でした」とやる、そういう方法で距離を稼ぐ。これなら肩が世界一でなくてもまぁまぁ飛ばせるし、何より一般のナイーヴな人たちにも割合に馴染んで頂ける。
 何を言っているかさっぱりわからない人もいるだろうけれど、(非)了解と文章の話、つまり思考の延長の話であって、純粋思考のようなところで勝負する気はないし、しかしこの勝負に敬意は抱いている。少なくとも今は抱いている(昔はもっとちゃらんぽらんだった)。逃げの一手として紙飛行機を使うのは下らない。血のものと命をかけて向き合って紙飛行機を使う、というやり方だけが距離を伸ばす。
 うっかりちゃらんぽらんに逃げてしまわないようにするには、よくよく周りを見回してみることで、世の中にはユーモア賞が好きな人はそれなりにいて、しかし大抵はただ逃げの一手でおもしろおかしくしているだけだ。わたしはおもしろい人とかユニークな人とか変わった人とかが大嫌いなので、こういう人たちを見ていると心底関わりたくないと思う。人の振り見て我が振り直せ。自分のユーモア賞は命がけのユーモア賞でなければいけないし、ユーモアでユーモア賞など狙えないのだ。靴はいつも綺麗にしておかないといけない。そういうことがちゃらんぽらんな人間はユーモア賞もとれない。
 目に見えないけれど確かにそこにあるものを明白に意識できないといけない。そうでなければ、盲滅法にボールだか飛行機だかわからないものを投げているだけになる。
 急に神風が吹いてとんでもない飛距離が出る、などということはない。すべての風は神風だからだ。



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