偽善者より真の善人の方が遥かに恐ろしい

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 「偽善者」というのは普通、人を悪しざまに言うのに使う言葉です。これに対し「やらない善よりやる偽善」といった擁護というか、真の善性の過度な追求を諌める姿勢もあります。
 しかしもし、真の善人というのがいたとしたら、それは「偽善者」よりずっと恐ろしいものとして目に映らないでしょうか。
 「お父さんお母さんを大事にしましょう」でも「人のものを盗んではいけません」でもなんでも良いのですが、もしそういった素朴な「善とされているもの」を、心の底から一点の曇りもなく信じている人がいたとして、そういう人を前にした時、わたしたちの多くは不気味なものを感じるように思います。
 いや、本当のところどうなのか、今ひとつ確証はありません。少なくともわたしはそう感じるのですが、それはわたしが「偽善者」であるか、あるいは単に悪人だからであって、世の中の結構多くの人は、意外と「真の善人」に肯定的なのかもしれません。より正確に言えば、表面に現れる善性に対して、それほど「真の善性」だとか「偽善」だとか、そういった視線をもって詳しく見ていこうとしない、という人も決して少なくないのかもしれません。多分、このブログを読んでくださるようなこだわりの深そうな人にはこの話はある程度通じるかと思うのですが、公平な目で世の中を眺めてみると、結構多くの人は善性に対して精査しようという契機をそもそも持っていないようです。そういう人たちにとっては、「真の善人」だろうが「偽善者」だろうが表面的にはさしたる差はないもので、大した問題ではないことでしょう。
 ですから、このお話はちょっと微妙なものがあるのですが、素朴な「善」を心の底から曇りなく信じている人というのは、わたしにとっては恐ろしいです。
 この感覚を説明しようとすると、いわゆる「天然嫌い」に似ているように感じます。
 天然キャラを嫌う人たちというのは(わたしを含めて)結構いて、特に女性で天然な女性を苦手としている人は少なくないと思うのですが、この気持ち悪さと通じるものがあります。天然嫌いには天然キャラの「あざとさ」を嫌う一面があるので、そこは分けて考えなければいけないのですが、もし真の天然、あざとさを一切含まない本物の天然がいたとしても、やはり一定の層の人びとには嫌われるところがあるでしょう。嫌われるというより、何か不気味なものを感じて、関わりを避けようとする、といったところでしょうか。
 自分自身を振り返って、なぜそういう人に対して不気味さを感じるかというと、「あまりに道徳的なために倫理の欠けている印象を受ける」という説明を思いつきます。
 これは、人間そっくりにできたアンドロイドを前にした時の感覚に似ています。このアンドロイドは、なにせ作り物ですから「とても良い人」に出来ています。道徳に反するようなことは決してしません。また、表面的には「良い人」でも実は腹黒い、ということもありません。アンドロイドに「本心」などないからです。こうしたアンドロイドを前にした時、それが大変有能で「良い人」だったとしても、やはりわたしたちは、何か人ならぬものの不気味さを感じるかと思います。
 この不気味さというのは、アンドロイドが人間ではないから生ずるのではありません。むしろ人間に似ているからこそ感じられるのです。自動販売機がボタンを押すと常に正しくジュースを提供してくれてお釣りもごまかさないとしても、わたしたちは何もおかしいところを感じません。
 そして、「真の善人」の不気味さというのも、このような人びとが「人間そっくり」であるところから来ています。いや、彼彼女らは間違いなく人間なのですが、「人間そっくりだけれど人間ではないのではないか」という気持ち悪さがどこかあるのです。
 それは単に、ちょっと悪いところとか、おっちょこちょいなところがある方が「人間くさい」というだけの話ではありません。そういう部分もあるかと思いますが、より重要なのは、あまりにも良いことは倫理にもとるのです。正確には、倫理の次元というのは、ある種の時間差のようなもの、ズレ、逡巡、判断の余地というところから来るのです。
 よくある自由についての議論で、「すべての望みが瞬時に実現されてしまう者がいたとして、その者に自由はあるだろうか」というものがあります。丁度この問いと同じ水準で、「真の善人」には時間差がないのです。そしてわたしたちは、この時間差にこそ自由と「人間性」と倫理を見出しているので、あまりにズレのない人間を前にすると、かえって倫理にもとるような、まるでサイコパスのシリアルキラーでも前にしているかのような、微妙な印象を抱いてしまうのです。
 自由と倫理ということで言えば、宗教の世界には「神が全能ですべてが運命なのだとしたら、悪を行ってもその責任は神様のものなのではないか」という、伝統的な素朴な疑問があります。自由意志というものが見せかけに過ぎず、わたしたちが神様の手のひらの上で転がされているのだとしたら、善を為そうが悪を為そうが、自分に責任などないのではないか、ということです。
 これは子供っぽい屁理屈のように見えますが、素朴な疑問として誠に筋が通ったもので、これに対する答え方にもいくつかの伝統的なパターンがあります(もちろん、結論として人間社会で責任を逃れることはできませんから)。例えば、本当の自由というものが存在しないにしても、わたしたちには「自由の感覚」があり、その感覚の限りにおいて、責任が生じる、といったものです。
 そこの細かいところをどう説明しても良いのですが、肝心なのは、運命というもの、全能で無時間的な神というものと、わたしたちの行為の間には「時間差」があるということです。未来から見て、あるいは時間というものがない前提で見て、すべてが決定しているのだとしても、今この瞬間のわたしたちにとっては「未完了」という現象があります。その限りにおいて、わたしたちには自由と責任が発生し、正にそこが、そこだけが、倫理の場所なのです。
 「真の善人」(であるかのように見える人)の不気味さというのはここにあって、結果の行為として間違ったところは一つもないし、むしろ完全無欠にすばらしく善良であるにも関わらず、決定的な倫理に欠けているような印象を人に与えるのです。あるいは、本当に欠けているのかもしれません。その善良さを揺るがすような出来事に遭遇した時、突然に想像を絶するような狂気を発してしまう、ということも考えられないことではありません。
 逆に、こうした「真の善人」について、例えばそのような人格が形成されるに至った家族的なストーリーであるとか、一点の逡巡の痕跡であるとか、そうしたものが見出された時、わたしたちはそこに時間差と自由を見つけ、安堵します。あぁ、この人にも色々あるんだ、一見出来過ぎた良い子のように見えるけれど、いろいろあって今の彼彼女があるんだ、と感じられるのです。そういう人は、時々悪いことをしてしまうかもしれないけれど、アンドロイドが暴走するような狂気を発することはないだろう、と。
 倫理的であることは、「良い人」であることではありません。そうあることもできた契機、時間差、ズレというものを経由していることです。結果、その人が「良い人」であるか「悪い人」であるか、そこは教科書的な道徳の領域であって、どうでもいいとは言いませんが、一番重要なところではないのです。



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