モテる人は大体セクハラしているし権力者は大体パワハラしている。
むしろセクハラがモテを構成しているし、パワハラが権力を構成している。
モテる人がやればセクハラがセクハラにならないとも言えるが、どちらが先とも言い難い、表裏一体のものだろう。
どこからがアウトかなどという明白なラインがあるわけもなく、ただ不分明で虚実相俟った博打的現実だけがある。日々、賭けに出る者たちが、マクロな次元でオッズを動かし、ルールを変えていく。
色々なハラスメントに対する制限が厳しくなり、博打のリスクが高まった。必然、オッズが高くなる。勝つ人間は大きく勝つが、後は死屍累々という絵図になる。こういうのも格差かもしれない。
別段何が是で何が非と言う気もない。ただ生きることは博打で、賭けない博打は絶対勝てない。挑戦なくして成功なしと言えばビジネス書的で、セクハラと言えば身も蓋もない。
社会的制度がリスクヘッジしてくれれば博打に出やすいが、制度は既に博打に勝った人たちが決めるものだから、賭場に出ることすらしない者が外野で騒いでも相手にされるわけがない。
たぶん、人は賭場で殺されるように作られているし、胴元だけが勝つというよりはむしろ、賭場自体が唯一永世なるものなのだろう。