破壊されるスパゲッティコード

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 抽象度の高い幼稚で普遍的なものが、土地に根ざした融通の効かない閉鎖的な知を破壊していく。
 汎用度の高いものは大抵子供じみている。模式化されたものは高級で知的に見えるけれど、子供ほどシンプルで見えやすいロジックでものを考える。
 それはわくわくする見通しの良いもので、いろいろな対象に一度に適用できて、一気に世界を変えるように見える。
 実際、大人の考える子供じみたロジックは、間違っている訳ではない。実験室のような閉じた系で使われている分には、大いに力を発揮する。あるいは正に、その透明性と単純さでもって、系を閉じる。
 系が閉じられると内圧が高まり技術が進歩する。近代科学のやってきたことはそういうことだし、スポーツでも局面を限定するからレベルが上がる。
 そういうものに救われることは多い。
 アチェベの『崩れゆく絆』にはナイジェリアの伝統社会にやってきたキリスト教に最初に入信したのが当地の被差別民や社会的弱者だった様子が描かれている。
 見通しの良いものは、因習にまみれた不自由な世界で虐げられてきた者を救う。
 一方で、その土地で長い時間をかけて醸成されてきた秩序を根こそぎ奪いもする。
 ある正義に救われたものが別の正義を殺す。

 この力は一方向に働くわけでもなく、むしろ大局的には、透明なロジックが具象に汚されてきた。
 プロテスタンティズムやサラフィー主義がいかに純化を図ろうと、土着化したカトリシズムやスーフィズムから逃れられる思想などない。
 書き言葉が永遠に話し言葉に追いつけないように、人々の間を伝ううちに、ロジックは抵抗にあい摩滅し、速度を緩め、停滞し、捕捉される。
 そうして付加物の加わった混濁物は劣化かもしれないが、一つの仲裁手段ではある。 
 劣化から逃れられる思想はないが、ある意味、逃してはならない。
 逃がせば彼らは帰ってきて悪いものをすべて焼き払うだろう。悪いもののなくなった世界は、もっと悪い世界になる。
 悪いものの陰で生きながらえてきた見えない秩序が、失われて初めて明らかになる。
 今ある卑しく醜い父は、それでもまだ一番マシな父なのだ。
 できることと言えば、父の部屋には足を踏み入れないくらいだ。酔っ払った父には近づかないに限る。だからといって殺してはならない。
 正しさを貫こうとするものが災いを土地に運んでくる。

 見通しの良い世界は刑務所に似ている。
 フーコーの言を待つまでもなく、計画的に設計された近代都市は刑務所に似ている。刑務所にはどこか、ユートピア的なところがある。
 多少の「規律」にさえ背かなければ、贅沢は言えないまでも三食食べられて、雨露をしのぎ寝る場所もある。
 程度の差こそあれ、人は何らかの形で自らを摩滅させ、檻の中に入るものかもしれない。

 刑務所では人が番号で呼ばれる。
 番号は絶対座標であり、直接に個人を指す。二つと同じものがなく、確実に呼称と対象を一対一で結び付けられる、便利なものだ。
 人の名はそういう風にできていない。
 田中という人物は無数にいるが、人事課の背の高い方の田中さん、という風にしてわたしたちは人を同定する。
 その田中さんはヒロシくんのお父さんかもしれないし、坂戸のタカヒロくんかもしれないし、3-Bの田中くんかもしれない。
 そういう風に、いくつものネットワークからの相対的距離によって、人は人を認識するし、その人はその人である。
 絶対座標ではなく相対座標。その集合体によって人の名というものは成り立っている。
 絶対座標は早くて確実で間違えないが、人をネットワークから切断する。
 もう人事課とか坂戸とか言わないでも、AはA以外ではありえない。
 マイナンバーである。
 マイナンバー制度に対し、なんとなくムードで嫌う人もいれば、その実装の脆弱性を指摘する論もある。
 一つのデータベースで一律に管理することは簡便で見通しが良いが、一方で一旦破られれば総てがご破算になる。
 自然の名とは対極に位置している。
 いくつもの網の目、入り組んだ見苦しいスパゲッティコードに支えられていたものが、一つの強力な秩序によって一括管理されるというのは、そういうことである。

