更生にはやはり値打ちがあるし、復讐はすぐにやらないといけない

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 不良が心を入れ替えて頑張る姿を称揚するのはいかがなものか、はじめから真面目にやっている人間の方がずっと偉い、という話は、最初の頃は「確かにもっとも」と思ったものだけれど、もういい加減聞き飽きて「ぐだぐだいつまでもうるせえよ」というか「そんなに褒めて欲しかったのか、可哀想に」という感想しか出てこなくなった。
 もちろん、「最初から真面目にやるのが一番」と信じて実践、なおかつ不良の更生称揚についても「それはそれで立派」と言えるデカイ方たちも沢山いらして、この人たちには素直に頭が下がる。
 しかし「更生を持ち上げるとは笑止千万」とかわざわざ発言してしまう人は、もうその時点でそこにリビドーが備給されている訳で、「なんであいつばっかり! ボクのことももっと褒めてよ!」というのが透けて見えてしまう。褒めて欲しいなら褒めて欲しいと言えばいいし、注目されたくて馬鹿が川に飛び込むのは自然の摂理だ。飛び込まないで「川に飛び込むなど愚か」と冷笑しつつ、川に飛び込まないでも注目してもらえる方法をウジウジ考えているような連中よりは、川に飛び込む馬鹿の方が余程立派だ。

 それはともかく、やはり「更生して立ち直る」ということには、称賛に値する何かがある。人は誤つもので、どんな人間でも常に既に少しずつ間違えているのだから、まず間違えるというところから始めて、そこから先が本当のテストだと考えなければいけない。
 だいぶ以前にテストは今もって継続中なのではないかということを書いたのだけれど、何か試みであるとか、乗り越えるべき課題みたいなものを与えられて、それを見事にクリアして優等生として卒業できれば良いのだけれど、人びとはしばしば躓く。それで終わった、人生詰んだ、後悔先に立たず、もうヤケクソ、みたいな話はよくあるけれど、本当のテストというのはテストが終わったところから始まるものであって、人生詰んだハイ終了、というところが本当のスタート、そこでいかに歯を食いしばって生きるか、というところに人の値打ちはかかっていると思う。最初のテストを採点するのは人間だけれど、次のテスト、テストが終わってから死ぬまで続くテスト、これを採点するのは神様である。神様は何も言わない(生きている間は)。そこでいかに踏ん張れるか、という、これがテストだろう(と言っているわたしが胸をはれるほど頑張れているかというと、そこはまことに心許ないのだけれど)。

 じゃあ最初から真面目にやっている人間は損ではないか、不良にさんざんいじめられた青春はなんだったんだ、やったもん勝ちか、というと、はっきり言えばやったもん勝ちである。それは言い過ぎか。仕返しでも、踏ん張るのでも、有効期間というのがある。すぐにやれば功を奏する。十年も二十年も経ってからではもう遅い。かえって「いつまでも未練がましい人」ということにしかならない。復讐とか仇討ちとかはすぐにやるから意味がある。別に敵がいなくてもいい。ナニクソ、というのはすぐやらないといけない。十年経ってからでは遅すぎる(もちろん、遅すぎたからといってヤケクソになるのではテストに落ちる、遅すぎた時には遅すぎたなりの踏ん張り方というのがあるだろう)。
 失われた青春は、一度失われればずーっと失われたままで、何をやろうが取り戻せない。一年後なら間に合うけど、十年後では遅すぎる。遅いのだから忘れるしかない。
 権利というのはただの言葉で、放っておけば坂を転がり落ちるように消えてしまうものだから、不断の営為があって初めて成り立つ。犯罪にも時効がある。消えてなくならないものなどこの世にはない。消えると言ってもすぐに一瞬でパッと消えるものではないけれど、時間が経てば少しずつ薄まっていき、十年二十年もすれば大概残っていない。何事もそういうものとして、有限の生を生きなければならない。
 不良に殴られたら、すぐその場で殴り返さないといけない。それがちょっと厳しいなら、せいぜい家に帰って顔を洗って、その辺にある父ちゃんのゴルフクラブとかを持って自転車で引き返せばいい。
 それをやらなかったのなら、昔のことは忘れた方がいい。大体のことは、寝れば治る。今生きていて楽しいことも沢山あるはずだ。



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