気障な台詞

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 今時々思い出しては読んでいるエジプトの大衆小説は、新米医師が田舎町の診療所に赴任する実話ベースのお話で、教育のない田舎の女性たちのとんでもない訴えに彼が振り回される、という内容なのですが、思いつきで一節だけ訳出しておきます。若すぎる母親のエピソードです。

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若年婚

 診察室で何もせずに座っていると、女の子が小さな子どもを抱えて入ってきて、その子を机に寝かせた。この子が、と彼女が言い始めるや、僕は言った。「お母さんはどこだい? どうして弟を連れてきたの? 僕じゃママに相応しくないかな?」
 彼女は口を歪めて言った。「わたしが母親よ」
「ははは、そりゃいいね。いや本当に、いい子だからお母さんはどこかな? 帝王切開で出歩けないから来られないの?」
 彼女は尊厳に満ちた決然たる調子で言った。「冗談は言ってないわ。わたしが母親よ」。僕は言った。「なんだって? まったく、君はせいぜい十五歳だろう」。彼女は鋭い目つきでわたしを遮り言った。「十七歳と二ヶ月よ」。「わかった、じゃあその子どもはおもちゃか何かということだ。見せてごらん」
 見てみると、本当の子どもだった。もちろん、それからよくよく考えて、驚きとともに現実を受け止めた。僕が結婚もせずに発酵させるように芽が出るのを待っているところで、この子は結婚して子どもを産んでいるのだ。僕は言った。「お子さんはどうしたんですか」。彼女は言った。「色々よ」。僕は言った。「じゃあその中から少しを、お聞かせ頂けるかな」
 彼女は座って、僕が初めて聞く驚くべき訴えを語った。「子どもが指を曲げる」とか「足が曲がってる」とか「お父さんの髭がささる」とか。訳がわからず、同時にまた凍りつくような事柄だ。若年婚のおぞましきことよ! 彼らが結婚して、僕が乳をやるようにさせるとでも言うのか。
 こうしたこと総べてに関わらず、僕は落ち着いて座って、彼女の言うのは全部普通のことで、不安になるべきはいつで大丈夫なのがいつか、彼女に説明した。何も問題ない、エジプト万歳、新スエズ運河万歳だ、と。問題が解決したようで、それから彼女は言った。「ハイハイはいつするの?」
「なんてこった! ハイハイがなんだって! まだ二週間の乳児だよ。まず座れなきゃダメだろう。お腹から出てきてすぐハイハイするとでも? お父さんは爬虫類か何かかい?」
 こうした驚くべき質問の数々の末、彼女は満足したようで、とうとう出ていった。
 僕が頭の痛い話から一息つくかつかないかで、彼女がいきなり戻ってきて言った。「ごめんなさい先生、忘れてたわ」。僕は言った。「忘れてると思ったよ、十七歳と二ヶ月じゃなくて、十七歳と一ヶ月だったんだろう?」
 彼女は言った。「いえ、この子のおでこのここに何かあるの。何かしら?」。見ると至って平凡で小さな腫れ跡がある。僕は言った。「大丈夫、心配要りません、蚊に食われただけです」
 彼女は抱いた子どもを逆さにして背中を見せて言った。「じゃあこれは?」。それも至って普通の噛み跡だと言った。すると彼女は子どものおしめを脱がせて言った。「じゃあここに二つあるのは?」

 なんてこった!
 僕をここで逃してくれるなら、噛み跡は五個ってことになるね!(「エクスラージ」のアフマド・へルミーの声で)

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 ちなみに「エクスラージ」は映画のタイトル、アフマド・へルミーはその主演俳優です。
 都市部はともかく地方に行くとまだまだ非常に若い年齢で何もしらないまま結婚してしまう女性が沢山いるわけですが、ここで言いたいのはそういう社会派的なポイントではなく、気障なセリフ回しです。
 日本語にしてしまうとエジプト方言独特のノリの良さが今ひとつ伝わらないのですが、エジプト人ならこれくらいリアルで言っても全然やり過ぎじゃないんですよね。「忘れてると思ったよ、十七歳と二ヶ月じゃなくて、十七歳と一ヶ月だったんだろう?」とか、洋画バリの気取り方です。
 日本語文脈だと翻訳小説か字幕ででもないと、こういう台詞は言えませんよねぇ。言いたいですけどね、わたしは、リアルで。



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