中産階級とは誰か、権威・不平等における外国人恐怖(『シャルリとは誰か?』捕捉)

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 『シャルリとは誰か?』のエントリについての捕捉を二点、メモしておきます。

 まず、「中産階級」という概念について。
 『シャルリとは誰か?』における「中産階級」という語は、日本語におけるそのイメージとは少しズレています。第2章の訳注にも以下のような記述があります。

ここで用いられている「中産階級(les classes moyennes)」という用語は、通常の日本語とニュアンスが異なるかもしれない。生産年齢人口の上位1%以内の「富裕層」と生産年齢人口の下位57%の「庶民層」に対するカテゴリーで、生産年齢人口の42%を占める。つまり、ここに言う「中産階級」は実質的に社会全体の「上位半分」を指している。

 57%の庶民層を構成しているのは労働者と平社員が大部分、これに加えて職人と小商店主、ほとんどの農業従事者がいます。
 一方、42%の「中産階級」は、17%の上流中産階級、25%の下流中産階級より成ります。前者は管理職および知的上級職、後者は中間職で、両者の差は「中等教育以上の教員と小学校幼稚園の教員の間の差、上級技師(エンジニア)と技術者(テクニシアン)の間の差をイメージするとよい」とあります。
 日本で「中産階級」というと、ほとんどのサラリーマンが該当するような層をイメージしますが、いわゆるサラリーマンのおそらく半数強は本書での「中産階級」よりは庶民層に属することになります。
 トッドの言うMAZ(中産階級、高齢者、ゾンビ・カトリシズム)を主導しているのは上流中産階級で、シャルリ運動およびそれを突き動かしている力動はこの層から発せられていると考えられます。この上流中産階級にとって、庶民層はまったく引力圏外でコントロールできないため、残る下流中産階級をイデオロギー的に方向付けようとしています。彼らさえ引きつけておけば、生産年齢人口のおよそ半数は自らのイデオロギー的勢力圏内収めることができるからです。

 トッドは別段、この層の人びとを悪魔か何かのように言っているわけではなく、実際、社会的・道徳的・文化的にうまくやっている層であり、また「フランスが唯一成功している」出生率の維持に貢献している層でもあります。ただし、彼らの「中産階級の福祉国家」は、暗黙的な隠された不平等を土台にして初めて成り立っているものでもあります。

フランスはまた、国家が、実にさまざまな営みやプログラムをとおして、すでに恵まれている階層を優遇する国でもある。アメリカでもイギリスでも、中等・高等教育のコストが親にとって高く、それが中産階級における出生率の低さを説明する要素になっている。(・・・)フランスでは、状況は正反対だ。中等・高等教育のコストの大部分を国家が負担してくれるから、「管理職および知的上級職」が将来における自分たちの社会的自殺を覚悟することなしに子作りができる(・・・)。そうとも、フランスでは福祉国家が今日も生き延びている。しかし、それはまず、中産階級の福祉国家になったからなのである。支配的な言説は何かにつけて毎度毎度、中産階級を税金の犠牲者のように提示する。だが、この犠牲者イメージが物語っているのは、フランスにおいては、中産階級がイデオロギー的権力を握っているということにほかならない。

 「犠牲者」イメージが社会的に広まっている層とは、往々にして、「そのイメージを社会的に定着させることに成功した層」です。そして、本当に犠牲にされている人びとは、しばしば「悪人」や「無法者」という像を世の中に結びます。
 もちろん、前者の「犠牲者」に犠牲になっている点が一つもない、などというのではありません。彼らもまた何かの犠牲にされてはいます。しかし本当に踏み台にされている者たちは、犠牲者として認知されることにすら届いていないのです。刑務所と行ったり来たりを繰り返すような、犯罪者予備軍というのがしばしばこの層と重なっています。
 トッドは教育費の国家負担による出生率の維持を批判したりしてい訳ではありません。それは「明らかに良いこと」としています。ただ「そうはいっても、極端なことをしてはいけない」。

