大きな話には恥じらいが要る

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 弱いことは端的に悪いことで、総ての不幸は弱さから始まる。
 それでいて同時に、わたしたちは皆それぞれの形で弱いのであり、圧倒的富者たる主の前で塵のような存在だ。
 塵の中で少し強いとか弱いとか言ったところで、どんぐりの背比べというものだろう。
 そういう両方を込みで、弱い者に対する慈しみというのがあるのであって、弱者であることが名誉な訳ではない。
 弱い者が守られて当然な訳がない。むしろ踏み潰されるのが当たり前だ。
 弱い者「を」守ることで、そうでないと自分では思っている者が、自身の身を守っているだけだ。
 その身の守り方も、守っている自分に酔い、例えばホモソーシャルな関係における政治的パフォーマンスとして行われるのだとしたら、随分とひ弱な振る舞いと言わざるを得ない。
 ある意味、自らの弱さ、主の御下での圧倒的依るべなさを受け入れ、ただ主の為に、課された義務を果たすのでなければ筋が違う。
 弱い方は弱い方で、弱さを振りかざし「左傾化」した世界での利に走るなら、端的に無様であり、問答無用で踏んでいくべき相手としか言えない。
 これらの営み全体に、一貫した理などない。
 大きく見た時と部分を見た時、どう考えても理屈に合わないところがある。
 弱さという強さを身にまとう貧者もあれば、弱さ故に強者を演じることもあり、要するに何を言っているのか、突き詰めれば随分といい加減な話だ。
 そもそもの強さ弱さという言葉遣い自体がいい加減なのだから、当然の帰結と言える。
 しかしわたしたちは、そういういい加減な言葉で考えてしまうもので、拙く筋の通らないところから物事を見ようとしてしまう。
 本来通らない筋を無理に通すからおかしな話になる。
 頭の弱い者たちの考えることなのだから、大局と部分では筋道が通らないのが当たり前だと思わなければならない。
 互いが互いに、併存不能な夢を見ながら、ほどほどにもたれあっている。
 それなら大きな話などせず、個々の区切られた小さな話だけしていれば良いかというと、そうもいかない。
 それもまた弱さ故なのだと思う。
 弱いから、生きるには言葉が要る。
 大きな言葉を嗤う者は、単に生きていないだけだ。最初から生きるのを諦めている。
 そんな者を踏むのに躊躇してはいけない。死んでいるならそれ以上殺そうがどうということもない。
 勿論、ただ語ればいいというものではない。
 弱さ故に強さを身に纏い、大きな言葉を吐くには、相応の肉片を己から切り取り差し出さなければならない。
 命を削るから命があるのだけれど、ただ厚顔無恥に削ればいいというものでもない。
 大きな話には恥じらいが要る。
 多分その話は間違っているのだから。



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