「クロニクル」ジョシュ・トランク、見る前に見られるもの

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 二週間限定公開というジョシュ・トランク監督の「クロニクル」を見てきました。以下、一部ネタバレを含みます。

平凡で退屈な日常生活を送る3人の高校生アンドリュー、スティーブ、マットは、ある日、特殊な能力に目覚める。雲の上まで飛んでアメフトをしたり、手を触れずに女子のスカートをめくったり、3人は手に入れた力を使って刺激的な遊びに夢中になっていく。しかし、そんなある時、あおってきた後続車両にいら立ったアンドリューが力を使って事故にあわせたことから、3人は次第に自らの力に翻弄され、事態は予期せぬ方向へと発展していく。
クロニクル (映画) – Wikipedia

 映画は擬似ドキュメンタリーのように、すべて主人公らの使うビデオカメラ、あるいは街頭の監視カメラなど、物語世界中のカメラを通じた映像によって構成されています。
 主人公アンドリューは内気な高校生で、父親は元消防士ですが怪我が元で今は保険金で飲み歩く日々、母親は病気で寝たきり状態です。マットはその従兄弟、スティーブは学校の人気者キャラですが、そんな三人が偶然に超能力(サイコキネシス)を手に入れたことから、物語は始まります。
 最初はショッピングモールでイタズラしたりなど他愛のないものでしたが、アンドリューが超能力で人を傷つけてしまったことから、バランスが崩れ始めます。予告映像にもある、煽ってきた後続車両を倒してしまう場面です。
 それでも三人は「ルール」を決めて、それなりにやっていこうとします。外向的な性格のスティーブは、超能力を使った「マジック」でアンドリューを学校の人気者にもします。しかし結局、繊細な性格のアンドリューは感情の爆発や怨嗟をコントロールできず、暴走に至ってしまいます

 「AKIRA」っぽいという前評判がありましたが、その通りで、「どうしちまったんだよォ、鉄雄オオォォ!」的な関係がいかにも青年ものです。また、個人的にはこういう中高生が他愛もないことでキャッキャ言っている描写が好きなので、ショッピングモールの場面や、三人で空を飛んで遊ぶ場面、その後一緒の部屋で寝ながら語り合う場面などは、微笑ましく眺めていました。まぁ、実際の「青春時代」はそんな単純なものではありませんが、マンガや映画における「青春描写」は可愛いものです。

 この作品は「超能力」の映画ではあるのですが、もちろん「青春映画」でもあり、また「アンドリューのカメラ」の物語でもあります。映画のほとんどはアンドリューのカメラを通じて映しだされた世界であり、なけなしの金でビデオカメラを買って「すべてを記録する」というアンドリューは、明らかに偏執的、神経症的な性質があり、マットからも「周りとの間にバリアを張っているようだ」と言われます。
 実際、カメラはバリアです。ファインダーのこちら側を「あちら」から分離するもので、世界から自分を切り離し身を守る道具でもあります。内気で傷つきやすいアンドリューは、カメラを壁にすることで自らを防衛しようとしているのです。
 一方で、カメラというのは「よく見える眼」でもあります。
 ラカンにおける擬態の眼のように、眼はしばしば「見る以前に見られる」ものです。例えば、視覚を持たないにもかかわらず眼の形の文様を背負った昆虫、というのは想定可能です。文化的な意味での「視線」や、邪視の概念といったものはこれに近く、「見る以前に見られる」ものとしての眼に由来します1
 カメラで言えば、カメラは写す以前に人にカメラとして見られるものであり、カメラを構えているというだけで、世界からは「眼の文様」として「見られ」ます。わたし自身、若かりし頃に長らくムービーカメラを回し続けていたのですが、カメラマンというのは、ゲリラ撮影やドキュメンタリーなどをやっていると一番殴られる役でもあります。機材を持っているから逃げ遅れるというのもありますが、周囲から「悪意を持った者」として浮き立つところがあるのです。
 アンドリューが撮影していても、しばしば周りの学生たちから「なになに、撮ってるの?イェーイ!」的な反応が返ってきます。つまりアンドリューは、カメラによって見を守ろうとするのですが、同時にその防衛自体によって、自らが眼の文様となり、世界にとっても目印、的となってしまうのです。
 実を守ろうとした術が「攻撃的」に映り、かえって周囲からの警戒・敵意を招いてしまう、ということはしばしばあるものです。どんな武器も一応は「自衛」のためとして売られますし、軍隊だってお題目としては防衛のためのものです。身を守るということは、往々にして自ら「打って出る」ことと表裏一体です。ある種の「弱さ」こそが、最大の悪徳となって災厄を招くのです。
 この映画の災厄もまた、アンドリューの「弱さ」が招いたものと言えます。彼はスクールカーストの中の劣者ですが、周囲に見られている以上に、自分自身で自らを弱者として捉え、内に閉じこもってしまっています。カメラが「眼の文様」であるように、強すぎる能力もまた防衛以上の災厄となり、周囲も自らも傷つけていくのです。

