わたしの代わりを「永遠のもの」が務める

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 わたしの代わりを「永遠のもの」が務める。
 なぜなら、わたしは永遠でありながら、明らかに永遠ではないから。
 永井均氏風に言えば、<わたし>は永遠でありながら、「わたし」は永遠ではない。
 つまり、世界の開きとしてのわたし、象徴経済におけるわたしは、本性のおいて永遠不死なのだけれど、この「わたし」、個別的で具体的なわたしは、永遠ではない。
 この「わたし」が永遠ではないのは、必ずしも自明ではなく、世界の開きにおいてはまったく不可解なことで、ある日、わたしは「わたし」が永遠ではないことに気づく。いや、正確には気付いていないのかもしれない。ある水準ではそれを「知って」いながら、別の水準では拒否している。それは死に対する嫌悪や恐怖といった話ではなく、単に象徴言語としてのわたしは星座のようなもので、死をもたないからだ。
 だからわたしたちは、不死のわたしと、死すべきわたしに分裂している。
 イマジネールな領域に立ち現れる死すべきわたしは、その背後に不死のわたしを隠し、それは何か「永遠のもの」に仮託されている。
 つまり、わたしの代わりを「永遠のもの」が務めている。
 わたしは、わたしの代わりとなる「永遠のもの」と併せて一つだ。
 その「永遠のもの」がどこに預けられるか、様々な選択がある。
 子孫、財産(金)、国家、会社、後世に伝えられる名(名前の星座)。
 しかしいずれも、本当のところ、永遠などではない。永遠のような様を見せることで、この世での対象として振舞っているだけだ。
 これらはすべて、永遠の像のようなもので、その権威を真の永遠、真の不死、象徴の永遠より備給されている。
 「子と財はこの世の飾り」だ。
 そして貨幣やネイションが永遠のものの代わり(わたしの代わりの代わり)として振る舞うことが、「偶像」ということだろう。
 偶像を捨てよ、というのは、永遠のものをただ永遠のものに帰し、わたしの代わりとなるのはその「永遠のもの」、象徴の永遠にのみ仮託される、ということだろう。
 わたしたちの生きるこのイマジネールな世界から、像が消え去ることはないし、像があってはじめてわたしたちは「普通に」生きられるが、それらは一時「永遠のもの」の代わりを努めても、永久にあることはない。
 「仮のもの」の領分を大きくはみ出すのだとしたら、一度始まりに立ち返らなければならない。
 それはわたしが、「永遠のもの」という代わりがあって、はじめてこの世のわたしであり得る、ということだ。
 この世のわたしと「永遠のもの」は不可分な存在である。
 その気付きがあってはじめて、どこで道を間違えたのか、遡って探す営みが可能になる。
 とはいえ、全く道を間違えない人など多分いなくて、道を進むにもただ導きにすがるより他にないのだけれど。



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