「夢は叶う」と拾った豆腐

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 「信じ続ければ(あるいは頑張れば)夢は叶う」というファンタジーが、なぜこれほど敷衍しているのでしょう。
 といっても、このフレーズを文字通り丸ごと信じている人というのは、大の大人ではそれほどいないかもしれません。お題目のようなものです。常識的に考えて、夢は叶うときもあれば叶わない時もあるに決まっているのですが、まぁ確かに、何かに向けて努力する時は「夢は叶う!」と思っておいた方が前向きな気持ちにはなるし、実際、その方が上手くいく確率もあがるかと思います。また、子供に対する時などは、誰でも多少は理想を語ってみたくなるもので、「夢は叶う!」と言ってみたくなるのも分かります。別に言っても構わないでしょう。
 気になるのは、これがお題目であることではなく、お題目としてなぜ「夢は叶う!」が選ばれているのか、ということです。
 「正しく生きれば主の報奨に預かれよう!」でも良いように見えるし、実際そっちの方がメジャーな地域もあるのですが、少なくともうちの近所では「夢が叶う!」の方が人気があります1
 一つ示唆的な文章がありました。

シティバンクが超優良顧客に配ったペーパーには「現在のアメリカの体制は民主主義ではなくプルトノミーだ」と書かれている。これは「1%の富裕層(これがこのペーパーの受け取り手,オレもシティに口座を持ってるが当然ながらこれには入れてもらえてない)が底辺の95%(の合計)より多くの富を保有し,独占的に利益を得る社会」という意味で,ペーパーは「この体制に対する脅威は底辺の連中が持つ選挙権だけだ」と言う。そう,このひどい社会は投票によってなんとかできるはず。ぢゃなぜアメリカ人はそうしないのか。それは「頑張ればキミもこっち側(1%の富裕層)になれる」という幻想を頭にたたき込まれているからだ。
これを観て怒んないアメリカ人はどうかしてるぜと思うのだが。 – Nothing Upstairs

 「夢は叶う!」ファンタジーのすべてをここに還元することはできませんし、またこの文章は「夢は叶う!」のことだけ言っているのでもありませんが、「夢は叶う!」がこうした搾取構造を支えるのに一役買っているというのはあるでしょう。
 お断りしておきますが、マンガに出てくるみたいな黒幕とか陰謀論的な影の悪玉がいて、「愚かな庶民め! 夢は叶うとでも思っておけ! ゲヘゲヘ」とか言っている、という意味ではありません。まぁそういう人もいるかもしれませんが、こうした構造が安定化してしまっているのは、単に一握りの人間の作為によるものだけではないでしょう。「夢は叶う!」体制の定着により、すべての人々がこの構造の安定化に寄与してしまっている、ということですが、それは個の集合としての全体ということではなく、個の集合に付け加わるものとしての「全体」という要素という点を見なければ、よく理解することができません。「全体」はしばしば人を超える何か超自然的なファクターとして映り、現象としてはそう受け止めた方が整合的に理解できることもままあります。「全体」を単なる個の集合に還元しようとする営みは、単なる根性主義や全く合理性を欠いた精神論に陥るものです。イマジネールな視点から身を引かなければいけません(偶像の禁止)。

 「夢は叶う!」の恐ろしい点は、「夢の実現」が個の努力にかかっている、とすることです。努力次第なのだから、叶わなかったらそれは努力不足、「自己責任」です。「夢は叶う!」と煽っておいて、失敗しても「本人が悪い」で済ませられるのですから、煽る側は気楽なものです。FXの勧誘のようなものです。
 確かに、人が努力して実現できることは色々ありますし、上に書いた通り、努力している最中は、「夢は叶う!」と思っておいた方が励ましになるし、実際そういう効能はあるかと思います。
 ですが、常識的に考えて、努力してできることもあれば、できないこともあります。正確に言えば、尋常ではないめちゃくちゃな努力をすれば、かなりのことが実現できるのかもしれませんし、わたしだって頑張ればオリンピックに出られるのかもしれませんが、ほとんどの場合、そんな努力は割に合わないし、オリンピックも出たくないし、努力しすぎて死んだらイヤなので、そこまでは努力しないのです。多分、そんな努力はしない方が正解でしょう。
 努力の結果実現できたように見えることも、実際は努力以外の多くの要素が関連しています。他の人の力もあるでしょうし、何より偶然と運が重なって出来ている面が多いにあるでしょう。言わば主の計らいがほとんどで達成できているようなものです。
 しかし、努力した当の本人はどうしても自分の努力を大きく見積もってしまうものですし、「夢は叶う!」的な人間中心主義が蔓延していると、実際よりも人間の頑張り分を大きく勘定してしまう傾向が強くなるでしょう。
 そうした自負心が前向きに働いているうちは良いですが、慢心や単なる利己主義に終わってしまうこともままあります。
 実際のところ、主のはからいによって実現できたのなら、主に分け前を返すのが当然であって、「気前よく施す」のが務めというものです。主のはからいというのがイヤだったら、偶然でもいいです。偶然ゲットしたなら、偶然歩いてたホームレスに分けてあげたって行って来いでゼロです。そうは思えないのが人間ですし、別に全部バラまくことはないと思いますが、半分くらい分けてしまっても、思っているほど特別なことではありません。ゲットしたのがお金とか地位ではなく、豆腐1トンとかだったら、きっと誰でも分けるでしょう。

 実際には、大抵の場合ゲットするのは豆腐ではありません。「それ」が豆腐ではないことによって実現できていることも沢山あります。
 また、人間の営為を信じることで達成できていることも無数にあります。
 ですが、「夢は叶う!」的ファンタジーによって、それが過剰に持ち上げられている点については、なんとも胡散臭いですし、割り引いて見た方が良いはずです。
 人間には人間の取り分があるし、主には主の取り分があります。主がイヤだったら、別にどんな名前でもいいですが、それを無理に人間の集合に還元しようとすると、ちょうど「全体」の個の集合への還元のように変な話になりがちです。別に何でも良いですが、何かがそこにあります。その人にも取り分があるので、その分は返しておかないとあとで催促に来られるでしょう。
 本当のところ、わたしたちが手にしたもののほとんどは豆腐なようなもので、豆腐は美味しいですが、日持ちもしないし、1トン食べられるほどのものではない気がします。

  1. 全然関係ありませんが、今「夢は叶う」とタイプしようとして「夢はなか卯」と打ってしまいました。フロイトの錯誤行為でしょうか。そんな夢はイヤです・・ []



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