 そうして引き起こされる災いもまた、アンドリューのカメラによって記録されていきます。映画終盤に近づくにつれ、それ以外のカメラによる映像が増えていきますが、依然として映像はすべて「ファインダーの向こう」のものとして届けられます。
 そのファインダーの「こちら」にいるのは誰かと言えば、映画館にいるわたしたちです。奇しくも、映画最後のシーンではマットがカメラに向かって話しかけます。話しかけている相手はアンドリューです。カメラ目線でこちらを見るマットの相手は、今は亡きアンドリューなのです。つまりわたしたちは、「亡きアンドリュー」として見られているのです。
 カメラ目線というのは何であれ不意打ち的な効果をもたらすものですが、それは「そこは安全圏ではない」という印として機能しているからです。しかもこの映画では、ファインダーのこちらは死者の場所であり、既に災いを招いてしまった者の位置です。
 映画やマンガなどで「あぁ、俺は死んでいたのか」と気づく場面がありますが、丁度そんな感じに、わたしたちはマットに語りかけられます。「ずっと言えないでいたが、お前のことが好きだった、それからできればだけれど、俺のしたことを分かってやって欲しい」と。
 映画の中のアンドリューは、彼自身の自己認識とは異なり、相当に愛されています。命をかけて自分をとめようとしてくれる友人が二人もいるのです。少なくとも、彼がおそらくイメージしているほど、世の中から見捨てられてもいなければ、クズでもありません。ほとんどの人間は最高ではありませんが、最低でもありません。
 世界はわたしたちに、それほどはっきり「好き」とも言ってくれませんが、言わないなりに「好き」でいてくれるし、自分を救うにはそれを信じるしかありません。世界は時に、わたしたちに結構酷いこともしますが、許さなければ自分自身も許すことができないのです。

 全体としてとても楽しめた映画でしたが、かなりクセのある作品でもあるし、限定公開というのは落とし所として丁度良かったのかもしれません。純粋に娯楽として見た場合、ファウンド・フッテージ形式を徹底しない方が見やすい作品にもなっていたでしょう。
 個人的には、マットがアンドリューの父を助けるために飛び上がった場面で息が詰まりそうになりました。衆目の中で空を飛んだあの瞬間、マットの人生は終わったのですが、にも関わらず友人を殺人者にさせまいと飛んだ場面こそ、本当の悲劇だったようにも思えます。あれでもう、ただのキチガイ超能力者が暴れるだけの事件では済まなくなったからです。
 それにしても、あんなマンガのように友達想いの友人に恵まれたアンドリューは本当に幸せ者で、大馬鹿者です。多分、自分自身もそうなのでしょうし、ただ自らの憎悪や怨嗟が鎮められるよう、主の前にひれ伏し静かに生きるだけです。

4000236210ジャック・ラカン 精神分析の四基本概念
ジャック ラカン ジャック=アラン ミレール
岩波書店 2000-12-15

  1. 『眼の誕生――カンブリア紀大進化の謎を解く』も面白いです []



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