もしかしたら死なないかもしれない

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 本当のところ、何一つ繰り返されるものはない。しかしわたしたちは、繰り返しの中でしかほぼ思考できない。
 これを思い出したのは、昨今の「維新」なる語の流行を批判する文章を目にしてだ。その批判そのものとは全く別の話なのだけれど、要するに「維新」でも何でも、歴史的出来事に参照項を求めるのは、「前にできたのだからまたできる」と訴える(他人に対しても、自分自身に対しても)ためだろう。
 別段これは「昨今の流行」に限った話ではなく、個人的に割と親しみのあるアラブの発想を眺めても、何かにつけ預言者様の時代やサラーフ・ッディーンなどの英雄が持ち出される。別に歴史上ただの一人もサラーフ・ッディーンがいなくても、英雄的行為が不可能な訳ではないはずだが、普通人間はそういう風には行動しない。
 わたしたちは常に、過去に参照項を求める。
 歴史や社会現象についての傾向であれば、多少文化的偏りが見られるだろうが(例えば、個人的に眺める限りでは、中国人やアラブ人は過去の突出した出来事をより重んじる傾向があるように見える)、重要なのはそこではない。個人のレベルでも、人生設計から毎日のルーティンに至るまで、普通は常に繰り返しの中で生きている。
 つまるところ、これは快感原則、ホメオスタシスへの果てし無き愛なのだが、実際のところ、わたしたちは必ず死ぬ。
 と、語るのが普通で、つまりホメオスタシスの向こうにあるのは死の欲動とか熱力学の第二原則とか、そういう類のもののように考えて、何か分かったような気になってお終いにするのだけれど、もっと言ってしまえば、「わたしたちは必ず死ぬ」ということも、一つの定常的な系の中での発想だ。
 もしかすると、わたしは世界で最初の死なない人間かもしれない。
 言いたいのは、「何一つ繰り返されるものはない」というのは、「わたしたちは必ず死ぬ」とかいった生やさしいものではなく、本当に想像不可能な領域だ、ということだ。想像出来ていると思ったら、もうその瞬間からホメオスタシスの罠に嵌っている。
 そここそが、〈現実界〉であり、不可能なモノ=物質だ。
 その領域に視線を向けることは、バタイユ的には太陽を直視する行為であり、また永劫回帰について思考される時に人の目を眩ませるものに目を向けることだ。ついでに言えば、多分、それに近い経験というのをわたしたちは皆通っているのだが、その経験は無きものにされている。つまり「子供時代は〈無い〉」だ。
 多分、できることの限りというのは、わたしたちが繰り返しの中から一歩も出ることができていない、ということを知ることだ。しかも、知ったからといって何もならない。相変わらずわたしたちは、「わたしたちは必ず死ぬ」などと言って、何かを分かった気になる。
 本当のところ、一番恐ろしいのは、「必ず死ぬ」ことではない。もしかすると死なないかもしれないことだ。
 しかしその恐怖に、わたしたちの網膜は耐えられない。



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