ニセ科学批判、四つのディスクール、正しさへの抵抗と最後に発見されるものしての名

 所謂「ニセ科学」を一つの端緒に使って、一つメモしておきます(面倒なので、以後「所謂」も括弧もなしで単にニセ科学と表記します。その定義や呼称の妥当性についてはここでは議論しません)。
 といっても、ニセ科学を巡る社会的問題や法的問題、あるいはそれこそ「科学的」妥当性については論じません。色々な問題があることでしょうし、実害があるならそれはそれで個別に議論して頂いたら結構かと思っています。もっと言えば、ニセ科学とそれに対する批判というのも、話の枕に使っているだけですので、そこに真剣に命をかけてしまっているような方はあまり関わらない方が賢明かと思います。
 気になるのは、「それ」を一般の詐欺と分かつものは何なのか、という点が一つ。何も変わりはしない、ただの詐欺だ、というならそれでも結構なのですが、主にニセ科学批判をされている方々(とりわけ専門職ではなく何となく取り巻きで批判しているくらいのコミットの仕方の方)の心性に、やはり「詐欺ならぬニセ科学」に対する強い嫌悪感のようなものを感じるところがあります。
 ニセ科学側の心理については、難しいことは何もありません。一つには単にビジネスということ、もう一つには彼彼女ら自身が強くこれを信じていて、ある種の信念共同体を形成しているということ。どちらも想像に難くないですし、わたし自身、両方とも素朴に了解できますし、個人的にはどちらについてもそれ自体を批判するつもりはありません。人間社会などその程度です。
 ついでに言えば、所謂ところの詐欺についても、勿論褒められたことではありませんが、おそらく有史以来詐欺の存在しない社会などありませんでしたし、多かれ少なかれ詐欺師的な人々が混ざっているのが人の世というものだと思っています。そもそも、どこから先が詐欺などということは本来不分明で、その辺の営業マンだって詐欺一歩手前のようなことは普通にやっていて、詐欺的とも言える手法を称揚するビジネス書が売れていたりする訳です。と言いますと、「そこには法的なラインがあって、その枠内であれば正当なのだ」と当然批判されるでしょうが、正にその「正当性」なるものについてこれから考えたいので、少しだけお待ち下さい。
 もう一つ余談ですが、上で触れた「もう一つ」の方、信念共同体という性質について、現在の日本語文脈の中で安易に「宗教」呼ばわりすることが流行しています。これらは宗教を信念体系のようなものだと勘違いしていることから派生している言い回しなのでしょうが、宗教のことも信念共同体のことも見えなくする馬鹿げた用語法でしょう。とはいえ、所謂宗教の人々が、自ら信念共同体や規則共同体のような振る舞いをして自らそれを信じていたりするので、致し方ない面もあるかと思いますが。I believe thatの後に入る文句を(整合的に!)集めたようなものを集団でシェアするなら、単に信念beliefと言えば良いかと思います。

