すべてが固有名詞であることへの想像力。
と言った途端に、既に全く違うものになっている。すべては固有名詞であり、想像されたものはすでに目の前にあるもの、つまりわたしたちの目を膜で覆い、欺き、守っているものでしかないから。
だからむしろ、想像力とは反対のものを使って、知らなければならない。すべてが固有名詞である世界を。
そこには抽象された秩序はないが、何一つ繰り返されるものがないのなら、世界の外に秩序は必要なく、世界が秩序となる。
巨大で効率の悪い辞書を携えて、一人の生は世界のほんの一部に触れるにすぎない。
しかしその一部ですら、わたしたちの目を覆っているイメージに比べれば、圧倒的に充溢している。
イメージ、法則、秩序、そうしたものがわたしたちを役立たずにしている。
腕二本脚二本で届く知だけを、充溢させなければならない。
すべてが固有名詞である世界は、ただイメージにより隠されているだけで、目の前にある。
ただそれは視覚を奪う輝きであり、直視することはできないが、手を伸ばし触れることはできる。
そこが世界の限界だ。