アラビア語にはa i uの三つの母音しかない、ということになっているし、実際母音記号は三つしかないし、弁別もされていないと思うのですが、エジプト方言についてはa i u e oと五つある、という記述を見かけます。そうは言っても、もともと原則母音表記のない言語で、アーミーヤに至っては正書法も確立されていないので、あんまり意識もしていなかったのですが、言われてみれば確かに違いがあります。そんなことは、おそらく言語としてのアラビア語を専門的に研究されている方には常識かと思うのですが、大学等と関わりなくノリで覚えてここまで来た人間としては、全然意識化できていませんでした。
ふと思い立ってどういうパターンがあるのだろう、と考えると、どうもフスハーの時にファトハで、アーミーヤ(この場合エジプト方言)でカスラになったものはeの音になっている気がします。例えば、كلمةはフスハーではكَلِمَةですが、アーミーヤではكِلِمَةです。こういう風に、エジプト方言では何でもかんでもカスラになってしまう傾向が強いのですが、これは「キリマ」というより「ケリマ」みたいな音です。もとからカスラのところはiっぽいのに、ファトハがカスラになったところはeっぽい音です(多分)。
同様に、エジプト方言で新たにダンマになったところは、uではなくoに近い音のようです。حمارはフスハーではحِمارですが、アーミーヤではحُمارです。これも「フマール」よりは「ホマール」に近く聞こえます。
要するに後から母音が変化した箇所については、なんとなく曖昧な音になっていて、iより緩いe、uより緩いoが発現している、ということではないでしょうか。でもよく考えると、そういうパターン以外でもeっぽい音の時は沢山あるし、法則と言える程の法則ではないかもしれません。
というか、eなのかiなのかあんまり意識しないまま発音して全然問題がない、自分でもどう発音してるか意識していなかった、ということは、音としては存在しても厳密な弁別がない、ということで、言語としてはそこに強力な分節が働いていない、ということです。当然ながら、言語において重要なのは音そのものではなく音の差異です。差異が構造化されていなければ、いくら音としてそこにあろうが、意識化もされないし意味も持ちません。実際、ケリマをフスハーっぽくカリマと発音しても勿論通じるし、キリマと言っても多分通じます(変な発音だとは思われるだろうが、意味は通る筈)。母音の多い言語の話者や学習者からすると「そんなアホな」と思われるでしょうが、アラビア語はこと母音に関して言えば、結構テキトーな場合がよくあります(フスハーは割と重いし、母音の場所によってはちゃんとしっかり発音され、シビアですが)。逆に意味論的要素が子音パターンに集中している変態言語なので、子音の極端に少ない日本語ネイティヴには敷居が高い訳ですが。
この「後からカスラになったところはe、後からダンマになったところはo」仮説、面倒くさいのであんまり頑張って確認したくないのですが、多分専門家には自明の話だと思うので、どこかで縁があったら当たりか教えて欲しいです。おそらく多少の傾向としては言えても、法則としての体を為すほどは成り立っていないでしょう。
ついでに思い出したのですが、アーミーヤの動詞未完了形の頭につけるبについて、昔「継続を意味する」みたいな説明を見かけた覚えがあるのですが、これもちょっと見当違いな説明ではないでしょうか。原則として、助動詞的単語に続く場合(لازمとかممكنとかقادرとか、あとはعلشانなどの意味がつく接続詞っぽい子の仲間も)、つまり英語で言えば原型が来るっぽいポジションの場合以外はほとんどいつもبが付いているのですが、具体的行為と離れた抽象的真理や、条件法?みたいなフワフワした雰囲気の文ではبがない素の未完了形が来る場合があります。でも、この「抽象的真理」っぽいパターンの場合は、بを付けても付けなくても大して意味が変わらない場合が多く、エジプト人に聞いても「いっしょや」とか「どうでもいい」とか流されます(助動詞っぽい子の後に続く場合は厳密)。少なくとも継続とか何とかそういう話では全然ないと思うのですが、一体どこからそういう話が出てきたのでしょう。それともこういうのを専門用語で継続っていうのでしょうか。
基本、なんか手触り感のある具体っぽい感じの時はب、そうでなくイデアっぽいのがスカーンと直で来る時はبなしの素です。بをつけるとなんかネチャーっとして、地に足が着いたというか、現世って感じがします。
さらについでですが、能動分詞・受動分詞のمのハラカについても、法則性を見いだせないか考えたことがありました。مفعلとかمتفعلというワズヌの時の頭のمが、本来ダンマであった筈なのに、カスラで発音される例というのが非常に多いです。これについて、中間母音が不規則で、統語論的機能を失い意味に従属しているエジプト方言なだけに1、語頭のمにもしかすると統語論的パターンが見いだせないか、と妄想したのです。例えば、本来能動分詞でカスラになるべき中間母音が、ファトハになっている場合があります。この時、イメージ的に、あたかも中間母音のカスラが語頭に移動して、中間母音の代わりに語頭のمがカスラになったりしていないかなぁ、とか考えたわけです。
結論から言うと、そんなことは全然ないです。もう、絶望的なまでに法則性がありません。覚えるしかないです。
ただ、語頭と中間母音が両方カスラだと「ちょっとカスラすぎるやろ」という感覚はエジプト人にもあるらしく、語頭がカスラだと中間母音がファトハに転じるパターンはよくあります。例えばمُتكَبِّرムタカッビルは、本来頭は当然ダンマ、中間母音はカスラですが、مِتكَبَّرミトカッバルと、頭がカスラで中間母音がファトハ、という発音をよく聞きます(このハラカ変化パターンは非常に多い)。エジプト人に尋ねたところ、頭をカスラにするとなんとなく真ん中をファトハにした方が収まりがイイ感じらしく、わたしもそんな気はします。ちなみに、この単語の場合は別にどっちで発音しても問題なく通じますし、実際両方の発音を聞きます。どちらかというと、頭がカスラの発音はより大衆的、コテコテなイメージがしますが、別に下品とかいうレベルではありません。一般に、頭がミームがカスラの発音・単語は「エジプトやねぇ!」という感じがするし、エジプト人自身もそう感じるらしいです(おそらく順序としては、頭のミームがカスラ化>中間母音が釣られて変化、で、逆ではないと思う)。
一方で、مُتعَلِّمムタアッリムは、頭をカスラにしてもمِتعَلِّمミトアッリムと、中間母音はカスラのままです。これをファトハにしたら、すごく変な感じです。なぜ変な感じがするのかよく分かりませんが、なんとなくこの単語の場合、中間母音ファトハの単語もあり得そうな感じがして(実際はない)、イヤーな感じがするからかもしれませんが、全然関係ない気もします。とにかく基本はノリですべて決まっているようです。
そもそもエジプト方言では、第一形動詞以外はあまり受動分詞が使われません。تفعلとかاتفعلのワズヌ、つまり語自体が受動的・再帰的な意味を持つパターンで表現しようとする傾向が強く、その結果、中間母音が本来持っていた統語論的機能の重要性が低下しているのかもしれません。
この手の「法則を見つけよう」は、とても楽しくはあるのですが、実際に話す上ではあんまり役に立ちません。ただ、「どっちでもいい」オプションの部分というのは、微妙なニュアンスの入り込む言語の出汁のような部分なので、噛めば噛むほど味が出てきて面白いです。
- フスハーでは第一形以外の動詞の中間母音は規則的に変化するが、エジプト方言は原則すべて不規則で覚えるしかない [↩]