 前置きが長くなりましたが、仮にニセ科学を詐欺から分かつもの、あるいは詐欺概念より溢れる何かがあり、そこにニセ科学批判のエネルギーが流れ込んでいるのだとして、それを駆動しているのは何か、という所が気になっています。繰り返しますが、彼らのニセ科学の具体的内容やそれに対する具体的批判等については一切触れません。対象がニセ科学であるにせよ詐欺であるにせよ、問われれば同様に「あんまりよろしくないよね」と思ったとして、敢えて声を荒げる人とそうでない人がいて、彼らを駆動している動力、そこだけがここでの対象です。
 ここですぐ連想するのが、四つのディスクールのうちの大学人のディスクールで、知S2が動因agentとして対象objectの位置にあるaに作用した結果、斜線を引かれた主体$が生産物productとなる、というものです。詳細について興味のある方は各自お調べ頂いたら良いかと思いますが、知そのものが語るかの如く対象に対し作用する一方で、心理truthの位置に抑圧して置かれているのは、S1主人のシニフィアンとなっています。要は、科学の語らいにおいて、(「私」ならぬ)知自体が語る一方で、抑圧された真の出発点は主人のシニフィアン、言わば「それがわたしだ」と明言できる大文字の名にあります。背後で隠されているのは権力構造なのです。
 「それがわたしだ」が最終局面で産出される、蛇行を通じて最後に発見される(そしてしばらく経つと全くの勘違いであったかのように色褪せる)というのは、それはそれで美しい体験なのですが(というよりほとんど結語)、自らの何者性を自明の出発点として語る振る舞いは、言わば「大人であることにあぐらをかいた」権力者の態度とも言えます。主人のディスクールがこれにあたりますが、そこではS1主人のシニフィアンがS2知に命じて対象aを産出しています。少し昭和オヤジ的なイメージで、いかにも近代の匂いがします。ただラカンの存命当時ですら主人のディスクールは退潮に入っていると(確か)触れられていて、今や誰もそこまで露骨にマッチョに振る舞い、自らの名を自明事として語ることなどできません。
 これらの関係を良い抵抗と悪い抵抗などというものはないから始まるフラット世界と抵抗の文脈で捉えるなら、露骨に示される主人のディスクールなどは今や風前の灯火、実際に支配しているのは知自体が語るかのようなつるんとした知的スターリニズム、「科学的社会主義」ということになります。筋道通って見通しの良い世界、バリアフリージェンダーフリーな「正論がまかり通り」(「正論のまかり通る」時代)、PC化した世界。この「左傾化」した世界において支配的なのは大学人のディスクールであって、そこでは一見、無名化・匿名化した知自体が対象に作用してるようでありながら(匿名社会!)、その実、駆動しているのは抑圧された主人性であって、最終的には産出されるのは、無残にも斜線を引かれた主体$ということになります。$は何者かを失った、あるいは最初から奪われている主体であって、そうしたものが社会のあらゆる隙間にゴミクズのように落下していくのですが、上段を占める知と対象のやり取り、「公式の世界」の中には現れません。ただ「公には語れないこと」として、明るく正しい社会を守る監視カメラの死角、路地裏のゴミ溜めのようなところに吹き溜まっていくのです。
 かつて抵抗は主人ヅラをして語る昭和オヤジ=近代的支配者に対し、主人のディスクールにおいて真理の位置に抑圧され置かれている斜線を引かれた主体$もの申すものだったかもしれませんが、今やそのような牧歌的時代は終焉し、子どもたるところの主体$は、ただ生産物=廃棄物として最終局面に捨て置かれ、大きな顔をして語っているのは知そのものです。かつての闘争において、主人S1に命じられるままであった知S2は被抑圧者の武器になったかもしれませんが(大文字の正義の戦い)、その武器自体が今や我が物顔で語っています。「正しさ」が味方になる時代は終わったのです。

