最後の瞬間

シェアする

 写真展「初期微動/Intruder」に在廊している。「初期微動」は主に不使用施設を素材としたもの、「Intruder」は石倉優と関根大樹の共作で、街中での跳躍動作を利用したもの。
 展示させて頂いておいて自分の作品に優劣をつけるのもどうかと思うが、「初期微動」シリーズについて言えば、入って左手に並んだ、割と静かな数枚が個人的には好みだ。お客様にも割合に評判が良い。
 その中の一枚に、曇天の海を背景した一軒家の写真がある。海際ぎりぎりの、あまり人の住むとも思えない場所に、変哲もない二階建て民家が取り残されている。わたしにとっては、今後この方向で撮りためていきたい、と考えている写真でもあるのだが、これを前にして、訪れてくれた(同期である友人の)Hさんが呟いた感想に、ちょっと驚かされた。「最後の瞬間みたい」と言うのだ。非常に正確だと思った。
 「初期微動」というタイトルはもちろん、地震の最初に起こる小さな揺れに由来している。最初にわずかにグラッと来て、それから大きな揺れが来る、あの初期微動だ。わたしたちの国には地震が大変に多いので、大抵の人は、普通に暮らしている中で微妙な揺れを感じて「地震!?」と身を凍らせた経験があるだろう。その後に本当の地震が来る時もあるし、気のせいとわかる時もある。
 今回の展示意図に即して言うなら、むしろ地震が来なかった時の初期微動、初期微動ではなかった(と後から振り返って遡及的に決定される)揺れの方が、より一層純粋に「初期微動」だ。なにの予兆という以前に予兆それ自体であるようなものを、捉えなければならないと思っていた。
 そういう意味で、「最後の瞬間」というワードは極めて正鵠を得ていたと言える。「最後の瞬間」とはなんだろうか。この後でなにかとてつもないこと、津波が来て家が流されるとか、海から怪獣が出てきて丸飲みにしてしまうとか、そういうことが起こる、その一瞬前ということだ。時々ネットなどで「意味がわかると怖い写真」などと称して、長崎に投下されることになる原子爆弾を無造作に運ぶ作業員であるとか、刺殺される直前の女優の笑顔であるとか、そんな写真が取り上げられているが、なんとなくそういうイメージで、Hさんは言ってくれたのかもしれない。
 「意味がわかると怖い写真」と、今回、そして今後このシリーズで研究していきたいものの違いは、後者において、刺殺される直前の女優は結局刺されなかったということだ。怖い写真から実際に起こった惨劇を引いた写真、つまり「起こらなかった惨劇の前夜」を作品にしなければならない。なぜなら真なる予兆とは、なにかが起こりそれら全体を振り返った後で物語というカプセルに入れられて(つまり起承転結の起として全体の中で相対的に位置づけられることで)規定されるものではなく、未だ見ぬ世界に向けて突き進んでいくわたしたちの視界に、それ単独で唐突に現出するものだからだ。
 写真には瞬間しか写らない。わたしたちが対しているのも、世界の最先端の一瞬だ。そこでは、予兆の中に惨劇が既に含まれている、と言いたくなるが、正確には違う。まだなにも起こっていない、起こることの絶対的な不透明性それ自体が、既にして惨劇である。予兆は、予見不可能性そのものを暗示する。

