伝える中毒

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 極私的回想で書いたような単なる自分語りですが、考えを伝えるとか、表現する、言うべきことを言う、といったことに重きをおかないよう気をつけています。
 世の中的には、少なくとも建前上、「考えをキチンと表現して伝える」ことは「良いこと」とされています。実際、これらが大事な場面というも沢山あるでしょう。
 また、何かを書き綴って(あるいは別の方法で)表現出来た時、さらにそれが他人に理解された時の悦びというのは、素晴らしいものです。「書く」ことに格別にひっかかってきた(ひっかかってしまった)人間としては、非常によく分かります。
 しかし、この悦びというのが曲者です。考え(あるいは別のもの)を「表現する」とか「伝える」ことの快感というのは、麻薬のようなものです。
 別に麻薬が絶対悪だと言うつもりはありません。時にはそういう快楽があっても良いでしょう。お祭り騒ぎだってたまにはしたいです。
 しかし、年中お祭りをやっていては世の中回りません。お祭りにそこまでの需要はありませんし、仮にお祭り専任という人がいるにしても、人口千人あたり一人くらいで沢山でしょう。
 要するにこの麻薬というものは、せいぜいのところその程度の位置付けに過ぎないのですが、一旦中毒になってしまうと、年がら年中お祭りをしたくてたまらなくなり、しかもそれが意義深いことだと思い込んでしまいます。
 世の中のほとんどの人々は、建前とは異なり、ほとんど自分の考えなどキチンと伝えていません。そもそもまとまった考えがない場合も多いですし、言わない方が身のためのことはもっと多いですし、伝えようにも表現するスキルがなく、なおかつそれで格別困りもしない、ということも沢山あります。これが重要になるのは、結構限られた局面だけの話で、それはお祭りくらいの頻度でしかありません。
 もちろん、言いたいことなどないのに発言を求められる、何か出さないといけない、という場面も、建前の関係上色々とあります。ですから、普通の人は、当たり障りのないどこかで聞いたようなことを言っておくのです。ここで本当に表現してしまったりすると、ほとんどの場合はロクな結果になりません。たまに大ヒットして弾けることもありますが、これもお祭りレベルです。
 余計なことを言ったり書いたり踊ったりしないでも、ほとんどの人は立派に生きていけますし、そういう人生も大いに意義があります。むしろ真っ当です。

 こんなひねくれたことを書いているのは、わたし自身が多分に中毒の気があるからです。そうでない人は、格段こんなことを考えたり肝に銘じたりする必要はないでしょう。ドラッグというのは相性があるので、中毒にならない人もいます。お酒を飲む人のほとんどは依存症ではありません。
 それでもドラッグであることには変わりないので、「これは単なる麻薬だ」ということを、よくよく自分に言い聞かせないといけません。
 それでもなお、麻薬と心中しようというなら、それはそれで美しい生き様でしょう。個人的には好きです。
 ただ、それは単にドラッグに溺れたというだけの話で、それ以上でも以下でもありません。

 世の中には色々なドラッグをあの手この手で何か立派なことに見せかけようという罠が溢れています。
 中毒と分かって死ぬなら侠気とも言えますが、少なからぬ人々が単に罠にはまって立派なことだと思い込んだままズブズブと廃人になっていきます。
 世の中、特別なものなどありません。わたしに言わせれば特別なのはアッラー(唯一者)だけであり、それは世の「中」のものでありませんし、感覚に訴えるものではありません。ですから、特別な感じがするものは、大抵インチキです。
 せめて立派な廃人として死にたいです。



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