言葉を尽くして説明されるものは大体まちがっているかどうでもいいものだ。空虚が饒舌を生む。弱いやつほどよく喋る。
長々話さないと人を納得させたり黙らせたりできないものはそれだけで底が知れている。
パッときてスッと入るか、でなければ力で威圧し身じろぎできなくさせなければいけない。
長い言葉というのは一定の長さを越えた時点で音楽的な芸の領域に入らないといけない。それ自体よって定められる様式を証立てる。言説空間の外部にばかり支えを求めるなら、話として離陸できていない。
それは人を一瞬で屠る代わりに酩酊に誘う。
短い言葉と長い言葉はそれだけで性質が異なる。保坂和志さんが大仏と大仏の模型では全然違う、ということを仰っているが、大きさが違うことで質も相違する。
これはわたし自身が長い言葉というものをいかに成り立たせるかで腐心している、要はその能力が低いがゆえによく考える。
端的に言えば、短い言葉には文体というものがさほど要らないのだ。全然要らないわけではない。強さがあれば一瞬で相手を捕まえることができる。しかし体格体力に劣るものが大きいものに対して長々と組めば早晩倒される。もちろん一瞬の強度すらなければ倒せないばかりかより一層ジリ貧になる。時間を味方にして良いのは受けたり逃げたりした結果逆転する手を持っている者だけだ。
余白を残して立ち去れば人を幻惑するのは難しいことではないが、長々見られれば自然と粗が目立つ。目立たせないには、一つには粗自体を減らす、丁寧に行うということ、もう一つが文体、様式を持つことだ。この様式というのは、候文でもビジネスメールでも構わないが、それ自体のために新たな様式を発明し、自分で自分を証だてられるものが文学ではないか、とわたしは考えている。
雑にやらない、ということは何でも大事なことだが(と自戒する)、丁寧さというのは持続ということで1、何か特別なものを行うのではなく、自身の中の釣り合いを保つということが肝要だ。もっともこれは一瞬の強度についても言えて、一瞬とは言ってもそこに運動がある限り時間があり、その持続の中で釣り合いが崩れているようでは困る。そもそもそれでは大きな力は出ない。
丁寧さと様式と言っても、もしかすると結局同じものなのかもしれない。
長いものにおける状態維持とは、強い力の後で状態がなお保たれ、結果時間自体が無化されるようなものだ。そして様式とは時間の無化に他ならない。どこを切っても同じ金太郎飴なら長くても短くてもずっと金太郎だ。金太郎飴に長さはあるし、金太郎飴の置かれた外部世界における延長は実在するが、金太郎に時間はない。金太郎のような不動のものを作り出せなければいけない。飴かどうかはどうでもいい。
木を殴れば殴った人が痛いが、木はとりたてて何かをしたわけではないし、最初から立っていてずっと立っているだけだ。
金太郎は担いだマサカリを木を切り倒す。だからといって木があれば何でも切り倒すというものではないだろう。木こりには木こりのコードがある。長く育った木は切っても良いが短く幼い木を切るのは賢くないし、禁忌にも触れるだろう。木は時間を味方にして、金太郎のマサカリを振り下ろされる手前で留めている。
しかしよく考えれば、時間をかけた結果最終的には伐採される以上、時間は木にとって味方ではなく敵とも言える。だが生命の価値が持続自体にあるとしたら、少なくとも切られるに足るに育つだけ時間を稼げたという点で、やはり木は時間を味方にしているのかもしれない。牛や豚は人と共生しているのだろうか。
