まず、予想していたのと全く違う映画でした。
予告編を見る限りでは「娘を誘拐された父親が怒り狂って犯人を単独追跡」みたいな話かと思えますし、実際、その通りではあるのですが、そこはこの映画の核たるところではありません。日本での宣伝の仕方では、どうも「誘拐」ということに焦点が当てられていて、「他人事じゃない」とかいう煽るような宣伝文句もあって嫌な気分になるのですが、サスペンスとしての本作の性質を考えると、ネタバレなしで宣伝するにはこれくらいしか手がなかった、ということかもしれません。
とはいえ、普通にサスペンスとして観たとしても、『プリズナーズ』は十分に面白いです。わたしはサスペンスや謎解きにうるさい人間ではないので、通から見たら色々と粗もあるのかもしれませんが、少なくともわたしは存分に楽しみました。「真犯人」は、バレの瞬間までまったく分かりませんでした。かなりびっくりします。
このサスペンス要素だけでもとても面白いですし、これについてネタバレする気はありませんが、鋭い方は以下の記述からでも色々悟ってしまうかもしれないので、気になる方は一応読まないで下さい。
さて、気になるのはサスペンス・謎解き以外の部分です。
この作品は、とにかく「宗教的」な映画です。かなり露骨にテーマに持ってきているので、さすがにあざといというか、嫌らしい部分もあるのですが、そうした演出的要素を差し引いても「宗教的」です。
まず、冒頭からして祈りの文句から始まります。ヒュー・ジャックマン演じる父親は熱心なクリスチャンで、祈りの文句を唱えながら息子に鹿を撃ち殺させ、与えられた糧について感謝を捧げます。「危機に備えよ」という彼は、サバイバル狂なところがあり、地下室にはターミネーター2ばりの備えがあり、息子にもたくましく育って欲しい、と願っているようです。良くも悪くも「保守的」で「強い」父なのです。
そんな彼の幼い娘と隣人の娘が、感謝祭の宴の最中に姿を消してしまいます。そこは予告編でも流れている通り。そして、物語のはじめの方から「怪しい」存在であった知的障害を負っているらしい青年が、容疑者として一時拘束されるものの、「シロ」として釈放されてしまいます。
信心深い父親はこの青年が何かを知っていると確信しています。娘の失踪から日が経ち、事態が一刻を争う中、父親は青年を追求するため、不法な手段に訴えてしまいます。
一方でジェイク・ギレンホール演じる事件を追うロキ刑事は、「非キリスト教」的な存在です。登場場面から干支の話をしており、首筋の刺青、フリーメイソンらしい指輪など、様々な表象を背負っています。言うなれば、「善悪」で行動する父親に対し、非宗教的・理性的に追求するロキ刑事、という図式となっています。
そして謎を追求していくに連れて現れるのは、蛇、迷路、といった表象です。これらはすべからく「肛門的」、強迫的な表象であり、少女の父親のサバイバル的精神とも通底します。肛門的・強迫的で無時間的な「備え」により身を守る、という心的態勢です。
このように俯瞰的に眺めてみれば、父親の暴走ぶりは明らかです。
物語週末近くで彼の妻の言うように、彼は「良い人」ではあるのですが、その「良さ」が故に罪を犯していきます。
「プリズナーズ」というタイトルはとても意味深で、第一にはもちろん誘拐され囚われた少女たちでもあるのですが、劇中の様々な人物が「囚われて」います。父親はいわば信仰に「囚われ」、その「良さ」のせいで道を踏み外していきます。
こういう描写があると、「地獄への道は善意で舗装されている」と冷笑的な受け止め方で終えてしまう人がいそうで、不安な気持ちになります。もちろん、こうやって第三者の安全圏から眺めていれば、そう言うのも簡単です。実際、価値判断の偏重が道を過つ場面というのはありますから、それが分かっているなら「理性」を尊べば大いに結構でしょう。
しかし実際のわたしたちの人生では、どこからが「理性」の有効範囲なのか、線が引いているわけではありません。
