信じているとはどういうことか

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 「羊は迷うのか」で、「分からないから、信じる」という言い方を何度もしました。これはちょっと言い過ぎたかな、と思ったので、信じることについてちょっとメモしておきます。
 「信じる」という言葉をわたしたちは気軽に使いますが、この「信じる」という行為はどういうことなのか、わたしたちが「信じ」ている時、要するに何をやっているのかについては、よく考えます。考えれば考えるほど、よく分かりません。
 結論を先取りしてしまえば、「音楽と信仰」で触れた「音楽を信じる」という、何を言っているのやらよく分からない「信じる」が非常に重要だと考えているのですが、その前にもうちょっと簡単に整理してみます。
 わたしたちが「信じる」時、大体こんな感じのパターンがあります。

①よく調べたり考えれば分かることだけれど、特に頑張らずに信じる
②原理的に調べても頑張っても分かりようがないことを信じる
③信じるという行為の内実もよく分からないが、信じる(と宣言する)

 このうち①というのは、一般に信仰を持った人たちをそうでない人たちがバカにする時に出てくる「信じる」です。確かにアホです。非常に分かりやすいです。①の姿勢というのは信仰の本義にも反するかと考えていますが、これは端的に横着なだけなので、あっさり信じる前にアレコレ試してみるのが、常識的に考えて真っ当でしょう。
 ただし、当たり前ですが、これは別段信仰に限った話ではありません。
 それから、これは結構重要なことですが、横着なだけとは言え、ほとんどの人間は基本的に横着です。①のような態度がアホだということに異論はありませんが、大概の人間はアホなものなので、こうした態度を「啓蒙」か何かによって人類社会から一掃できるというのは幻想です。①のような態度を取られると途端に破綻してしまうようなシステムは、システムの側に何か問題があると考えるべきです。

 ②に行く前に、本当は①と②の間くらいに「原理的には知ることが可能だが、現時点では様々な障害・困難ゆえに知ることができないことを信じる」というのがあります。しかしこれは「信じる」というより「仮定する」とでも言うべき行為なので、ここからは除外しておきます。火星の地下に本当に水があるのか、といった話がこれです。

 次いで②ですが、原理的に知ることができない、というのは、問いそのものが世界内的な問いとしては成り立たないような問いのことです。
 例えば「なぜわたしが『この』わたしなのか」という問いには、合理的な回答というのはありません。この問いが問うているのは、特殊性ではなく単独性、specialではなくparticularであることそのものについてであり、それは単に指示子によって示されるだけです。物理的には何の変哲もありません。この問題は、言わば言語の内部のもので、世界内的な構造を解明することによって答えが手にできるものではありません。正確に言えば、言語の内部で終わっている訳ではなく、ここにこそ核心があるのですが、話がややこしくなるので割愛します。
 こうした問いに対してどうした答えを「信じ」ようが、①の場合と違って積極的に間違いを支持することにはなりません。かといって、特別な功利がある訳でもなく、本人の気持ちの問題を除けば、世の中的には毒にも薬にもなりません。ただ、気の持ちようというのも大事ですし、そうした気の持ちようをしている人が社会の中で一定数に達すれば、世の中的にも機能します。大体、わたしたちが社会の中で「信じ」ているのは、大概が実体のないフィクショナルなものなので、気の持ちようが世の中動かしているとも言えるかもしれません。
 一般的に「神様を信じる」とか「来世を信じる」という時には、この類に該当するかと思います。
 来世を信じると言えば、これに対し否定的な人からは失笑を買うでしょうが、なにかを無いと証明するのは大変なことですから、絶対にないとも言い切れません。あると思っていてなくても別に問題ないですが、ないつもりで万が一あったら大変だから保険として一応信じておく、というのもアリかと思うのですが、まぁこれは信仰の本質とは別問題です。
 逆に「神様を信じる」とか「来世を信じる」といったことを、しょうもない世界内的な証拠を挙げ連ねて「証明」しようとする向きがあります。何度もネタにしている「クルアーンのこの節はこの『科学的』発見に照応している!」系のトンデモ言説です。こうした行為は、②を①にしてしまうのに等しい愚行です。主は感覚に訴えるものではなく、世界内的な対応物によって明らかにされるものではない、と少なくともわたしは考えています。
 ですから、わたしとしてはこうした言説は全く支持できないのですが、一方で①について触れたように、人間は(わたしも含めて)基本的にアホなものです。アホな人間たちが多少アホなことを言ったくらいで、目くじらたてても始まりません。そういう考えで信仰心が深まり、真っ当な生き方ができているならば、それはそれで放っておいたら良いんじゃないかとも思います。真っ当じゃなくなってグレてしまったところで、介入するとしたらグレた結果の犯罪なり何なりの部分に留めるべきで、根本の考えを「啓蒙」してやろう、などというのは、奢ったものの考えです。まぁ、個人的にはあまり関わりあいにはなりたくないですが。

