『亜人』というマンガがあります。
絶対に死なない、死んでも生き返る「亜人」という人たちが登場する作品です。たとえ大怪我をして死んでも、生き返る時には元通りになります。たとえば、四肢などが切断されても、近くにある場合は再びくっつきます。ある程度以上離れていると、肉片の回収は諦めて、もう一度手足などが生えてくる形になります。
この時、切断されたのが首だったらどうなのか、という問題が、作品の中に登場します。
亜人の肉体は、最も大きな肉片を中心に再生される、という縛りがあるため、首だけが切断されてある程度以上遠くにもっていかれた場合、胴体の方に頭が再び生えてきます。記憶や性格なども元通りに再生します。しかし切断される前の「わたし」からすれば、それはあくまで「他人」です。周囲の人にとっては、両者はまったく同一の人物ですが、切断された生首が再生する肉体を眺めている時、やはりそれは、自分そっくりで自分の記憶を持つ別の人間が再生されてくる風景にすぎないのです。
ですから、「亜人」は死なないけれど、ある意味では死ぬのです。
面白いのは、こうしたテーマが作品自体の中に既に織り込まれていることです。
マンガやその他のサブカル的作品を、批評家や哲学者が分析し、こうした「哲学的」で面白い部分を拾い上げる、というテクストはかなり以前からよく見られるようになりましたが、作品自体の中にこの要素が最初から描写されている、というのはなかなか興味深いです。
永井均さんの読者であれば、すぐさま氏の一連のテクストを思い浮かべたでしょう。
ここで「死ぬわたし」と「生き続けるわたし」、何が違うのか、どこで弁別されるのか、そうしたプリミティヴな問いを徹底的に突き詰め、なおかつ極めて平易な言葉で語り続けているのが永井均さんです。
もし永井氏の本を読んだことがなければ、一番にオススメしたいのは『<子ども>のための哲学』と『ウィトゲンシュタイン入門』です。
<子ども>のための哲学 講談社現代新書―ジュネス 永井 均 講談社 1996-05-20 |
ウィトゲンシュタイン入門 (ちくま新書) 永井 均 筑摩書房 1995-01 |
『<私>のメタフィジックス』もかなりオススメです。
<私>のメタフィジックス 永井 均 勁草書房 1986-09 |
わたしが最初に読んだ永井均さんの本が『<子ども>のための哲学』と『ウィトゲンシュタイン入門』で、大学の時に先輩に勧められて手に取ったのですが、大変な衝撃を受け、「もっと早くこの本を読んでいれば!」と悔やまれたほどです。その時は確か大学の三回生で、今から考えれば別に全然遅くないのですが、高校生か大学一年生くらいで読んでいれば、もっと迷わず勉強できたかもしれない、と思ったのです。また、極めて平易な文体で書かれているため、こうした問題系に考えが及ぶタイプの人間であれば、中学生や高校生でも問題なく読むことができた、というのもあります(逆に、関心系が重なっていなければ、教育のある大人が読んでも面白くないのでしょうし、意味がわからないかもしれません)。
このうち『<子ども>のための哲学』は、前半で「なぜぼくは存在するのか」、後半で「なぜ悪いことをしてはいけないのか」という問いを突き詰めており、氏は確か前者を「小学生的」、後者を「中学生的」と言っています。この表現もまったく言い得て妙で、痛快なほどです。
『亜人』が関係するのは、このうち「小学生的」な「なぜぼくは存在するのか」の方です。
この中で、氏はわたしを<わたし>と「わたし」に分けて考えます。「わたし」の方は、記憶や名前、身体的特徴など、一般的にその人がその人であるとアイデンティファイするすべてを備えた「わたし」で、社会生活上はこの「わたし」こそが「その人」とされています。
一方、<わたし>はそうした同一性とは何ら関係ありません。そこから世界を見ている、世界の開きとしてのわたしです。
たとえば、ある朝目覚めるとわたしがまったく別人のAさんになっていて、Aさんの記憶を持っていたとしたら、世界の開きはAさんの方に移ったことになります。この時、マンガ的に「うわっ、どうしてわたしがAさんになっているんだ?」などと驚く必要はありません。Aさんの記憶を受け継ぎ、何の驚きもなくスムーズにAさんとしての暮らしをしていて、自分が以前に別の人であったということに気づいていなくても、以前として<わたし>はAさんの方にいます。
つまり、<わたし>は純粋にそこから世界を見ている意識そのものであり、記憶や属性とは何も関係ありません。そして原理上、世界に一つしかない筈のものです。にも関わらず、この話題が他の人にも通じているように見える、というところが面白いところです。もちろん、通じているように見ているだけで、他の「わたし」たちは<わたし>ではなく、ゾンビや機械人形のような存在と変わりがありません。
もちろん、彼らを機械人形と同じように扱ったら、わたしはたちまち社会的制裁を受けるでしょうから、そのようには振る舞いません。またこれは、彼らの意識がないとか心がないとかいう意味でもありません。彼らにも心はありますが、それは<わたし>ではない、というだけです。なんなら、<わたし>が<わたし>であるためには、別に心も必要ないのです。心とか記憶とか意識というのは、すべて「わたし」の側のお話です。<わたし>は虫とか板切れであったとしても、多分成り立つでしょう。そういう意味で、「わたし」は既に半ば倫理的に成立しているとも言えるでしょう。
と、大変おこがましくも永井均さんのお話をさせて頂いたのですが(間違ったところがあればすいません)、『亜人』で断頭された人間が生首と共に死ぬ、というのは<わたし>と「わたし」の関係にパラレルです。と言いたいところですが、よく考えてみれば違います。
