「わたしは今朝コーヒーを飲んだ」と言って、鳥が空を舞うことで神を賛美しているかの如く、見えざる世界を讃えている

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 禁煙している時に想像する煙草は格別なもので、実際に吸ってみるとさほどでもなかったりするのだけど、予想通り美味しいこともあって、そんなことを考えていると、煙草を吸う前のことを思い出す。
 十代の頃に悪ぶって煙草を吸ってみたけれど実際に吸うとむせるばかりでちっとも美味しくなく、でも「こんなものが癖になるわけがない」と思って吸っているうちにすっかり癖になってしまった、といったお話がよくあるけれど、わたしが初めて煙草を吸ったのは二十歳を過ぎてからで、それまでに何度も「煙草なるものはきっと美味しいのだろう、吸い込むとこんな感じなのだろう」という想像を巡らせていた。そして実際に吸ってみると、驚くべきことに想像通りに美味なるもので、まるで煙草がわたしを待ち構えていたようで、つくづく煙草はわたしの身体に合っているのだと感じた。
 などというストーリーは、ニコチンに侵された脳がわたしに見せている幻影ではないか、と今わたしは考えているのだけれど、少し余談をすると、若い頃しばらく精神科に通っていた時、そこの先生が大変なヘビースモーカーで、診察室の机に置かれた灰皿には漫画のように吸い殻が山になっていた。曰く「酒はアカンけど煙草はええで。心には別に悪いことはない。ガンにはなるけどな」。確かに、精神疾患系の問題で言えば、お酒は色々有害だけれど煙草は問題なく、むしろ統合失調症でニコチンが抑制的に働く、といった研究もあるらしい。大体、酔っ払って暴れたとか車を運転して人をはねたとか酒に溺れて一家離散、という話はあっても、煙草を吸って暴れたとか運転してはねたとか一家離散とか、そんな話は聞いたことがない。吸っていないと苛々するけれど酔って暴れるほどの変容をもたらすことはない。心に対する影響という意味ではお酒の方が余程被害甚大で、脳も萎縮する。とはいえ煙草はガンになるし副流煙で嫌われるし臭い。
 さらにどうでもいいことを言えば、この頃は精神科なる場所もずいぶんとカジュアルになって、心療内科の待合室にいるのはまったく普通のお嬢さんお兄さんで、懐メロのインスト版みたいなカフェくさい音楽が流れていたりもするのだけれど、わたしが当時お世話になった地方都市の精神科は古き良き昭和の病院で(その時点ではとっくの昔に平成ではあったが)、待合室には延々と自分の髪の毛を抜き続けているおじさんとか震えが止まらないアル中とか何ならその辺でセックス始めそうな勢いのリストカッターとか奇声をあげて跳ね回る人とかが普通にいて、こんな人たちに比べればちょっと寝れないとか不安だとかモノが偽物に見えるなんてものの数ではない、それくらいで全然人間合格だ、と勇気づけられたものである。人間、自分で大丈夫だと思っているうちは結構大丈夫なものだから、メンタルクリニックの待合室にはサクラとしてガチでヤバい人を配置しておけば、治療効果も上がればヤバい人の雇用対策にもなり一石二鳥ではないかと思う。
 しかしここで言いたいのは精神科がどうとかでもなければ煙草是か非かなどということでは全然なく、そんなことは心底どうでもよくて、初めて煙草を吸った時から煙草が美味しかった、という物語がニコチンの作り出した都合の良いつじつま合わせだとしても、猫を飼っているとトキソプラズマにやられて猫好きになるとか、ある種のバクテリアを腸内に宿すことで性格が変わるとか、お腹が減ったり気持ちの良い肌着をつけたりすることで機嫌が良くなったり悪くなったりとか、そんな話と同程度ではないのかとも思う。わたしたちが自分自身だと思っている意志とか自我とか自己とかそんなものは、足の裏のバクテリアとか寄生虫とかが色々寄せ集まった結果なのであって、身体性、とりわけ外界と連続的な物質性から独立して自己があるわけではない。
 というのは、やはりイマジネールな文脈に引っ張られすぎていて、確かにわたしたちの自己は様々な物質的因子から結果するスクリーン上の像のようなものだけれど、一方でサンボリック、言語的な水準で言えば依然として「わたし」というものがあり、それはなによりもわたしが「わたし」として語ることに存する。わたしは言語である。その言語とはもちろん他者の言葉であり、それゆえに言語の次元においても「わたし」は寄生虫的に離散してしまいそうに見えるけれど、そうではなく、そのような語らいの中で「わたし」として語るところにわたしは位置するのだから、依然として言語的な「わたし」は在り続ける。わたしは、わたしの物語がニコチンの作り出した幻影ではないか、と疑っているし、その疑っている方こそが言語的な「わたし」である。
 というのは、本当に信用に足ることなのか、最近よく考えている。この言語的な方向でわたしーたちは「わたし」のかけがえのなさということをつい考えてしまいがちで、それはもちろん、イマジネールな文脈で「お父さんとお母さんの子どもであるわたしはかけがえがない!」とか言っている属性還元的なナイーヴさに比べれば格段の進歩ではあるのだけれど、とはいえ、その言語的なわたしというものも、肉の水準から独立不可侵な形で立っているわけではないし、むしろ想像的でナイーヴなものとわかちがたく結びついている、そこにおいてこそわたしたちの「正常性」が担保されている。この担保が外された状態は精神病的である。ラカン風に言えば、三つの輪っかのどれかが外れている、外れかけている、という状態だろう(などという、俗耳向けに解釈された理論の上澄みだけで何かがわかりあえたかのように語るのはみっともないというか、貧相な文体になるとは思うのだけれど、欲に負けて書くのがブログの特質のようなものだから、大目に見て欲しい)。