失業率10%の脅威の下で生きる庶民層に、管理職層の子女の教育費を負担させるようなやり方には臆面のない反社会性が指摘されてしかるべきだ。ところが、その現実を、われわれの社会の報道機関はわれわれの目から隠してしまう。報道機関は、フランスの全部がシャルリなのだと解説するだけでは満足しない。日々絶え間なく、庶民層こそが税金を払っていないと示唆している。なんという冗談であることか! 間接税(・・・)が国家歳入の内で直接税の二倍の大きさを占めていて、最も恵まれない層のフランス人はそれを、本来彼らに割り当てられるべき割合を超えて支払っている。なぜなら、彼らだって生きていくのに消費しなければならないし、消費すれば税金をかけられるのだから。ところが、集合体MAZのイデオロギーが報道機関を圧倒的に支配しているため、税金のことで経済ジャーナリストたちが登場すると、95%くらいの率で、所得税だけが税であるかのような話になってしまっている。

 ただし、フランスのおける「中産階級の福祉国家」は、格差拡大に対しては一定のブレーキとしても働いています。英米の上流中産階級が最上位1%に近づこうと民衆に背を向けバラバラになってしまったのに対し、フランスでは1%だけが孤立する状態を保っています。その下は、一定の範囲でまとまりを為している、ということです。

ほかでもないフランスからトマ・ピケティという、地球全体の規模で再富裕の1%に的を絞った世界的経済学者が出たのは、果たして完全に偶然だろうか。

 もちろんここでも、1%の超富裕層についての問題提起が間違っている訳ではありません。ただ、その裏面で、中産階級が犠牲者であるというイデオロギー的演出がなされ、その結果、多くの移民を含む民衆層が不可視化される(場合によって「悪人」化される)、という表裏一体の構造があるだけです。

 さて、以上が捕捉の一点目ですが、もう一点は、日本の家族システムについてです。
 前のエントリでも触れた通り、トッドは兄弟間の関係などを元に家族システムを分析し、それが集団における人類学的慣性としてマクロなレベルで社会構造に作用している、と考えています。兄弟間が均等に扱われることから「人は本質的には平等で、普遍的人間というものがある」という平等的人間観、長子が特権化されるなど不平等が当たり前の構造から来る「人は本質的に不平等である」という感じ方などです。
 この「平等(普遍)/不平等(差異)」という軸と同時に、「権威/自由」という軸をもって、二次元的な模式図を描けるような構造をトッドは示します。この図式をもって考えると、フランス中央部のパリ盆地地域は自由・平等、イギリスは自由・不平等、ドイツは権威・不平等、ロシアは権威・平等、といった形になります。当然ながら、これはかなり大雑把な分類であり、かつマクロな社会構造を言っているのであり、個々人の考え方においてフランス人やロシア人がこうしたステレオタイプな見方をしている、という意味ではまったくありません。むしろ、前のエントリで触れた「弱い価値」の伝達が「強い価値」を覆すように、個々人における意識的で明瞭な思想や世界観を越えて、ぼんやりと社会全体をゆっくり動かしていく力になっています。権威主義的でかつ権威の下での平等という構造をもつロシアで、かつて共産党一党独裁が維持されてきたように、わたしたち個々人が意識できない人類学的構造が社会システムに「薄く力強く」リンケージしている、ということです。
 そして、この分類で言えば、直系家族システムの日本は「権威・不平等」という、ドイツと似た構造になることになります。少なくとも民衆レベルで共有されているのは、「人間には本質的な差異がある」という価値観です。
 こうした社会における外国人恐怖とは、具体的差異ではなく、抽象的なラベルに向かいます。いわば血統主義・本質主義的な外国人恐怖です。たとえば、外見や態度においてまったく違いのないレベルの在日韓国人三世に対する「それでもやはり韓国人」というような見方のことです。
 もちろん、個人のレベルで皆が皆こうした見方をする訳ではありません。教育水準の高く富裕なリベラル層ほど、こうした民衆的人間観を相対化することに成功するため、「自由・平等」的なスタンスを軸とする人びとも当然存在します。しかしその場合、丁度フランスの国民戦線が代表するような「平等主義・普遍主義的な外国人恐怖」が発生する可能性があり、それは人を本質的に区別しないものの、「同じ人間なのだから同じような振る舞いを習得できなければいけない」「どうしようもなく違うものがいるとしたら、それは人間ではない」という形式をとることになります。血統においていかなる出自のものも受け入れるけれど、一方で自分たちが普遍と考えている振る舞い(それは往々にして単にローカルに一般化しただけのスタンダードなのですが)と違うものは許容しない、「郷のルールに従う限りでの普遍主義」のようなものです。
 言葉の印象だけでとると「自由」や「平等」が綺麗に見えるわけですが、これらの枠組みのどれかが正解でどれかが間違いということではありません。どのような社会構造であれ、陥穽はあるのです。
 ただ、トッド自身は「多文化主義」のような住み分け戦略には極めて否定的です。これらは共存の名を騙った差異の固定化にほかならない、と捉えているようです。実際、前のエントリでも触れたとおり、移民も二世三世と世代を重ねることで、かならず受け入れ先システムに同化・混淆していく傾向があります。そのため、第一世代の緩衝地帯としての「チャイナタウン」的存在は肯定的にとらえられるかと思いますが、制度的にこれを固定化してしまうことは、無用に差異を拡大する結果しか招かないことでしょう。そうした意味で、オランダなどでとられている多文化主義的政策が(短期的にはともかく)長期的にポジティヴな効果をもたらすのかどうか、疑問の残るところです。

