恥、神の女、機械人形

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 時が経てば総べてが恥になる。何とかのコンペで賞とったとか大学がどうとか、無価値にはならないが、恥になる。この感じはなんだろう。疲労や皺にも似ている。
 これは所以のよくわからない肉塊のようなものが、〈わたし〉との連続性を信じられている、ということから来る感情かもしれない。わたしたちは、世界に呼び出されその「唯一の対象」であった時のことを覚えていないが、にも関わらず、その間の連続性を疑うことはない。疑わない、ということで「こちらが側」の象徴経済に参加している。尚且つ普通、この時代の自身のことを恥じるという感覚はない。わたし個人にもない。
 時が経って恥になるものは、それ自体が既に何かの反復なのだろう。記憶の連続性があるからこそ、何か違和がある。あるいは、記憶の連続性などというものが何の役にも立たない、ということの破廉恥さに、わたしたちは赤面しているのだ。

 ある行為などが結果として恥になるのか。少し違うのではないかと思う。
 これはまったくの個人的経験だが、ある時突然、わたしは自身を恥として発見した。振り返って考えれば、それへの適応、あるいは防衛として、恥そのものとなり一致させよう、と行動していた。最初に恥があるのだ。
 何かが「決定的」になったと感じた。「決定的」というのは、短絡(ショート)する、ということだろう。次のシニフィアンへと回付されるのではなく、意味そのものが一枚の絵として開示される感覚。端的に言えば気が触れたのだと思う。その時は勿論、こんな冷静には考えられなかった。
 恥とは燃え滓のような物質であり、それが私だと見つけることだ。

 自身を恥そのものとして発見するとは、実は自分こそが窃視者であった、と気づくことだ。つまり窃視者として「見られる」こと、覗き見を見られること。サルトルが消え去ると考えた、発見された窃視者の眼差しが、消失点として零にならず、燃え滓として残るもの。そう、それは消え去ったりはしない。〈わたし〉は零ではないし、世界の開きの点でもない。何か、延長を持つ不気味なものが残る。
 そこで世界が裏返り、形が無限に問われる地獄になる。何故ならその形とは、失われた〈わたし〉の背中、「世界にとっての〈わたし〉」の存在そのものだからだ。

 普通、この形は対象に転化されファンタスムを形成する。不気味な燃え滓は、中身を見ることのできない美しい皮膚の中に隠蔽される。この関係も儚いものではあるが、対象は交換可能なので移ろいゆく余地がある。この対象が駄目ならあちらの対象、という訳だ。腹を裂いて見た訳ではないから、「ここ」になかったからといって諦める必要はない。
 しかし発見されたのが自身の形である場合、交換はできない。緊張型統合失調症のような、身動きできない形地獄が出来上がる。
 これは単に、〈わたし〉の形を〈わたし〉の形に求める、という自己撞着ではない。対象として探し求められる〈わたし〉の形とは、記憶の連続性が途切れていながらなおかつ〈わたし〉だと信じられている、あの寄る辺ない胎児の残像だからだ。誰かの目に映った対象としての〈わたし〉の像。その形が、ヒトになった後で獲得された「人類共通の人間像」である訳がない。わたしたちが普通に鏡や人々の姿を見て、そこでなんとはなしに見ている、あのイメージである訳がないのだ。
 必然的に、今ここで〈わたし〉の形の中に失われた形を発見することは、その皮膚の下にグロテスクな肉塊を見ることになる。何か、目に映る像の向こうに、対象があるに違いないのだ。そうした眼差しで見る時、顔は統合を失い、ゲシュタルトが崩れ、とりとめもない肉の断片となっていく。

 醜形恐怖の根底にあるのは、何者かの対象としての自らを問うという社会的行為ではない。「人類共通の人間像」ではない。これらはわたしたたちがある段階で獲得した統合イメージ像であり、それを元にして、わたしたちは社会関係を営み、その中では勿論、見目の良し悪しといった価値が流通してはいるが、ここで問われているのはそうした美醜ではない。象徴経済の内部では交換不可能なものだ。
 既に失われた「世界にとっての私」、神の女が問われている。神の女の正確な形状を思い出せないから、周転円的な妄想形成に至る場合もあるが、そこは寧ろ治癒の過程で核心ではない(語れる何かがあるだけ、それは象徴経済と親和的ではないか!)。自らの形を賭け金として差し出し、問うているのだ。
 しかし問われているのは〈わたし〉の欲望なのだろうか。欲望にすら至る前の、存在が問われているようにも思う。

