アフマド・アル=イシーリー『二冊目』全訳公開

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 ぼちぼち翻訳していたアフマド・アル=イシーリー氏の『二冊目』全訳をアップ完了しました。
 例によって下訳に毛が生えたくらいのものを、ろくに推敲もせずに晒しておきます。もしどこかの奇特な出版社の方が出版したいというか、あるいは単に気が向いたら、全面的に推敲し日本語を真っ当にします。

 もう何度も色々書いているのですが、少なくともエジプトでは他に類をみないタイプの文章で、とても興味深いです。
 一方、多くの日本人から見ると新しみがなく、むしろ当たり前のことが書いてあるだけに感じられるかもしれません。多くの日本人にとって注目すべきなのは、氏の(多くのエジプト人にとっての)「新しさ」自体ではなく、一ムスリムとしての敬虔さというものと、所謂「世俗的」「リベラル」と言われる面をいかに和解させるか、という部分です。おそらく「これだけ『普通』で現代的で、哲学的な思考ができるにも関わらず、なぜシューキョーなどにそれほどこだわるのか」と感じられる方がいらっしゃるかと思います。そこで疑問に思い、投げ出さずに考えて頂ければ、翻訳した立場としては本望です。おそらくこの普通すぎるものの中にこそ信仰の非常に重要な一面があり、少なくともわたしにとって、こうした「哲学的」で「普通」なアプローチの中で発見される信仰こそが、核になるものだからです。
(やたらイスラームについてのことばかり書いてしまいますが、本書は別に宗教の本ではないし、イスラームだけが話題な訳では全くありません)

 これにあたって、イシーリー氏を再度訪ね、ウェブへのアップロードの承諾を頂きました。
 今回の訪問では奥様と『二冊目』にも登場するまだよちよち歩きの長男くんにもお目にかかれました。
 現在エジプトでは選挙の真っ最中で、氏の考えからすればイフワーン圧勝と見られる情勢は「一難去ってまた一難」なものです。まだ情勢が落ち着いていないので、選挙結果が出揃ってみないと何とも分からないですし、そもそも本命は来年の大統領選挙かと思いますが。

 この時、「人々の目線と神様の目線」で書いた件について少し話しました。少なからぬ人々が「神様の目線」だけを気にして「人々の目線」を気にしない問題を指摘したものです。一方で、「世俗的」空間で育ったわたしとしては、これだけ言ってしまうと、(エジプト人には問題なくても多くの日本人にとっては)逆に「神様の目線」の意味が見落とされてしまう危惧がある、ということを書きました。
 氏は宗教家でも何でもないですが、この時「僕の個人的考えだけれど」とことわった上でお話になったのは、次のようなことです。

「宗教というものには、二つの大きな仕事がある。他にも沢山あるけれど、一番大きいのは二つだ。一つは魂を洗い救うことと、もう一つは道徳を教えることだ(『二冊目』で書かれていますが、ある種の社会で道徳が現状宗教とは独立していたとしても、歴史的には深い関わりがあり、これは無視できない、という立場)。多くの人々が、道徳のことばかり言う。そして大事な第一の仕事のことを忘れてしまう。
 第一の仕事こそが、本当は一番大事なのだ。とりわけ過酷な環境、何一つ保証のない世界で生きる人間が、主なしでどうやっていくというのか」
 ここでわたしが「本当のところ、どんな環境だろうが何一つ保証されているものなどないですよね」と言うと、同意してもらえました1
「宗教政治家の類のものは、道徳の狭い範囲のことばかりを強調し、むしろ第一の目的を損なってしまっている。そして宗教を政治的に利用しようとする」

 「魂を洗う」とか日本語で書くと、いかにもインチキくさい感じがするのですが、アラビア語文脈だと別段突飛なことを言っている訳ではありません。安心するとか、何一つ保証されていない、次の瞬間にもすべてが奪われるかもしれない生の中で、透明な心を保つ、といったようなことです。
 氏はヒンドゥーの修行者なども賞賛していて、ここで言う第一の目的を果たすものは、別段イスラームに限定されていません。わたしたちとしては、必然的にイスラームと結びつけて考えますが、他のやり方がダメだとか間違っているということではありません。氏はヒンドゥーやその他の宗教を悪しざまに罵る一部のムスリムのことを激しく批判されていました。
 「人々の目線と神様の目線」で書いた通り、氏は「ご利益」的なものを追求し、仔細な道徳に縛られている宗教のあり方を「物質的」と批判するのですが、一方で文字通り「物質的」と言われても仕方がない生き方をしている人々も沢山います。そこで、
 「凝り固まった『宗教』の教条主義に嵌っている人々と、自称『無神論者』と言われる人々は、正反対のようで、実は同じものを追求していますね」
 と言うと、「まったくその通りだ」と言われました。