 まったく個人的にぼんやりと考えているのは、わたしたちは普遍的人間という像を手放すべきではないけれど、一方でその普遍とは「常に未完である」ことを絶えず織り込む必要がある、ということです。普遍が固定化されることは、一転して本質主義へと堕すことになり、「ちゃんとした人間以外は人でなし」というディストピアへとまっしぐらになるでしょう。わたしたちは普遍に向かいながらも常にその手前である、普遍は今現在の営みを通じて形成されている途上である、という限りにおいての、「普遍的人間」観を持ち続けることです。
 しかし当然ながら、これは果てしなく困難なプロジェクトであり、とりわけ「権威・不平等」が基礎にあるこの国でこうした理想を抱いたところで、ほとんどできることなどない、むしろマイナスに働いてしまう可能性すらあるように感じます。まだ「多文化主義」のような欺瞞的住み分け政策の方が、結果として、少なくともある一定の期間であれば、うまく回ると予想できます。「権威・不平等」も別段悪ではなく、これもまた一つの安定をもとめる社会秩序の有り様だからです。
 うんざりするような話ですが、偽善的多文化主義の陥穽以前に、「ちゃんとした人間以外は人でなし」ディストピアの方が、現状ではより差し迫った危機としてあるように感じます。

4166610546シャルリとは誰か? 人種差別と没落する西欧 (文春新書)
エマニュエル トッド Emmanuel Todd
文藝春秋 2016-01-20

捕捉の捕捉:
 一つ思い出したのですが、『恋するソマリア』高野秀行、「郷に入らば郷に従え」という郷で触れたように、そもそも地球上には、「郷」を重視するタイプとそうでないタイプの人たちがいます。つまり、地理的条件、地縁を重んじ、土地による「郷」を良きにつけ悪しきにつけ重視するタイプと、そもとも地理的空間的条件を第一とせず、血縁や氏族のネットワークを重視するタイプの人たちです。
 後者のタイプの場合、移民の二世三世になっても、前者の人びとよりは同化レベルが低くとどまることは予想できます。ソマリ人などは、どこの都市でもソマリ人コミュニティを作り、そのネットワークの中で生きようとする傾向が非常に強いようです。
 とはいえ、これも程度の差異にすぎないように思います。『恋するソマリア』の中で、高野氏の友人のソマリ人女性が、確かイギリスでショートパンツを履いているソマリ人の女の子に眉をひそめる、という場面がありますが、件の在イギリスのソマリ人女性は、しっかり周りに影響されているわけです。
 それが良いか悪いかは別問題として、こうしたほとんど無意識的な同化というのは、わたしたちが意志や親の躾程度でどうこうできるものではないでしょう。



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