総論は大体間違っているが、それがどうかしたのか

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 大体の考えは間違ってるんですよ。
 いわゆる科学的言説にしたところで、その「正しさ」が何によって基礎づけられるのかは、科学論科学哲学を見るまでもなく簡単な話ではないのですし、言葉が対象自体を直接指示する訳もないのですが(しかしそれに近い精神病的世界観に生きている「人民」が無数に発生している)、ここで言いたいのはそんな大きい話ではなく、もっと曖昧な、思想やら政治やらといった領域のお話です。
 間違っていないところだって勿論あります。スケールが小さい具体的部分になれば、正しいこともあるでしょうし、少なくとも意味のあることは結構言っているでしょう。これらはテクニカルな各論です。
 しかし大きな総論になると、大体間違っています。もっと言えば、間違っているかどうかすらわからないです。「検証可能性を明示できない言明は無意味である」くらいタイトに行くなら、政治運動系の文脈で使われている言葉なんて、八割方無意味だったりするかもしれません。スローガンとか心意気とか理想とかいうものは、額面通りに取ると要するに何を言っているのか今ひとつはっきりしないものです。元より、対象を正確に指示しているかどうか、そんな基準で紡がれる言葉ではないのですから。

 少し回り道をして大前提のところをお話しすれば、そんな大雑把な言葉は捨ててしまえ、という立場もあるわけです。テクニカルな各論だけやって、総論みたいな大雑把な話は要らない、ということですね。現代リベラルとか頭の良い中道左派なんかはそういう考えの方が多くなっているようにも感じます。
 ここは本当に大きな分かれ目で、左翼右翼などという以前に、大きい話が要るのか要らないのかは決定的な分水嶺です。
 この分かれ目とは、イデオロギーとルール、思想と法秩序の差異であって、外部なきフラット世界と「向こう側」のある世界とも言えます。前者には「敵」が登場し、後者では「犯罪者」「テロリスト」が悪さをします。
 思想が消滅すると、変なイデオロギー的色眼鏡がなくなって対象自体が正確に把握されるだろう、という幻想が、このフラット世界を支えています。言葉とものが直接に対応する精神病的(≠神経症的)世界観です。本当のところ、そこで把握されているのは対象自体ではなく、唯一化した言説が他を不可視化し統御しているに過ぎません。排除されるのは「中間的なもの」です。個々人は分断され、曖昧で多重的な解釈を許す有象無象の諸ネットワークが解体され、全体が直接に個と結びつきます。全体主義と個人主義は同じものの表と裏でしょう。
 思想というのは、その内容以前のところでこういうフラット性に対する抵抗という側面を有していなければいけないのではないかと、考えています。内容としてどんなに大きなことを言ったところで(大きなことを言うからこそ)、それは有象無象の胡散臭いものです。言葉の上では他を否定もするでしょうが、諸ネットワークが多重的に競合している限りは1、全体を統一管理などできる訳ではありません。プロレスラーAとプロレスラーBが互いに互いを全否定して罵りあうことでプロレスが成立するようなものです。一番フラットなのは、この全体を俯瞰して「多様性」「共存」などとしれっと言ってしまう緩いナイーヴで「平和的」な相対主義でしょう。
 おそらくは冷戦終結以降、(開き直り的資本主義と共に)イデオロギー排除が段階的に進み、それが回りまわって、強力なサーチライトが隈なく刑務所=ユートピアを照らす今日的な閉塞感に繋がっているのですが、多くの人々がこれについて意識化していません。街灯が整備され監視カメラが設置されダイソーに素晴らしい商品が揃うフラット世界は、「消費者」視点で近視眼的に眺める限りは、なかなか悪くない世界だからです。
 この辺のお話は「良い抵抗と悪い抵抗などというものはない」から始まる一連のエントリ、その他の文章で何度も書いていますので、ここではもうちょっと別角度から続けてみます。

