元Macintoshユーザーで、今も古いiBookは一つ持っているのだけれど、Macintoshは既定で右クリックがないため、長押しという動作がよくある。
別にMacintoshではなくても、長押しという操作が必要な場合はある。同じAppleのiPodにも長押し操作があるし、携帯電話にもある。長押しというのは、少ないボタンや操作系を有効活用するためのオプションなのだろう。
で、この長押し、イラつきませんか?
わたしは大嫌いです。
長押しは長押しというくらいなので、長く押さないと長押しにならない。どんなに急いでいても、どんなに操作に習熟しても、一定時間以上じっとしていなければ「長押し」として判定されない。
コンピュータやそれに近い道具というのは、「時間を空間化する」ことで力を発揮しているものが多い1。わかり易いところでは、DTMというのは、元々時間軸上に存在する音楽というものを、一回パッと一覧できる空間的なものに変換して、編集している。こうした「時間の空間化」は、人間知性の至るところに見られて、「放っておけば流れてしまうものを一回堰き止めてまた解放する」というのは、知性的操作のかなり根本にあると言ってよいのではないか。コンピュータやそれに類する道具というのは、これを極端な形で取り出したものなのだろう。
要するに象徴化ということで、サンボライズするとは、何かが「ない」状態を表現できる、ということだ。ONのときとOFFの時があっても、OFFならまったく消えてしまうかというとそうではなく、「ここがOFFですよー」という場所が残っている、というのが象徴化だ。
フロイトの糸巻き車は、「消えてもある」というのがポイントなのだ。糸巻き車は今はない。ベッドの向こうに投げてしまったから。紛れもなく「今はない」のだけれど、「あったりなかったりする」というオプション自体を一つの項目として取り出す、というのは、時間の空間化である。
話が逸れたけれど、人間知性においては、「時間を一回括弧に入れる」時間の空間化が非常に重要な役割を果たしているのに、長押しという操作は、せっかく空間化した道具の中で、冗長に時間的操作を要求している、と言える。長押しの鬱陶しさには、単に「待つのが面倒くさい」というだけでなく、こうした逆説が関係しているのではないか。
もちろん、何でもかんでも空間化すれば良いというわけではなく、時間的なものを時間的なままに扱う、ということも非常に重要だ。一回性の美とはこうした場に宿るものであり、例えば音楽の即興的セッションというのは、演奏自体がじっくり練りこんで録音したものより稚拙だったとしても、特別な輝きを宿すことがある。
そしてより重要なことに、コンピュータの計算にも時間がかかる。空間化したつもりでいても、実は密かに時間が流れている。「時間の空間化」というのは、厳密な意味では不可能なのだ。
空間化している間にも時間は流れ、過ぎ去った時間は二度と戻らない。時間の空間化とは、「時間を空間化したつもりになる」ということであって、系を区切って「この中では時間は流れません」と仮定していることにすぎない。だから象徴化と仮想化というのは、ほとんど一つのことだ。系は本当は区切ったりできないもので、ミクロコスモスもマクロの一部で、水槽も実験室も世界の内部にあって、一番外側では絶対に時間が流れている。
これはちょうど、エネルギー保存則とエントロピー増大則に対応していて、フロイトで言えばホメオスタシスと死の欲動とパラレルな関係にある。象徴化されたわたしたちの「世界」は、ホメオスタシスを原則としているのだけれど、一方で象徴化されない残余が必ずあり、それが「世界の外部」から機能している。これは象徴化されない以上名指すことができないのだけれど、機能はしている2。
また話がズレたけれど、長押しはホメオスタシスの内部に死の香りを持ち込むものだ。
そう言うと、むしろ長押し的なるものが存在するのは美しいようにも思えるのだけれど、サンボリックなものはサンボリックなもので閉じて欲しいので、やっぱり長押しは鬱陶しい。
現代フロイト読本 2 北山 修 松木 邦裕 藤山 直樹 みすず書房 2008-07-16 |