 こう書いていると、なんだかすごく「スピリチュアル」で、個人的には本意ではないのですが、非常にぶっちゃけて言ってしまえば、この領域が最重要であるのは事実かと思います。
 ただ、この領域が成り立つためには、第一に「ご利益」であるとか、直接的救済、「困った時の神頼み」的精神を取り除いていく必要があります。こうしたものにまみれたまま、روحانيルーハーニー=魂の部分を重視するとしたら、それは所謂「スピリチュアル」と一緒で、ただ単に個々人が勝手に都合の良いファンタジーに耽溺していくだけのことです。これは「物質的」宗教が個人主義化しただけであり、個々人に分断されている分、教条主義的宗教よりも更に質の悪いものになります。
 とりわけイスラームについては、「神なし、されど・・」から始まるものであり、個々人であれ集団であれ、「特別なもの」にすがりつく態度は第一に排除されなければならないものかと、個人的には考えています。
 第二に、これは非常にデリケートな部分なのですが、「哲学」がないといけない。実のところ、「哲学」は歴史上宗教の最大の敵と扱われたこともままあり、しかもそれはそれで理にかなっているところがあるので、非常に微妙な問題です2。「哲学」がなければ宗教は狂信と頑迷に陥っていく危険がありますが、一方で「哲学」が宗教を回収するかのように振る舞うとしたら、それは理神論的な罠に嵌ることでしょう。しかしそれでも、この領域を成り立たせるためには、個人のレベルで「哲学」がなければなりません。「哲学」は動き続けるもので、その運動が失われると、روحانيな方法は停滞し、すぐさま「スピリチュアル」や教条主義に捕獲されてしまうからです。
 しかし現実的に考えると、こうした方法はすべての人に可能なものではありません。すると多くの人々は、結局のところ、停滞した「宗教」に絡め取られるか、所謂ところの物質主義に絡め取られるか、いずれにせよ捕まってしまうしかありません。こうした状況の中で、「最悪の中では最善」の策を取ろうとすると、「宗教」にできることとしては、道徳的な部分で極力過剰介入を避けつつ、コミットを続けるくらいしかないように思います。
 なぜ道徳的介入をなるべく控えるかと言えば、これは間違いなく宗教の大事な仕事であるわけですが(少なくともそうであった)、介入の過剰は必ず人間を愚かにしていくからです。自律的な倫理的判断のできない人間を量産することが宗教の任ではないはずです。しかも、一端道徳が「宗教だのみ」になると、もう際限もなく依存と過干渉が繰り返される共依存的な合わせ鏡の地獄に陥っていくことがままあります。はっきり言えば、(歴史的には深い関係があったとはいえ、現状で)宗教なしで倫理的な人間は山ほどいるわけですから、道徳を売り物にするような宗教というのは、最低限のコミットメントも続けられれず、結果として第一の仕事、روحانيの部分を人々に伝える役目も果たせないことになるでしょう。そういうやり方が機能しうるのは、道徳のない人が相手の時だけです(そしてそういう場合というのは現実に存在するので、この仕事が無意味だということは全くない。過酷で立派な仕事だ。わたしはやりたくない)。

 最後の「現実的に考えると」の部分は、正直言って考えたくもない憂鬱な部分なので、あまり気の利いたことが言えているとも思いません。この面について考えることには、「民主主義」について考えるのと丁度同じような憂鬱さがあります。

  1. この後で言及している「哲学」の問題と非常に密接に関係しますが、この「いかなる状況にあっても何一つ保証されているものはない」という絶対的感覚、氏も書かれている「時が流れること自体に対する恐怖」というのは、わたしにとっては非常に重要で、これと信仰は切っても切り離せないものです。ですから、わたし個人にとっては、放っておいても信仰から哲学を分離することは不可能なのですが、「時間そのものに対する総毛立つような恐怖」というのがピンと来ない人には、この切り口というのはあまり有効ではないのかもしれません。少なからぬ人が、名付け方の違いはあれ、この恐怖を知ってはいるはずですが、ほとんどの場合、幸いなことに忘れることに成功しているのです。ただここで「だからこそ思い出せ」と言えば、それは「哲学」サイドの傲慢ですし、忘れたままでも良いのかもしれません。少なくともわたしは最近、そういう風に思うようになりました。奇妙な言い方ですが、「宗教」があるから、忘れたままでも大丈夫です、主のお望みあらば。 []
  2. この微妙さがよく分からない、感じられない、という方は、是非この機会に、なぜ哲学こそが宗教の最大の敵にも(友にも)なり得るのか、考えてみてください。諦めずに何日でも何年でも考えてみて下さい。それが哲学です。 []