まず、全くどうでもいい茶々を入れますと、『亜人』の中で「再生される自分を見る生首」という描写があるのですが、亜人が再生されるのは死んだ後なのですから、その時点で生首はこと切れている筈で、「再生される自分を見る」という風景はないはずです。ですが、これはマンガの設定に対する混ぜっ返しなのでどうでもいいです。
こうした状況で再生される自分が「この自分」ではないことを説明するのに、主人公の永井圭(奇しくもこの人も永井さんです)が「魂のようなものが新しい首の方に移ることはない」と説明しているのですが、これも正確に言えば少し奇妙です。永井圭はおそらく、「<わたし>が引き継がれることはない」ということを言いたくて、そのために魂というものを持ち出しているのですが(そしてこの表現はとても伝統的なもの)、<わたし>が引き継がれるために魂とか記憶とか意識とか、何かそういったものが伝達される必要はないのです。そればかりか、正にいまこの瞬間にも<わたし>はある心から別の心へと移動していて、それ以前の記憶がすべて消し飛び、新しい人物の記憶を受け継いでいるかもしれないのですから、何かが引き継がれるか否か、ということと、<わたし>がどこにあるのか、ということは別問題です。
わたしたちは心情的に、断頭を恐れる亜人・永井圭の気持ちがよくわかるのですが、よくよく突き詰めて考えてみると、彼の心配は少し的外れであることがわかります。ちなみに、永井圭らの敵にあたる亜人・佐藤は、断頭の恐怖を永井圭に植えつけた当人でもあるのですが、彼自身は断頭・再生を全く恐怖していません。「わたしは気にしないよ?」と飄々と言ってのけます(で、その気にしていない「わたし」は誰なのか、という問いは残りますが)。
話を単純にするために、今この瞬間にも<わたし>が心を渡り歩いているかもしれない、という可能性を一回ナシにして、とりあえず記憶は引き継がれると仮定し、状況を狭くしてみたとしても、彼ら亜人は再生される前に一回は死にます。つまり意識が途絶えているわけです。それからしばらくして肉体から変な黒い粒子が出て再生され、「ハッ!」と生き返るのです。この生き返った時、断頭されているか否かに関わらず、それが前の「わたし」と同一であったかどうかを保証するものは何もありません。ただ(当人にとっては)<わたし>がそこにある、というだけです。
そしてよく考えて見れば、似たような経験をわたしたちは皆しています。夜になればわたしたちは眠り、次の朝に目覚めるのですが、この間、世界の開きは断絶しています。目覚めた時、「<わたし>は依然として「わたし」の中にあったようだ、ああよかった」と確認するわけですが、記憶が<わたし>と関係ない以上、本当に以前の「わたし」の続きなのかどうか、保証するものは何もありません。というより、一回途切れてまた蘇った時、蘇った<わたし>はただその瞬間において世界の開きなのであり、<わたし>には時間や連続性という概念はないのかもしれません。
ですから、永井圭の抱く断頭への恐怖であるとか、わたしたち一般が抱く死の恐怖というのは、よくよく考えると何を恐れているのか、それほどはっきりしたものではありません。一見すると、それは意識の断絶とか世界の開きとしての<わたし>が消滅することを恐れているようですが、消滅してしまえばおそれを感じる主体もないわけですから、この恐怖はどちらかというとこの世界、この「わたし」の側に引っ張られたものです。
そして、この「わたし」の引きずっている記憶というものが、<わたし>と直接関係ないものであり、途切れようかジャンプしようが意識すらできないものである以上、記憶は常に他人の記憶のようなものです。
わたしはよく、「他人の記憶を思い出す」ということを考えるのですが、わたし自身の記憶もまた他人の記憶のようなもので、むしろ他者たちの記憶の中に「わたし」が呼び出されている、と感じます。あるいは、そうした他者たちの語らいの中に「わたし」を深く沈めることができている間、<わたし>は「わたし」から遊離し、神様のところに戻っているかのようです。
記憶というものもまた、最初から倫理的です。
だいぶ『亜人』から離れましたが、実はまだちゃんと並走しています。
断頭を恐れる永井圭は、ボーダーというか、外面だけは「良い子」でありながら、徹底して利己的で幼児的な「壊れた」キャラとして描かれているのですが、物語が進むに連れて、やや中学生的というか、偽悪的に自らに対して利己性をエクスキューズするように変わってきているようです。一般的に考えれば、仲間と協力するうちに多少は真人間らしくなってきた、と解されるのかもしれませんが、むしろこれは、彼が断頭をきちんと恐れている、ということと連続的に見てみたいです。
断頭の恐怖とは、<わたし>が消えるとか意識がどうのといったことではなく、むしろ記憶の側、他者の側から来るものであり、倫理的水準にあるものだからです。
これに対し、断頭を恐れない佐藤は徹底したサイコパスです。
永井圭と佐藤は、どちらも少し「壊れた」人間で、サイコパス対サイコパスのような図式がこのマンガの妙なのですが、佐藤が知らせた断頭の恐怖によって、皮肉にも永井は「この世界」の側に倫理的に打ち付けられているのです。
もちろん、実際に作者がどうお考えなのかは存じ上げませんし、永井圭のキャラにしても、原作者の離脱などの大人の事情で二転三転しているようです。ですが結果、あまり他の作品では見たことのない面白い風景が出来上がっていることは確かで、これからも続けて読んでみようと思っています。
ちなみに、3巻くらいで(おそらく大人の事情もあって)大きく作風が変わっているのですが、個人的には現在の方がずっと面白いと思いますし、巻を追うごとに魅力的になっていると思う派です。
亜人(1) (アフタヌーンKC) 桜井 画門 三浦 追儺 講談社 2013-03-07 |