 逆に言えば、社会的営為の中で問われる美醜の方にことを引っ張ってくることができれば、もうその人はかなり「治っている」ようにも思う。人と人の関係の中で承認されるとかされないとか、そうした下世話な問題系ですり替えることができるなら、それで糊塗してしまうのも一手かもしれない。
 わたし個人について言えば、適切な「代理人」がわたしを正常な形として認識するのならもうそれで良い、とも思っている。大分人間になった。

 窃視者として発見され燃え滓となった瞬間、それまで築き上げた統合された像が分解し、バラバラの四肢になる。そこからサイボーグ的に組み上げて人工的に再構成したのが、例えばわたしだ。これを(再)人間化するなら、「天然物」の順列組み合わせから神の女を構成しようとするのでは駄目なのだ。
 繰り返すが、「代理人」に人間としてのわたしを発見して貰う、という方法はある。実際問題としてはこれでも事足りるかもしれない。しかし背後にある理念としては、神の女を「天然物」から選り分けるなどということはできない。「天然物」自体が既に象徴経済内部で流通するフィクションなのだから。

 サイボーグ化してしまった人間は、その前に天然の統合像があったという物語自体を一旦棄てないといけない。最初からバラバラの機械の寄せ集めなのだ、と気づかないといけない。もう一度、最初からやり直す必要がある。大人の為の処方箋でやり過ごすことはできないし、そういう付け焼き刃を重ねて、それこそ「かのような」人格で騙し騙しやってきた結果が「これ」なのだから。
 必然的に、この機械の物語は天然の物語と対立する。多くの人々は、最初に獲得された統合像を「自然」と信じ、その上にファンタスムを形成しているからだ。サイボーグの物語は自然信仰者達にとって異物である。
 なおかつ、「これは異物である」などと全体を俯瞰する視点で眺めていては、形地獄から抜け出せる加速度は得られない。
 物語というのは侵略的であって初めて機能するのだから、必ずその内に暴力性を秘めていないといけない。暴力発動の際に触れながら、「機械の向こう側にある本物」という、大人用の物語がわたしたちにもたらしてしまう無限地獄を抜ける速度を獲得しないといけない。
 結果的に、それだけが「共存」の道になる。あくまで結果だ。

 本当の所、わたしたちの物語の方が真理なのだ。実際わたしたちは、バラバラの機械の寄せ集めなのだから。「天然物」すら既に人工物なのに、それを覆うことで彼らのホメオスタシスは出来上がっている。
 傍から見ればぎくしゃくとまるで繋がらないロボットのようなのに、対象を外部に転化することで幻想を維持できているにすぎないのだ。
 だから見るが良い、彼らは美しいアスリートや女優を次々に交換し、像を渡り歩くではないか。パズルのピースのように動かすことができる、「言語のように構造化されている」ところに、像を乗せているのだ。神の女を永遠に先送りしホメオスタシスを維持する装置である。

 先送りを拒否した者は、「決定的」となり、ある場合は硬直した形から身動き一つ出来なくなり、ある場合は自らの身体の内側から像を掘り起こそうと無限に問う。彼らの物真似をしても抜けられない。物真似の物真似こそが窃視者の要件なのだから。
 わたしたちにはわたしたちの物語が要る。わたしには形を整える為に自分で足を切断した人間の気持ちが非常にわかるが、そういう人間は、足は既に切断されているのだと気づかないといけない。もう既にバラバラの機械であり、神が最初に機械を作られたのだ、と気づかないといけない。
 神は土塊から人を作られたが、その土塊は均質ではなく、小枝が混じったり石のように固かった。滑らかな粘土などではなかったのだ。主は慈しみ深く、粘土のような物語で機械人形達を慰めたが、わたしたちはそのもう一つ前の歴史を再発見しないといけない。

 今のところ、これくらいがわたしに辿ることのできている総べてである。
 この範囲だけでも、機械人形としての創造論と、「人間の女」として「代理人」に頼る方法、両者の間には齟齬がある。何がどうこれらを仲裁するのか、わたしにはまだわからない。



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