失礼な機械、飽きる能力

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 少し前に、鼻のアップ写真がアダルト判定される事件、というのを経験しました。
 わたしの鼻の写真なのですけれどね。これがおそらく、機械学習による画像解析でアダルトとされたらしいです。多分性器画像かなにかと誤認されたのでしょう。
 抗議したところアダルト判定は解除されましたが、普通に考えて失礼ですよね。
 鼻ですからね、鼻。
 でもAIやら何やらが判定すると、失礼とか言っても始まらない。単に誤認、間違いでした、といことになります。
 そうなると、失礼というのは面白い概念だな、と思う訳です。
 犬が人前でおしっこしたり交尾したりしても、失礼とか礼節をわきまえないとかは言えないでしょう。礼儀がどうとか言うのは、礼節を認識できる頭を持っているからで、それがない者に礼を諭しても始まらない。
 そのうちAIにも礼がどうとか言えるようになるのでしょうかね。そう言いたくなる気持ち、というのはあるでしょう。
 動物愛護にも似て、人ならざるものにも人は人を見いだせる訳ですから。
 失礼を働く機械に対し、機械に言ってわかりそうなら引っ叩くし、そうでないなら「親御さん」に文句を言うのでしょうか。
 と、全くオチのないお話です。

 全然関係ないのですが小ネタなので一緒に書いてしまうと、飽きる能力というものについてふと考えました。
 飽きっぽいのは褒められた性質ではないですが(わたしは割と飽きっぽいです)、なまじ飽きなかったがゆえにとんでもな袋小路にはまり込んでしまう人というのもいます。
 趣味を極めるのも結構ですが、極めすぎて社会性を失ってしまう人というのもいるし、濃すぎる嗜好が煮詰まる人もいます。
 基本的にはネットワークの問題で、極めながらも人付き合いができているかどうか、適度にツッコミを受け入れられているか、ということで、ツッコミを聞きすぎてもいけないし、全然聞かないのもいけない。
 そうではあるのですが、自浄作用としての飽き、というのもあるように思います。飽きてくれるお陰でどツボにはまらないで済む、ということですね。
 では飽きてはいけないものはどうするのか、というと、これは「楽しまない」ということに尽きると思います。
 どういうことかと申しますと、人は子供的な「遊び」を大人になっても続けられる生き物ではありますが、「遊び」でやることと、心を無にしてやることがあります。動物などはある年齢になれば大体「無」なのではないかと思います。
 「楽しいことを仕事に!」とか簡単に言いますけれど、楽しいことというのは飽きるのですよ。飽きるともう、楽しくもなんともないし、続けるのが苦痛でしかなくなる。
 それでやめられるものなら結構ですが、歯磨きとかお風呂に入るのとか、飽きてやめるというわけにもいきません。やめたら困ります。
 もう少し広げて生業というものも、飽きたからといってポイポイ捨てるわけにもいかない。
 そういうものは、はじめからあまり楽しまない方が身のためだと思うわけです。

 「遊び」というのは素晴らしいもので、実に特殊人間的なのですが、その限界というのもあります。飽きが来なくておかしくなってしまう人もいるし、飽きてやめて身の破滅、というのもあります。
 楽しむだけが人生じゃないですよ。



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