銃の与える平等性、強弱の無さ

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 3Dプリンタで銃を作って逮捕される、という事件が起こりました。
 まず、わたしはこの事件そのものにはあまり興味がありません。マスコミは新奇さに目をつけてか、「3Dプリンタで製造」ということに重点を置いていますが、当然ながら3Dプリンタはただの工作機械で、それ自体が悪な訳がありません。個人的には、こうした報道が無知な人々をミスリードし、新しい技術に無意味な規制がかけられることがないように、また適切な犯罪抑制策が施されるように願っていますが、それもわたしが言うようなことではありません。
 興味を持ったのは、この逮捕された人物の思想です。
 この人のTwitterなどを眺めると、ちょっと常軌を逸した人物で、普通に見て「危険人物」と捉えられて当然でしょう。
 総じて見て、わたし個人としてもこの方の考えに賛同するものでは全くありませんが、そこに一分の理がある、というところは見逃すべきではないのではないか、と思っています。いや、3Dプリンタという有用な新技術と、こうした「異常人物」の前にあっては、むしろ積極的にそんな屁理屈は押しつぶし「見逃す」べき、というのもまったく尤もなことではあるのですが、ほとんどの良識ある方々は既にそうされているでしょうし、天邪鬼なわたしくらい、ちょっとその辺を眺めてやってもバチは当たらないでしょう。
 その人の発言というのは、具体的にはこういったものです。

きっと多くの人は日本で銃が自衛用に所持できるようになると弱者による報復により銃乱射が起きると考えるでしょう。でもそれは犯罪をほのめかすわけではないけどある程度は仕方がない。なぜならそれだけ弱者が社会から虐げられてきた証なのだから。銃の無い社会に民主主義というのはありえないんです。
Twitter / gensowmaid: きっと多くの人は日本で銃が自衛用に所持できるようになると弱者 …

とにかく銃の無い社会は男性が社会で幅をきかせる社会になります。ところが銃があれば女性はどんなに体格の良い成人男性でもすぐ殺せるんですよ。このすぐ殺せるという事が何よりも大事。だからこそ男性は女性に手を出せば殺されるんだという気持ちになり犯罪の抑制になるのです。
Twitter / gensowmaid: とにかく銃の無い社会は男性が社会で幅をきかせる社会になります …

 ごく常識的に考えれば、ツッコミどころは山ほどあるわけですが、あえてそういうところはツッコミません。
 わたしが気になるのは、「暴力の平等性」ということです。
 以前に『「貧者の核兵器」、暴力の公平性、死に向かう倫理』で、以下のように書いています。

 そもそも、暴力というのはとても公平なものです。
 もちろん、単純な殴り合いで考えても、強い人も弱い人もいますし、ヒョードルと能年玲奈ではまったく勝負になりません。しかしそれでも、能年玲奈が五十人くらい命がけでかかっていったら、ヒョードルを転ばすことくらいはできるでしょう。日本刀の一つもあれば、ヒョードルだって笑っていなすことはできない筈です。
 これが経済力や政治力となったら、その格差たるや一万倍などではまるで足りません。抽象化された社会システム的な力の違いは、生物学的な力の違いよりはるかに大きいです。
 それに比べれば、暴力はずっと公平です。

 もちろん、だからテロ行為を肯定、ということではありません。この「公平性」を分かった上で、そのような「公平性」を行使されてしまっては困る、だからテロに対して否定的に向かわないといけない、そのような形で「手を汚す」べきだ、ということを考えていました。
 この人の言っていることはメチャクチャですが、「銃があれば女子供も大男を一撃で殺せる」というのは、まぁそれ自体としては嘘ではありません。それを言ったら、包丁でも殺せますし、女子供と大男が両方銃を持っていたらどうするんだ、そういうアンタは男じゃないのか、とか、色々ツッコミどころはあるのですが、確かに武器があると体格差というのは大分縮まります。
 これは「暴力の中での」公平性の話なので、暴力それ自体の持つ不気味な公平性とは話が違うのですが、通じるものはあります。「力」というのは抽象化されればされるほど、抑制を失って激しい格差が生じるものですが、プリミティヴになればなるほど大差は付けにくく、かつダメージは文字通り致命的になります。そこに銃(などの武器)があれば、より一層「一発逆転」がしやすくなる訳です。
 こうしたギミックにより、「弱者」が「強者」にイタチの最後っ屁をかませるようになる、というのは、嘘ではありません。
 一般的には、これに対する反論としては、ギミックによって「強者」がより「強者」になる場合もある、といった、全米ライフル協会に対する反論のようなものが為されるでしょうし、わたしもそれを否定する気はさらさらないのですが、気になるのは別のところです。
 そんな上品で筋の通った反論以前に、「一発逆転」などされては困る、ということです。
 それは上記のエントリで記した通り、わたしたちすべてがすべからく何らかの形で「現行の秩序」に組み込まれていれるからであって、その秩序がいかにクズであったとしても、秩序がコロコロ覆されるよりはいくらかマシ、ということです。そういう汚い利己的な理由によって、自ら手を汚して「弱者」にはそのまま「弱者」でいて頂いた方がいくらかマシ、という事情があるわけです(もちろん、もう少しマシな「秩序」に漸次的に移行する、という対処をとる方がより望ましい)。
 これは『『スノーピアサー』には『エリジウム』に足りないものがある – 数えられなかった羊』で書いたこととも通じます。秩序の中での序列、格差、理不尽な搾取、といった問題とは別に、秩序(order)があること自体の価値、というものがあるのです。それは実に薄汚れた理屈ではありますが、わたしたちはそういう汚泥の中に生まれてきて、それをすすって今も生きているのです。

 以前にも書いた通り、ここで真っ当に手を汚すのが最後に残る倫理だと、わたしは考えています。
 そこから先に何か救いがあるとしたら、そもそもの「強者」「弱者」という稚拙な構図、orderを脱臼させることです。
 わたし自身は神様を信じている頭のおかしい人なので、わたしたちはすべて、主の前で「弱者」なのだと思っています。ちょっと腕っ節が強いとかお金があるないとかで「強者」「弱者」などと言ったところで、そんなものはドングリの背比べです。少し状況や視点が変わるだけで、そんな強弱は逆転されるものですし、何より死と運命の前では無に等しいです。
 最大の勘違いは、これに無自覚で、微視的な強弱がさも絶対的であるかのように勘違いしてしまうことです。
 強い者は強いから弱いものを助けないといけないのではなく、すべからく弱いから、弱いもの同士支えあうしかない、ということです。これだけ見て生きていけるほど世の中甘くありませんが、すっかり忘れてしまって幸せになれるほどイージーでもありません。

 件の人物の言葉は、かなり非常識ではありますが、一分の理はあると思います。
 その上で、それはわたしたちが啜っているゴミみたいな汚水に対する侮辱である、という意味で、やはり認容はできない、と考えます。
 そして、大男もそれほど強くはないし、銃を持ってもそれほど強いわけではない、ということを胸に刻まないといけません。
 弱さというのは、主にあらぬこの世の有象無象に妙な「強さ」を見出してしまうところから始まるのです。そういう「弱さ」が、この世の不幸の根源と言っても良いでしょう。要するに卑屈なのです。
 主の前でわたしたちはすべからく「弱者」ですが、それを除けば、銃を持つほど弱くもありません。



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