 全体主義に反対する者が個人の自由などをカウンターに立てるのは噴飯物である。
 全体主義と個人主義は二つで一つ、ワンセットのようなものだ。
 大きなデータベースと透明な秩序が対象とするのは個であり、破壊されるのは中間的な有象無象のネットワークである。
 便利で住みやすい素晴らしき全体主義、透明なロジック、フラットな世界が破壊するのは、人間理性の及ぶところではないスパゲッティコードである。
 そんなものを見ればスクラッチでやり直したいと思うのがまともな人間だ。
 まともな頭では全体主義にも個人主義にも抵抗できない。

 緊縮財政を支持する日本の左派は「ねじれている」と言われるが、本当にそうだろうか。
 左派の本義が主知性にあるのだとしたら、どこか理解できるところもある。
 それは「訳のわからない」因習のコードを破壊し、不当な差別を廃するプロテスタンティズムでもあるからだ。
 それでいて勿論宗教運動ではないから、自らが破壊してしまった「自然」に対する言い知れぬ罪責感がある。
 抵抗なき特急列車の走る世界には、禁を破ってしまった負い目が匂う。
 その反転がある種のストイシズムであり、合理的な緊縮財政とも言える。
 どこまででも一気に走れる世界になってしまったのなら、走らない為には自制しかない。
 己を律する理性がなければ、この自由な世界では生きていけないし、世界そのものを維持できない。
 そこから倒錯的ストイシズムが生まれる。
 エコロジーしかり、ロハス的思想しかり、無駄を嫌う合理化志向しかり。
 自由なプログラミング言語は周転円的コーディング規約を生むが、「馬鹿を前提にした」型厳密な言語にもそれこそ刑務所的息苦しさがある。
 いずれも人の理性で全体を収めようとすることから生まれたストイシズムだ。

 アジア・アフリカの諸地域にキリスト教が浸透していった時、彼らは力にものを言わせて改宗を迫った訳ではない。
 白人もキリスト教徒もそんなに愚かではないし、もっと「合理的」だった。
 実際、つまらない因習から解き放つ面もあったのだ。
 愚かな迷信や差別に囚われた人々を自由にもしただろう。
 すべての「解放運動」はそのようなものだ。
 日本の「アジア解放」もまた、全くのハリボテではなかっただろう。そんな風に捉えるナイーヴな左派思想は、解放というものの持つ真の深淵を見ていない。
 解放ではなかったから問題なのではなく、解放であったからこそ問題だったかもしれないのに。

 ある種の浄化運動として、無数の中間者、「神々」を廃し一括統治するのは、債務整理にも似たところがある。勿論それで一番得をするのは弁護士なのだが。
 それでも、時の流れや地理的な距離、人々の無知によって積み重なっていく付加物を取り除く運動には、カウンターとして一定の意味があるだろう。
 プロテスタンティズムもサラフィー主義も、それ自体時流との関係で生まれてきたものだ。
 それは愚かでも無意味でも不合理でもなく、むしろ透徹し筋の通った合理的なものだ。
 そして正に、その合理性それ自体が、わたしたちの理性を越える秩序を脅かしもする。
 その秩序とは、わたしたちの存在など石ころほどにも目にかけないものだ。
 地球は泣きも笑いもしないし、人類が滅んだところで気にかけることもない。
 主は理不尽で圧倒的な富者であり、わたしたちの理解を越える御方である。

 多分、人々は啓蒙され過ぎたし、人類社会の回転は速く合理的になりすぎ、地球は狭くなりすぎた。
 浄化の速度が速くなりすぎている。
 それを理性的に統御しようとするのは倒錯的ストイシズムであり、エコやロハスと変わらない。
 もしこれに何か抵抗するものがあるとしたら、それは総じて見て「愚かな」ものだ。
 十分に説得力のあるものに説得されない頑迷なものだ。頭が悪すぎて説得できないのだ。
 理不尽なスパゲッティコードそれ自体を盲信し、ただただ触らないでおくか弱き迷妄だ。
 そうした父を心地よく感じるか、と問われれば勿論答えは否だ。
 そして否というわたし自身に、わたしは否という。
 わたしは、わたし自身が受け入れがたい父を、認容し難い制度として歯ぎしりしながら眺めるだろう。
 物分りの良い父がやってきて、うっかりわたしを解放してしまわない為に。

 良い抵抗と悪い抵抗などというものはない。抵抗はすべて(頭の)悪いものである。



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