 ここで少し、「初期微動」で素材にしている廃墟というものについて考えてみたい。諸般の事情で、わたしは廃墟について異常に詳しい。情報収集の過程で、ブログ等に掲載されている一般的な廃墟写真も嫌というほど目にしている。たぶん、日本有数クラスで廃墟ネタと廃墟写真に浸かっている人間だと思う。
 しかし、日頃お世話になっている廃墟ファンの皆様方には本当に申し訳ないのだが、廃墟写真のほとんどは(わたしの価値観からすると、写真それ自体としては)あまり面白くない。なぜ面白くないのか。情念とか意味とか、そうしたものが入りすぎているように見える。
 派手な廃墟というものは、訪れると確かに興奮するもので、「この感動を伝えたい」「このスケール感を味わって欲しい」と考えるのは人情かと思う。しかしそうした「現場の臨場感」というものは、写真そのものとは無縁の感傷だ。以前に写真家の瀬戸正人先生が、「空の色などが見た感じのように写らないのですが」と質問した学生に対して「目で見た感じと写真は全然関係ない、目で見たものなど写らない」と返答されていたが、写真は写真のロジックで自律的に運動する。その場に居合わせなければ写真は撮れないが、居合わせてしまったがゆえの陥穽というものがある。廃墟のように「面白いもの」だと尚更だ。廃墟写真の多くが、失礼ながら凡俗に映ってしまうには、そうした理由もあると思う。
 しかしそれだけではない。廃墟にはどこか、人の自己愛的物語の投影を誘うところがある。なぜか。
 廃墟にはおどろおどろしい一面があるが、これは死体に似ている。死体は怖い。が、死んでいるのだからこれ以上死なないし、顔に落書きしても反撃してくることはない。死んだ人間にはいかようにも物語をつけられるし、残された人々の心に快然たるべく、いくらでも美化することができる。廃墟もこれと一緒で、もう死んでいるのだから反撃してこない。うっかり死なせてしまう心配も要らない。廃墟というと危険なイメージがあるが、人の住んでいる家に不法侵入するのに比べれば、立ち入るのも簡単で安全極まりない。
 そういう安全で死んだものには、なんでも好きな物語を乗せて嬲り弄ぶことができる。心霊的な都市伝説などが好例だが、郷愁だのゴシック趣味だのもイメージの系譜に属するものだ。廃墟の中には、コスプレ写真の撮影ロケ地に使われる場所がままあるが、それだけストーリーを乗せやすいということだろう。廃墟は、善良で人を傷つけない死姦趣味者たちにとって、格好の欲望の捌け口、捨てるのに好都合な「穴」なのだ。
 しかし廃墟は本当に死んでいるのか。
 廃墟には廃墟で歴史がある。ある施設が開業し、盛況を極め、やがて時流に逆らえずに閉業し、そこで終わりではない。長年放置されるうちに経年劣化が進み、大雪の年には屋根が落ちるかもしれない。良からぬ輩が入り込んでガラスを破ることもある。閉業後十数年を経てから、突然に放火されて焼け落ちることもある。解体されることもあるし、部分的に解体されて壁だけが残ったり、地下だけが残ったり、その地下がアトリエに改装され再利用されたり、まだまだ話が続いていく。閉業した施設が長年放置されてから改装再利用され、さらにそれが潰れてまた廃墟になることもある。二度三度と死ぬ廃墟がある。何も終わってなどいない。
 人は「終わった」話が好きなのだ。終わりたくない素振りを見せながら、「終わった」ことにしたくてたまらない。もう駄目だとか、取り返しがつかないとか、引き返し不能とか、人生詰んだとか、そう言うと絶望的で悲劇的に見えるが、終わったならもう考える必要がないわけで、ある意味気楽である。悲惨で自己愛的な物語の膜で身を守り、ぬくぬくと終わりなき円環的な夢に漂っている。
 「終わった」ものとしての廃墟が好まれるのは、一つにはそういうことだろう。

 「初期微動」にせよ「最後の瞬間」にせよ、これらは終わったものではない。少なくとも、そうでないものを目指しいてる(実現できているかは別問題として)。終わったものとしてイメージのつけられたものに対し、まだ終わっていない、と抵抗する。終わりたいもの、眠りたいものを、無理やり覚まし、不安を暴き立てようとする。しかしこの作業は平易ではない。
 「終わった」は既に確定していて、名前と形を持ち、それとして容易に語ることができるが、「終わっていない」は遡及的にしか切り出すことができない。流れから取り残され河岸に打ち上がられた流木には誰でも気がつくが、流れと混じれば目に映らず、流れそのものは形を持たない。
 「人生詰んだ」と甘えている人に対し「終わってなどいない、生きていれば良いこともある」と返すとしたら、それは優しさだろう。「人間万事塞翁が馬」も人生訓としては意義がある。しかしいずれも、円環的な物語へと誘うだけで、突端の不安を突き付けるものではない。「終わっていない」は「それはまだ、始まりに過ぎなかったのだ」という、週刊連載マンガの「引き」みたいな形で暗示するしかない。それもまた、様式美に堕ちすぎる。
 強いて言うなら、「本当の終わりはまだこれからだ」だ。
 死んだ上になお死んで、串刺しにされて地獄の業火に炙られる。お前は苦しみ、これからももっと苦しむ。そういう果てのなさこそが、直視し難い予見不可能性、可能性の不可能性、つまり可能的でいかなる物語に対しても開かれたままである未知なるものの捉えがたさを、切に突き付ける。
 「果てがない」でもまだ足りない。果てはないかもしれないし、あるかもしれない。
 ただ、予兆だけがある。



シェアする

フォローする