 思想というのは胡散臭いものです。
 プロレスラーの罵倒が一段メタに上がればプロレス自体を成り立たせていたり、逆に相対主義をまた一段メタから眺めれば「一つの立場」にも帰され得るように、どのレヴェルで語っているのかもそう読み取れず、話の最中でまたレヴェルが変わる、という、実にまとまりの悪いものです。そんな大雑把な話をしているのですから、正しいとか間違っているとか簡単には言えませんし、確かめる術もなかなかないのですが、もし強引に確かめれば大概間違っていることでしょう。
 そういう前提でなお語るものでなければ、ディベートごっこと変わりありません。
 ですから、ある考えなりワードなりが「間違っている」「不適切だ」などと重箱の隅をつつくように指摘するのは、思想でも政治運動でもないのです。大きな話なんて元から間違ってて、とっくの昔に織り込み済みで「かかってこいハゲ」とか言ってる乱暴なものでしょう。ハゲがPC的にアウトだからなんだ、というものです(しかし硬直化したお題目PCを批判するためにこそ、PC的お約束は一通り守っておく必要があるとは思いますが)。
 勿論、間違いが単なるうっかりミスだとか、何の深みも経緯も物語もないただただペラ一枚みたいなものなら、そこは叩いてもよろしいでしょう。こっちが喧嘩腰なら、因縁をつける口実にもなります。
 ですが、普通に考えて声を大にすればそれなりに敵を作りそうな場面で「間違った」ことが語られている場合、その言葉に至るまでに相応の身の切り方がある場合、よほどのぼんやりとした人でもなければ、なにがしかの物語を背負って、なお「間違った」ことを口にしているものです。
 当然、大抵の場合はそこまで確信犯ではなく、本人は本人なりの正しさを信じて口にするでしょうけれど、正しさを強弁する時、義憤を語る時、人はすでにどこか守りに入っていて、大声で怒鳴らなければ崩れ去ってしまう不安に震えているのです。何か根本的なところがちょっと抜けていて、後ろ暗いところがなくもないけれど、しかし、それを言わなければ自分たちがなくなってしまう、依るべきところを失ってしまう、そういう背水の陣で声を大にするのです。
 人は面子とか沽券とかつまらないものにすがって生きるものです。多くの人はそれほど強くはありません。知それ自体が語る「大学人の語らい」的スタイルを身に沁みつかせた知的リベラルなら鼻で笑うかもしれませんが、彼らにそういう振る舞いが可能なのは、知の背後に自らの主人性を隠匿しているからです。ルールに則った競争の上で勝利した者が、ルール(コンプライアンス!)という暴力性を隠れ蓑にしているように。
 思想というのはそういうルールに対抗していく性質のものなのですから、弱い人間の「間違った」物言いに対し、誠意を失ってはいけないはずです。

 「レイシスト」とか「ファシスト」とか罵詈雑言に使われやすいワードというのがあります。実際、「レイシスト」だったり「ファシスト」だったりすることもあるのでしょう。仮にそうだとして、ではそれが単にペラ一枚のレイシストなのか、色々あってレイシスト的言動に至っているのか、そこは簡単ではありません。PC的言い換え一覧表に載っている「アカン言葉」を使っているからあの人はアカン人、差別主義者、とか、フラグ管理みたいにすっきり行くものではありません。
 減点法で人を見るのは簡単ですし、確信犯で自ら手を汚し「切る」場面というのはあるでしょうが、そんな弾丸は何発も撃てるものではありません。残弾数を越えて撃つなら、それは撃っている自分自身の中の何かこそ、切られているのです。
 乱暴な弾を撃たず、シカトや「スルー」で済ませないのなら、近くに寄ってよく見てみるしかありません。これはこれで大変コストがかかりますし、人一人がじっくり相手にできる範囲は大変狭いものです。
 その狭い範囲くらいが、せいぜいの責任範囲で、ものを言って良いところだと思います。
 特に差別周りというのは厄介です。意図とか内心といったものがどうしても関わってくるからです。念のためですが、「内心の意図」にすべてが還元されるという意味ではありません。究極、他人の意図だの心だのはわかりようがないのですから、「本当の本当」を問うたところで無限の漸近線を描くだけです。一方で内心をすべて不問とし、ひたすら表面のワードか何かで見ていくなら、最悪の形の言葉狩りにしかならないでしょう。この両方の極の間を適宜レヴェルシフトしながら丁寧に判断していくしかありません。
 ここはとてもウェットな領域で、誰もそれほど清廉潔白ではありませんし、冷酷非道に見えても意外と人間的な面ががあったりもするものです。皆、色々あるんです。頭の出来だって優等生ばかりではありません。
 そういう場面で活きるのが有象無象の多重的諸ネットワークのはずです。全体でも個でもない、中途半端なものです。そもそもが人間、基本的にこの中途半端なサークルで生きてきたのです。頭数も内部の掟も、大体これくらいのスケール、厳密度に、長い時間をかけて最適化されているのです。
 思想や政治運動というのは、多少間違っていてもこのあたりに寄り添っていく性質がなければいけないのではないか、と考えています。

