見てわからない秩序だけが人の世界を作る

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 寛容さを標榜する者は大抵さほど寛容でもない。
 「寛容と言っても何でもアリでは困る、一定のルールを守ってその範囲で自由にやってもらわないと」という、いかにも折衷的で「大人」な言説こそ、目に見えにくいスターリニズム的支配を構成する。
 寛容さなど、さほど美しいものではない。極限的に寛容であれば、それはいい加減とか無秩序と変わらなくなる。それでは困るから「枠」を設けるという。その枠はどこから来るのか。勿論、人民により民主的に決定されたのだろう!
 単なるいい加減に堕ちてもそれはそれで良し、くらいの意気でなければ真に汚れた寛容とは言い難いし、そうでなければ所詮「カウンター」の類だ。
 カウンターというのは、何かが来るからカウンターなのであって、それ自体では思想でも何でもない。何かが来てから後処理だけする、警察行政的な振る舞いに過ぎない。
 同じ「カウンター」の語からの連想で言えば、打撃における所謂カウンターは、結果としてカウンターになるから意味を持つのであって、狙って打つカウンターなど当たるも八卦外れるも八卦、今日勝っても明日は負けるかもしれない、根のないものでしかない。ついでに言えば、付け焼き刃で何かを狙いに行くと、身体が固くなって大概一歩も二歩も遅れを取る。
 たとえば「差別」に向き合うとして、その差別が顕在化し暴力化したところを叩くのか、言説を叩くのか、思想を叩くのか、良心を叩くのか。いずれ「カウンター」の類にしか過ぎない。どうせ叩くなら内面まで叩き尽くさないといけない。そうでなければ学級委員や「地域の目」と五十歩百歩だ。内面まで叩けばそれはもう行の類で、ある種の暴力性を孕む。歓迎はされないだろうが、そういう存在というのは世の中にある。
 それこそ、こうした「気の触れた」連中すらいるという、この雑然さへの諦念でなければ「寛容」など無意味だし、勿論この時寛容は寛容の名に値するものでもなく、自らの無力、悪、汚辱に対する諦めにすぎない。むしろその方が真っ当である。
 看板に使われる「寛容」、リベラルの「寛容」とは、まっさらで自由の効く議論の土台、ゴミの落ちていない道、黙って話を聞ける人民、そうした仮構の上で振りかざされるものでしかないし、そこから一歩外れた者はバルバロイとして駆逐されるし、その駆逐すら不可視化される。
 もし寛容を言うなら、それは悪に対する寛容でなければいけないし、勿論、そうしたものを彼らは寛容と呼ばないだろう。呼ぶ必要もない。
 それは理解を越えるということで、理解を越えてなお、何かが残る、という確信がなければいけない。
 「わたしにはわからないが、わかるものが確かにいるのだろう」ということだ。
 先日紹介させて頂いた松山先生の著などで平易に示されているが、何かを悪と認め、尚且つ信仰を疑わない、というのはそういうことだ。自らの理知を予め限界づけ、それに余る分は、主と彼の人との関係に任せるしかない。

 見てわかる「ルール」になってしまった途端、総べてがフラットになる。法は破棄されず延々と積み重なる。抽象化された力は無限に延長される。
 見てわからない秩序だけが人の世界を作る。



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