幼木に限らず幼いものにはマサカリを止める力があり、端的に可愛いものに人は弱いのだが、弱さを味方につけるのが正義の言説で、正義もまたマサカリの一種に他ならない。それをわかって正義をうまく使っているのだから、正義などマサカリである、と指摘したところで今ひとつ甲斐もないのではないか、ということは前に書いた(嫌いを正義に言い換えるな、と言ったとしても)。弱いとかできないということは決して褒められたことではないのだが、弱いならすぐ叩きのめせば良い、というほど世の中は単純にできていない。しかしもちろん、弱さ可愛さを使った正義というものには有効期限があり、幼いうちは許されても良い大人が弱いできないだけ言っていて許されるわけはない。そんなものは単なる甘えなのだから、マサカリで一刀両断である。切られたくないなら目立たつ黙って隅の方で分をわきまえておくなり、せめて媚びへつらう芸くらい身につけることだ。ここでも芸が長さを支えている。
正義と長さはほとんど反対物で、正義は長くなるとどんどん意味がわからなくなる。昔ある新興宗教の人と話していると、彼女は「人を殺すのは悪いことだよね?」から始めて屁理屈を順次延長しその信じるところの正しさを証そうとしていたが、長くなれば正義はどんどん胡散臭くなる。正義というのはある狭いサークルの中で短期決戦するための武器であり、人がいつまでも子どもではいられないように、大きくなるとどこかおかしいことになり、やがて狂気に至る。長い正義には内圧がない、あるいは正義は持続に足る様式的強度を持っていない。
理屈というのは短いから有効なのであり、長くなると様式がなければ意味を為さない。数学には様式があるが、屁理屈にはない。正義に頼るようでは所詮可愛いだけの三流である。
数学や文学のように(と二つ簡単に並べてしまうことは双方の専門家にとって不愉快かもしれず、本当に申し訳ございません)内圧によって自身の様式を保つ以外に、物語やエンターテイメントという手段があるが、これらは外部の参照点を巧みに隠蔽することに成功した、高度に発達した屁理屈なのではないか、とわたしは考えている。違うかもしれない。しかし誤ってエンターテイメントと呼ばれているものの中に、全然エンターテイメントではなく、見事なまでに自立しているものがないわけではない。
武器は手の延長などと言うが、ある意味手こそ武器の延長であり、マサカリのような重い武器を自在に操ろうとすれば自ずと内部の整合性がとれていなければならない。伝統武術の動作についてよく理解できない時、長い獲物を前提にして試考するとスッと胸に落ちることがある。長く延長された状態を保つためには統合が必要だが、これは外部との関係におけるバランスではなく、外に頼れば寄りかかった状態となり、地位を奪われる。内部の整合性、ハマった状態、力の統一というのは、むしろ相手に寄りかからせるものであり、依存させてしまえば生殺与奪は自由自在である。だからヤクザはコントロールしたい人間にシャブを打つ。ヤクザでないので違ったらヤクザの人には申し訳ございません。
ヤクザは強いし何をするかわからないのでわたしはヤクザには逆らわない。自分がヤクザのような存在になりたいとはいつも思っている。
ヤクザは大体ドスを持っているらしいが、マサカリの方がドスより強力な武器であり、しかし懐に隠し持つことができないのでたぶんヤクザはドスを持つのであろう。ヤクザは合理的である。
マサカリを担いで歩いていればすぐに銃刀法違反で捕まるが、ドスくらいなら職務質問されない限り携行可能だ。だからと言って、ドスを持つすべての人間がヤクザなわけではない。
わたしはドスもマサカリも持っていないが、家には木刀があるし大体毎日素振りする。金太郎はマサカリを担ぐばかりかクマに乗っている。憧れるならヤクザより金太郎かもしれない。金太郎になればクマにも乗れる。あのクマはヒグマだろうかツキノワグマだろうか。
しかし乗って移動する動物としてクマが最良であるのかは後世の判断を待たなければならないだろう。
- 言った先からこれを「丁寧さとうい」とタイプしていた。わたしはよく「いう」を「うい」と打ってしまうのだがなぜだろう。「うい」と言えばういろうだが、ういろうは嫌いではない。「ウィニングイレブン」が「ウイイレ」と略されていると、いつも「ういろう」と「ウクレレ」が浮かぶ [↩]