 ニセ科学批判もまた、「正しい」のです。テイがガチになる「システムしかない世界」への抵抗で「PCというのは基本的に『正しい』からね。これとどう戦うのかというのは、すごく難しい」という旨の外山恒一氏の言葉に触れましたが、似た関係がニセ科学批判についても言えます。勿論、厳密な意味、「知的・科学的意味」でのその批判の正当性というのには、各論として議論する余地はあるでしょう。つまりニセ科学批判の科学的正当性ということで、もしかすると「正義の批判」に見えて厳密なところ科学的正確さに欠いているものもあるかもしれない。しかしこれらはいずれも大学人の語らいの釈迦の掌、科学と言われるこのものが内に含む(含みうる)正当性を巡る議論であって、聖地巡礼にも似た一連の儀式的振る舞いに他なりません(念のためですが、そこに科学的意義がないというのではありません、当然あるでしょう、聖地巡礼に宗教的意義があるように!)。
 このような議論に、(大学人ですらない!)ある種の人々が動員されるのは、フラット化した世界に我先に統合して頂こう、という焦燥の為せる業に他なりません。このような人々は、かつてのようにS1を振りかざし、我が何者かたるを語る必要はありません。そんな振る舞いは、このお上品になった世界ではむしろマナー違反です。我を殺し、名も失い、ただ知に隷属するものとして、「正しさ」にひれ伏すものとして、無名化してなだれ込むより他にありません。主人のシニフィアンS1は抑圧された真理の次元に収まっていて、もう「語らずとも自明」なのです。
 うっかり取り残されて斜線を引かれた主体$がその名を求めて主人たるS1に語りかけようにも(ヒステリー者のディスクール)、今や堂々とS1を掲げるマッチョな男も滅亡寸前です。問いかける相手すら雲隠れしてしまっています。ゴミのようになった名も無き主体は取り残され、ただの「痛いヤツ」となって裸で通りに放り出されるのです。
 それの何が問題なのか? 正しさの支配する世界なら大いに結構ではないのか? 確かにその通りです。彼または彼女が正しい限りにおいて、正しい世界は素晴らしいでしょう。ですから、正しさも大文字の正義も今や武器にはなりません。わたしたちは、わたしは、それほど正しくもない人々、知に乗り切れなかった者、「自己管理」の不十分な者について考えています。なぜならわたしたちは誰しも、それほど完璧には正しくないからです。わたしたちは別段、正しくある為にこの世に呼び出された訳ではないのです。この闘争における抵抗は、正しい抵抗としてはあり得ません。抵抗は常に悪いものです。
 ニセ科学批判の文脈において、わたしは別段ニセ科学の肩を持つつもりはありません。いや、正確に言えば、多少なりとも詐欺師どもを応援したい気持ちはあります。大きな詐欺師は伝統的作法に従って知と正義によって殺せば良いですが、小さな詐欺師は知と正しさの支配する世界に対する抵抗となり得ます。スケールというものが、質的差異につながっています。大きいものは小さいものが単に大きくなったものではありません(大きいものと小さいもの)。ですから、ニセ科学の肩を持つところも本当は少しだけあるのですが、本当の問題はそこではありませんし、ただ、知のお仲間に加えてもらいたくて必死の浅ましい連中の見苦しさ、正義の名の元にフラット世界を強化しようとする流れ、そうしたものへの抵抗として、使えるものは何でも使おうではないか、と考えているだけです。

 今、抵抗として考え得るものは何か。ゴミクズのような者たちに語りかける言葉とは何か。それを可能にするには、知を一旦抑圧し、隠された真理とし、正しさから手を離さないといけません。わたしたちは、かつて闘争の武器であったもの、生命線であったものから、一度は手を離さないといけません。そこに残るのは対象a、「なんでもないもの」です。この体勢は分析家のディスクールにも似ています。わたしたちの闘争は、名も無きゴミとして生産=廃棄される主体に語りかけることであり、そこで機能するものは正義でも理念でも科学的妥当性でも正しさでもなく、なんでもないものであり、渦巻く愛憎であり、アウラであり、まったく躾のなっていない「悪いもの」、始末に負えないものに他なりません。
 子どもたちは問うているのです。あなたがわたしを愛するのは何故にか。そこに主人がやってきて、自明の名を振りかざす大きな者がやってきて、それで蓋をしてくれる時代は過ぎ去ってしまいました。大きな名前は、今や知の元に抑圧され、隠蔽されています。父は知にひれ伏しています。
 この世界にわたしを生み出したのは何故にか。そのくせ、今ここでゴミ溜めに放り込まれているわたしは誰なのか。そこにこたえられるものがあるとしたら、それは何一つ良いところのない者たちの中に何らかの拾い上げられる属性を見つけ出すことではありません。はっきり言いますが、そんな属性などないのです。あなたは何一つマシなところのないクズです。属性で人を見る、属性で語る、属性で人々をまとめる、そんな試みは総べて無効です。
 わたしがあなたを愛するのは、あなたの中にあなた以上の何かを見るからです。
 それはあなたの属性ではないし、勿論わたしの属性でもない。それがどこから来てどこに行くのか、わたしはそんなことは知らない。なぜならわたし知そのものなどではないのだから。
 そうして、あなたは、一番最後に自分の名前を見つければいい。与えられるのではなく、抑圧されるのでもなく、発見される名前を。正しさが覆い隠してしまった、あなたの本当の名前を。
 この抵抗以外に、今なお息を吸ったり吐いたりする意味があるのでしょうか。わたしは知りません。



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