世の中を(自分達にとって都合)良くしようとするのか否か

 世の中を(自分達にとって都合)良くしようとするのか否か、という線がある。
 例えば、個人的に馴染みのある外山恒一界隈などは、これが政治運動として成り立っているのか、という問いがある。勿論、政治運動でなくては無意味という訳でもなく、他にも様々な価値が世の中にはあるのだけれど、果たしてこれは「世の中」に呼びかけ作用する性質のものなのか、とは常に問い得る。
 同じ発言やパフォーマンスであっても、世の中良くしようとして言っているのか、全然そんな気や期待もなく、憂さ晴らしや表現など、別の理由で言っているのか。どちらだってあり得る。
 尚且つ、この両者は明白に弁別できるものでもない。その気もないのに世の中が変わることもあり、必死で世の中良くしようとしているのに、パフォーマンスの為のパフォーマンスとして受け取られることもある。政治と芸術の間には必然的な越境性がある。国境線から遠く離れて呑気に暮らす政治や芸術があっても良いが、思わぬ所に飛び地があるのがこの世界であり、ただ漫然と「自分は無関係」と信じている表現は大抵つまらない。

 そもそも世の中は「変える」のか「変わる」のか、という問いがある(わたし個人は「変わる」程度にしか思っていない)。

 更に、ここで変える(変わる)世の中とは何か、とも問える。
 これは非常に重要な点で、社会というと社会全体のことを想起してしまうトラップがある。社会全体と言わないと社会にならないかのようなトリックである。全体を引き受ける境界を持った一つのまとまり、というイメージに引きずられてしまうのだ。
 その全体性の閾が何によって決定されているのか。全体と言ってしまった途端に社会が掠め取られる。狭義の政治が政治を占有する幻想を強化するだけになる。

 そうは言っても、身の丈にあったローカルな社会を重視する市民運動的なものを称揚している訳ではない。そうした活動の意義は多いに認めるが、「許された範囲で」行動することで(意図せずに)政治占有構造をかえって強化してしまう罠がある。
 だから「いつでも越境できますよ」というポーズが必要であり、外山恒一の活動などは(是非はともかくとして)この辺のエキスだけを抽出したものなのだろう。越境の微分、とでも言いたい趣きがある。
 社会を全体で考えないということは、極端な話、内戦分離独立も辞さず、という態度のことを言う。勿論、内戦をやらなければいけないということでは全くないが。

 時々越境攻撃をするだけで普段は国境の向こう側にいるのでは政治と言えない、向こう側に住んで行動すべきではないのか、というのにも一理ある。また逆に、向こう側に住んで時々こちらに越境してくる、というやり方もある。向こう側最右翼の「政治家」で、真剣にシモジモの様子を見に来る者だっていくらでもいる(悪趣味感は否めないが)。
 一方で、この大人のロジックが十分に説得力を持ってしまう「成熟した社会」に飽き飽きしている、という人々も少なくない。地球のどこに行ってもこんな社会があるわけではない。向こう側に住むくらいなら、政治丸ごとクソ食らえという気持ちも、個人的にはよくわかる。
 そして、政治未満としか言いようのないものを敢えて政治と言うことも、また政治的ではないのか。

 こういうごちゃごちゃした要素というのは、幼稚で鬱陶しく、いかにも役に立たないように見えるのだ。実際、大して機能はしないだろう。しかし何か、「目に障る」ものの価値というのはある。そこを失ってしまうと、政治が政治でなくなり、完了的な手続きの連続になってしまうような、子供っぽいものがある。
 越境性ということでは、耳障りの悪いことをある程度言っていかないといけないし、そこだけやる人間がいても良いように思う。私見では、フェミの成し遂げた一つの偉大な点は「その話はええやないか」という話をしつこく耳元で怒鳴ったことだ。
 システム未満があり、システムがある。両方に片足ずつ置かないといけない、というのも、また真なのだけれど。

表現の勝手、テロだけがテロじゃねえ



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