 たぶん、言語的なわたしには手順プロセスはあっても時間がなく、早いことはあっても速くはならない。この論理的時間というものを物質的時間に対して高く見積もりたくなるのだけれど、果たしてそうなのか。両方あって初めて一つなのであり、結局この言語的なかけがえのなさというものもエピソード的にしか示すことができず、そのエピソードは時の流れの中に物質的におかれて初めて機能する。「わたしは今朝コーヒーを飲んだ」と「わたしは毎朝コーヒーを飲む」は違うし、前者が後者に回収される寸前の、流れ落ちる水のようなところにしかかけがえのなさは存しない。「わたしは今朝コーヒーを飲んだ」をそれ自体として取り出しそのままに留める、ということはたぶんできなくて、肉的にも言語的にも、わたしたちは本性において、「わたしは毎朝コーヒーを飲む」ような語らいの中に常に引き込まれていくのだ。
 この引力というものをまったく度外視して、純粋に無時間的というか、物質と無縁の「わたし」を思考することができるのか。できるかもしれない。しかし身体には悪いだろう。
 身体に悪いことがすべて悪いのか。健康が義務であるかのように喧伝される風潮には別の文脈で苛々してはいるけれど(「いや、健康は義務ではないが国民皆保険がある以上云々」などという一見プラクティカルだけれどそれこそ統計学的超自我にすっかり乗っ取られた昆虫みたいな議論には馬鹿馬鹿しいので付き合わない)、しかし、身体に悪いのも良い、悪いのが良い、とか言うこともまたできず、良いとか悪いとかそういうものを一切振り切ったところでしか本当に良いものは語れないのだけれど、しかし、良いとか悪いとか言える文脈、というものに常に引っ張られるのがまともな人間というもので、その限りにおいて、「身体に対する悪さ」というものをまったく度外視してことを進めることには、(健康的に、というのではなく)倫理的に後ろめたいものがある。つまり「十分に俗っぽいこと」をわたしたちは要求されているのではないか、という後ろ暗さだ。
 ただし、必要十分にちょうど良く俗っぽいことが、今一本の煙草に火をつけることを示すのか、あるいはまた、実に俗っぽくクリーンかつフレッシュに煙草を吸わないことを帰結するのか、それはまだわからない。まだわからない、というのは、いつかわかる、という含みをもって書いているのだけれど、果たしてそのルートに解明可能性が宿っているのか、そこにも正直、確証がない。
 それにしても「わたしは今朝コーヒーを飲んだ」と「わたしは毎朝コーヒーを飲む」の違いと(驚くべき)連続性についてはよくよく考える必要があって、ナイーヴに考えて前者は実在するけれど後者は概念でしかないことになるけれど、本当にそうなのか。その前に一つ自分のミスを指摘すれば、後者の方は「わたしは毎朝コーヒーを飲んだ」「飲んだものだった」と書くべきだった。わたし自身をモノとして突き放すという意味では「飲んだものだった」という時にこそ結晶化する。なぜなら、わたしたちは過去の経験しか語れないのであって、まぁ例外的に「今飲む、今今飲んでる!」というのもあるにはあるけれど、過去のある時点での行為というだけではどこか距離が足りない(そんなのは当たり前なので)。足りないけれど距離はあって、それがどんどん引き離されると行為は情景となって「飲んだものだった」という景色に溶け込んでいくのではないかと思う。翻せば「飲んだ」と言った時点で、既に実際の行為からは少し、概念に足を踏み入れてしまっている。そういうことを無視して、時間を過去現在未来のスライダーみたいに考えても何もわからない。「飲んだ」というのは常に怪しいうさんくさいものである。本当は飲まなかったかもしれない、という含意が必然的に織り込まれている。
 あまりこういう書き方は良くないのだけれど、せっかくなので煙草に引きつけて言うなら、煙草を「吸った」ということと「吸っている」「吸ったものだった」の差異と連続性には中毒性というイマジネールな要素が絡むのでわかりやすいとも言えるしミスリーディングとも言える。ある行為が習慣になるのはどこの時点からなのか、という問いはアキレスと亀的なものがあって、中毒という要素が入ると、そこはまた例の物質厨みたいなのが出てきてナントカの血中濃度とか脳がどうとか言い始めて、あたかもメトリックな形で語ることができそうに見せるのだけれど、まさにそういう意味でミスリーディングなのであって、アキレスは亀に追いつかない。この追いつかなさおよび実際には追いついてしまう感じは、上の文脈で言えば、言語が想像的でナイーヴな語らいと(本質的にはまったく関係ないにもかかわらず)わかちがたく結びついていることとパラレルである。
 それでも依然、少なくとも現時点では、「わたしは今朝コーヒーを飲んだ」と極力書くべきなのではないか、と思っている。本当にそうか?と問われると自信がない。これは習慣への抵抗であり、概念への抵抗である。抵抗しているということは、そのふるまい自体によって「わたしは毎朝コーヒーを飲む」の引力というものをかえって浮き彫りにはしている。そういう風にして、言語が賛美へと昇華するのかもしれない。あたかも、鳥が空を舞うことで神を賛美しているかの如く。



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