 最後に③ですが、これは「音楽を信じる」ような何を言っているか分からない内容で、わたし自身もよく分かりません。信じるというよりは、(不条理にも)「信じる!」と宣言してしまう、という行為です。
 この「信じる」は、何を信じているのかもよく分からないくらいなので、信じたところでこれまた何が生まれるのやらよく分かりません。ただ、根本に不条理を置く、ということです。元々筋が通っていないので、理屈で反論することもできません。
 これは「好き」とかいうのと似ていて、なぜ好きなのか、と問われてもよく分からないし、「好き」という行為なり状態なりが、要するに何をしていることなのかも、冷静に考えるとよく分かりません。色々と理屈を付けて「なぜ好きなのか」を語ったとしても、大概はそんなもの後付けです。「彼の優しくて包容力のあるところが好き」とか言ったところで、優しくて包容力のある雄の人類など他に何億でもいます。要するに何が何だかよく分からないのですが、本人は「好き」だと思っていて、「好き」と言っているのです。
 おそらく信仰についても、一番根本にあるのはこうした「信じる」で、それは要するに何をやっているのかよく分からないような「信じる」ではないか、と考えています。
 昔、仏教の大学に行き山にこもって修行までするほどの熱意を見せていた知人が、「わたしは仏教徒じゃない、神様ファンだ」と言っていたことがありました。彼女は非常に率直ですごい人物だと思ったのですが、仏教徒であることと神様ファンであることの間に、明示的な差異があるのか疑問です。神様ファンで良いのではないかと思います。
 わたしも自分について単に神様ファンではないかとよく思っています。強いて言えば、シャハーダしているのでイスラーム教徒な筈ですが、(そうした形式的な点を除けば)他にこれといって「教徒」と「ファン」を分かつものは見当たらないし、それで良いのではないでしょうか。
 生爪を一枚ずつ剥がされて「信仰を捨てろ!」と言われ、「ごめんなさい、神様なんてうんこです」とか言ったら「本物の信徒じゃない」「実は信じていない」のでしょうか。「踏み絵は確かに踏んだけれど、本当の本当は信じているんじゃないか」といくらでも問えます。そんなものは主以外には知ることはできません。滑稽なことに、こうした行為を、ある信仰に対して反対的な勢力だけでなく、当の信仰者(を自称する人々)が行なっていたりもします。「髭を剃ったから」という理由で人を撃ち殺すような(自称)ムスリムたちの家を主が燃やされることを祈念しておきます。

 わたしはわたしが「信じ」ている時、要するに自分が何をやっているのか、よく分かりません。
 正確に言えば、ある部分については分かります。「分からないけれど、信じる」や、「分かりようもないけれど、信じる」時です。
 しかし、そうした「信じる」が成り立つのは、その根底にもっと意味不明な不条理があるからです。それがどこから来ているのか、わたしは知りません。
 そしてこの「信じる」には、いくら「分からないけれど、信じる」を足しても到達しないし、まして「分かろうと思えば分かるけれど、面倒くさいから(あるいはそっちの方が得だから)信じる」というものを集めてもたどり着きません。別段その方が高級だとも言いませんが、わたしが主を信じるのはこの不条理の限りにおいてだけです。