罰に無限の力を与えてはいけない

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 罰したい、という欲が様々なものを回している。
 害されたから報復したい、というのとは異なる。自分自身、または近しい者が何らかの被害を受け、それに対し仕返しをしたり償いを求めたりするのは、復讐というものであって、ここで言う「罰したい」とは違う。
 自分自身が直接的に何ら害を受けていないけれど、ある対象が「罰されるべき」ものとして映り、何らかの形で「報い」を与えようとするもの。
 いわゆる「バカッター」的な事例で、被害者でもないのによってたかって吊し上げにしようとする心理、著名人の不適切な行い、性的醜聞に群がり「社会的制裁」を加えようとするもの。
 「罰したい」がこれらを駆動している。
 罰している時、人は自分より大きなものと一体化できる。自分の受けた害に対し報復しているのではないのだから、超自我的な法の水準に立って、あたかも個を越える強大な力を纏ったような気分に酔える。

 悪というのは弱いものだ。
 一般的に言っても、いわゆる犯罪者になる人々、犯罪を生業としてしまう人というのは、社会的弱者である場合が多い。そして悪は日に晒されれば一斉に「罰」の矢を全身に浴びることになるし、悪人たちは疑心暗鬼になり陰から陰へと渡り歩くより他にない。そうでなければ、十分に大きな悪に育てて「非悪魔化」してしまうかだ。コンプライアンスに沿って合法的に運営しておけば(あるいはそれが合法であるように法を曲げれば!)、そうそう小市民たちに足をかけられることもない。

 日本の左派と右派には経済政策におけるねじれがある、と言われる。右派とされる人々がケインズ主義的な景気刺激策を採る一方で、左派・リベラルの方が緊縮財政や構造改革的な思想を支持してしまう。その背景にはバブルのトラウマというのもあるだろうし、様々な要因が考えられるだろうが、どこか道徳的な匂いが拭いきれない。ある種の潔癖さ、「本来退場すべき」企業を正しく罰して整理しようとする正義感、好景気がかえって企業努力を削ぐとでも言うような、規律への一体化から来る力動が機能しているようにも見える。(アベノミクスを否定するためにむしろ不景気を望むような!)
 市場原理でやっていくなら苦しみに耐えなければいけない、という、転向マルクス主義者の末裔的な心理が、無意識的に働いているのかもしれない。

 相撲界での醜聞に人々が群がる。狭い閉じた世界で、その世界でしか通じない基準に則り「罰した」者が、より大きな世界の、当事者でも何でもない人々の罰の矢を受ける。
 サバルタンを代理し語るリベラルのような心理が、無数の罰の矢を放つ。
 かつての左派、学生運動的な世界は、理知性の限界を識るというか、右派的というか、ファッショ的な要素があり、「俺の町」的な倫理が機能していたように見える。内輪の揉め事を外に漏らさない、国家権力の介入を許さない。大学自治など典型だろう。そこで掲げられる思想信条がいかに左派的なものであれ、「俺の町で勝手は許さない」、内のことは内で、という、むしろ右派的でマッチョな機勢が働いていたのではないか。
 そうした系を区切り極力ローカルに解決すべき、という倫理は既に失われた。
 現代リベラルはむしろグローバル志向・フラット志向であり、見通しの良く一つの秩序が隈なく照らす世界を好む。目立たない場所で行われる「不正」を狩り出し、監視カメラを張り巡らせ、憐れな「弱者」が虐げられるのを許さない。
 あらゆる場所から放たれる罰の矢が、あらゆる場所に降り注げる、障害物のない世界を夢見ている。

 ある意味、左派はより一層左派になり、世界を左傾化している。巨大な秩序と一体化し、善意の市民がいつでも罰の矢を放てる、スターリニズム的厳格性こそが、現在進行中のディストピアだろう。
 そこには、没個性化し「大人」に徹する物分りの良さが、反動となって現れているのかもしれない。当事者でもないのに大きな善と一体化し罰しようとするのは、不良少年がバイクに跨り巨大な力を一気に手にするような、ロボットアニメ的なインスタントな力、ある種子供っぽい快楽がある。日常世界で余りに「大人」になってしまった人たちが、うっぷんを晴らすように正義を見つけては子供っぽい遊戯に心を逃しているのかもしれない。
 そうした誘惑を完全に断つというのは現実的ではないだろう。それならそれで、素直に子供の面を捨てなくても良い筈なのだが、倒錯した形で、コンプライアンスに則ったスーパーパワーを駆使しようとする。

 本当のところ、世界はそれほど正しくないし、正しかったことなどないのだ。それが人の生きる世界というものである。
 とても狭い、試験管の中のような場所である種の正義が透徹していたとして、その一歩外には荒々しい自然があり、筋の通らない砂漠が続くのが普通である。
 しかし試験管内的な幻想を抱えたまま成長した人々が、その正義を世界全体に敷衍しようとする。自由と民主主義をグローバルに輸出するように。

 物事は抽象化され秩序だてられる程、幼児的になる。
 「抽象的なもの」は一見難しそうに見えて、子供こそ抽象的・模式的に思考する。
 「上野動物園があるなら下の動物園もあるだろう」と想像するような、文法と論理を優先する思考様式である。
 世界の実相は子供の思考を越え複雑で、理解を拒む。世界は基本的に雑然としていて「わからない」ものだ。そうした有象無象を捨象しシンプルな秩序で統べようとするのは、不良少年のバイクや巨大ロボットと変わらない。
 にも関わらず、極端に射程の長い正義に乗って罰を下すことが、大人の振る舞いとして既に正当化されてしまった。

 勿論、内に隠されることで腐敗する悪というのはある。
 いじめの問題が校内で処理されもみ消されるような事例に対し「さっさと刑事問題化すべき」という理合いはよくわかる。
 やむなくより一段大きな秩序が介入し、清浄化しなければいけないケースもあるだろう。
 問題は、そこに対する抵抗感が無化されてしまうことだ。
 おそらく、衆愚的な「罰したい」に対する敷居があまりに低くなってしまったのだろう。
 当事者周辺であれば、介入する正義、介入しない正義、それぞれのコストと利得を肌身で知れる。
 それがわからないところから、ワンクリックの善意が簡単に発射できるようになってしまった。

 どんな正義でも秩序でも、射程距離というものがある。大きくなりすぎた秩序は、小さな不正義より一層深刻な地獄を作り出すのに、多くの人々の目が曇ってしまっている。
 正義の輝きに目がくらんでいる。
 皆が皆、罰したくてたまらないのだ。
 それなら小さな世界で、鉄拳制裁でも下せばいい。人ひとりが殴れる相手など知れている。罰することで負う責任もダイレクトにかえる。

 グローバルな射程を手にしようとする左派のスターリニズム的厳格性こそ、最も恐れるべきだろう。
 罰に無限の力を与えてはいけない。



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