現代社会では大分「理性」が有効なエリアは広くなってはいますが、実際のところ、その信奉者の思っているほどには広くもないものです。
少し前に、「物陰で音がした時、それは風のせいかもしれないし、獣がいるのかもしれない。理性的に考えるなら、立ち止まってよく観察してみるべきだろう。しかし、もしもそれが猛獣だとしたら、考えている間に手遅れになってしまう。何も考えずにびっくりして飛び退く方が、結果として生き残れる」といった内容の文章を読みましたが、わたしたちがしばしば「感情的」で、価値判断の網の目を世界に投げかけてとらえようとするのは、そうする方が「結果として」上手くいくケースが多いからです。少なくとも、人類の長い歴史の大部分では、概ねその方がうまく行っていたのでしょう。
現代社会では多少事情が違ってきてはいますが、個人的には、それでも九割がたくらいは「パッと動く」のが「結果として」正解になる、と信じています(根拠はありません)。
劇中でも、不思議なことに、「結果として」真犯人に先に辿り着くのは父親の方です。
もちろん、この父親は「囚われて」います。劇中で本人が口にするように「迷路の中でさまよって」いるかのようです。しかしこの迷路は、彼をとらえ、自由を奪うと同時に、守ってもいるのです。肛門的・強迫的表象が、自由を奪うことで防衛を果たしているように。
本当のところ、肛門的に微細に渡り「備え」を果たしたところで(地下室!)、「完全な安全」などありません。実際上も、そんな備えなど役に立たないかもしれないわけですが、それ以上に、こうした思想には「そうこうしている間にも時は流れ、この一瞬は二度と取り返せない」という視点が欠落しています。そして正に、この欠落ゆえにこそ、ホメオスタシスを防衛しているのです。
興味深いのは、この映画の中では、そうした「無時間的」防衛態勢をもった父親が、「一刻を争う」事態を前にして暴走していくことです。そのやり方は事実として「犯罪」ですし、また罪深いですが、より本質的には、「防衛体制」からの逸脱という意味で、罪を犯しているのです。
では何が正解なのかといえば、もちろんそんなものはありません。
ですが、「迷路」的防衛体制を俯瞰してみて「地獄への道は・・」などと嘯く態度が空虚であることは確かです。どのみちわたしたちは、自らの手足を縛ることで身を守っていくしかないのです。
もしわたしがこの父親の立場にいたとしたら、間違いなく同じ方向で行動しているでしょう。まぁ、実際はある程度やったところで自分にツッコミが入るかもしれませんが、少なくともこういう形で、多少間違っていてもすぐ行動する人間でありたい、とは思っています。パッと動けない「理性的」人間であるよりは、「罪深い良い人」として手を汚して死ぬ方がいくらかマシです。
劇中の「真犯人」は、さすがにちょっとマンガ的というか、演出過剰なところもありますが、この人物が「悪いことをしている」のではなく、「人を悪くさせている」ということも興味深いです。
いや、この人のやっていることも間違いなく「悪い」のですが、それ以上に、「良い人」である父親を、その「良さ」が故に「悪く」動かしている、というところが悪魔的です。
正に語の真の意味でシャイターン的であり、試練というのはこういうものをいうのでしょう。
重ねて、こうした試練を前に、どう振る舞うべきか、と考えます。
「試練」は、善悪の人間にしか有効ではありません。初めから善悪の外にいれば、そんなトラップにはかからないのです。
それでもやはり、愚かにも価値判断的にパッと選ぶしか、選択肢はないのではないかと思います。そこは囚われの場所ではあるのですが、少なくともトラップもろとも自爆する程度はできるかもしれませんし(劇中の父親のように)、本当のところ、善悪の外などという地平こそが、より一層強迫的なファンタジーにすぎないからです。
どのみち不自由しかないのですから、一番「速い」不自由と心中するまでです。