 「311以降にアート界隈などがぎすぎすした」というお話を先日伺いました。反原発というイシューがそれまで狭義の政治に関心のなかった人々の間に入ってきた結果、「政治的意識」が高まり軋轢の元になった、ということのようです。
 こういうことがあると「ほら見たことが、アートや音楽に政治を持ち込むな」と少なからぬ人々は考える(ように現代日本の状況はなっている)し、対処療法的にはそれも有効な場合もあるわけですが、これは別段、アートに政治が持ち込まれたがゆえに派生した問題ではなく、単に慣れていないことをいきなりやった結果ではないのでしょうか。要は慣れないプロレスをボクシングか何かと間違えていきなり始めてしまった、ということでしょう(そう言うわたしも別段プロレス慣れしているわけではありませんが)。
 よく知らないことは単純に考えがちで、有象無象入り乱れる読みがたさというものが見えないものです。模式的理解にしがみ付いて、正しいものは正しい、間違っているものは間違っている、とつい簡単にやってしまうのです。それが経験を積む内に「色々あるんやな」「仕方ないものなんやな」と噛みしめるわけです。
 こんなことは地質調査とかブレイクダンスとかなら当たり前の話で、言われないでも誰でもわかるでしょう。ところが政治とか思想とか文学とか、何か言葉臭いものになると「初心者だけど(謎のセンスで)すぐできる」と考える人が大勢いらっしゃいます。多くの人はブレイクダンスはできなくてもお喋りくらいはできますし、読み書きも結構達者です。それで「これくらいならできる」と思ってしまうものかもしれません。
 でもそんな、簡単ではないでしょう。なんだって色々あって今があるのですから、正しいとか間違ってるとか、軽く言えませんよ。
 相手の言うことも間違っているかもしれませんが、自分の言ってることも大概間違ってますよ。
 そもそもの最初から、正しいとか間違ってるとかそういう話ではないのですから。

 某所でちらっと書きましたが、政治運動というのは暴走族みたいなものだろうと思っています。
 エコカーで法定速度を守るようなものではないのです。それは思想ではなくルールのやり方です。
 暴走族には暴走族で、何かキャッチフレーズ的なものとか約束事とか、絶対に破ってはいけない一線とか、色々あるのではないかと思います。でもそういう信条一覧みたいのをチェックして「なるほど、納得できる」「これならボクにもできる」とか言って暴走族に入る人はいないでしょう。地元の先輩に憧れてとか、なんかカッコいいからとかいった程度です。
 これは信仰についても同じことが言えるのですが、世の中にはそういう「暴走族なもの」を外側から眺めて、新書本でサラッと勉強してみたりして、「ここは納得できる」「ここはおかしい」などとやっている人がいます。でも実際の暴走族は、そんな筋道で動いているわけではありません。知ったりわかったりというのは、確かに大切なことだと思いますが、それが一番最初に来るようでは暴走族の風上にも置けないでしょう。
 何らかの思想信条があるにしても、そんなことは入ってから身に着けていくものです。部活だってまず入部して、練習して、段々理解が進むものでしょう。実際やってみたら思っていたのと違った、なんて普通です。そこで辞めてしまってもまぁ良いのですが、続けたら続けたで何か出てくる。イメージとは違ったけれど、予想もしていなかったところが面白かった。そんなものでしょう。
 その「入ってから勉強する」中身にしても、キッチリ筋道立っているかは怪しいものです。どうせ「仲間の絆」みたいな大雑把な話でしょう。それでやんちゃばっかしてた子が先輩に敬語くらい使えるようになりましたとか、そんな程度です。
 これを思想体系か何かだと勘違いするから、変な話になるのです。辻褄の合わないところを探して鬼の首でも取ったようになられても、そんなちゃちな整合性なんて、暴走族にも政治運動にも信仰にも何の関係もありませんし、痛くも痒くもありません。

 総論は大体間違っていますよ。
 その大体間違った総論がごちゃごちゃと入り乱れて、結果としてフラット化に抵抗しているのです。
 人が生きるというのはこの抵抗自体でしょう。
 筋道だけは通っているどこかの大学一年生みたい話なら、その人が語る理由はないのです。

  1. 一人の人間がマンションの管理組合と会社と居合サークルと保護者会に同時に所属し、それぞれで別の呼び名で呼ばれるように []



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