社会は絶えず夢を見ている 大澤 真幸 朝日出版社 2011-05-18 |
大澤真幸を読むほど若くないのですが、現代思想オタク崩れには非常に心地よいのも事実。皮肉ではなく、この人は「エンターテナー」として一級です。読み物娯楽という意味では、もうちょっと前だと柄谷行人さんがいたみたいなポジションです。
各章ごとにグッと来るスリリングな議論が展開され、挙げられている書籍を読みたくなる本です。こういう時、その参考文献の原典にあたると意外と面白くなかったりするのですが、文献を面白そうに見せている方の著者は一流です。
この手の話は、最後の結論部分に掲げられる第三極的な理想についてはちょっと怪しげなところもあるのですが、そこに持って行くまでの展開は素晴らしいし、援用される幅広い教養にも舌を巻きます。もちろん、第三極・四極的なオルタナティヴというのが、運動そのものでありシステムではない、ということは、大澤氏のみならずこの手の論者自身が説いていることではあるのですが、そうは言っても常にイマジネールな方向へ誤読するのが人間です。この「誤読」がなければ正しい理解にも到達できないでしょう。なんだか『愛と幻想のファシズム』みたいな話ですが・・。
それはともかく、とりわけ興味深かった冒頭の『「日本語で考えること」を考える』のトピックを乱暴にまとめると、こんな感じです。
・大日本帝国憲法の条文は、「~は、」より始まる文が多用されているが、この「は」の用法は当時一般的なものでなく、翻訳文体として考案された。「は」には「が」に対し既知の情報を提示する性質があるが(厳密には間違い)、示される法が期待する「知っている者」とは、誰なのか。
・「は」は、直接語り合っている場面・状況を前提とし、話者の境界を越えていく。それゆえ、間主観的な主題を措定し、確認する機能がある。にも関わらず、その前提の成り立たない法律の条文や論文で多用される時、「知っている者」は読者ではない。また、「お上」ですらなく、それはどこか遠く(例えば西洋)に措定される。これにより、真の理解が拒絶されたままの受容が成り立つ。
・「日本人に精神分析は不要である、なぜなら音読みが訓読みに注釈を与えているからだ」といった発言をラカンがしている(「訓読みが音読みに」ではなく「音読みが訓読みに」)。日本語は文字に「よそ者」の痕跡を残し(漢字、カタカナ語)、かつ文字が音声に注釈を加えるものとして認識している。ここでも「知っている者」が遠くに措定され、「拒絶しながらの受容」が成立する。
・明治以降に大量に作られた「社会」「存在」などの訳語の多くが、似た意味の漢字二文字による造語なのは、この二文字の間で意味を宙吊りにし、「分からないまま分かる」ことを成り立たせているのではないか。
もう一つ、第三章「リスク社会の(二種類の)恐怖」からまた乱暴にとりあげます。
・リスクとは、単なる危険を指すのではなく、わたしたちが何事かを選択したときに、それに伴って生じると認知された(不確実な)損害のことである。それゆえ、天才や突然の外敵襲来などはリスクではない。これらは、自らの選択の帰結ではない(と認識される)からである。
・リスク社会においては、第一に、予想されるリスクがしばしば極めて大きく、破壊的な結果をもたらす(地球温暖化、大規模テロ)。第二に、このようなリスクが生じうる確率は、一般的に非常に低い。そのため、対策をとるとしたら徹底的な対策でなければ意味がなく、これには膨大なコストがかかるが、一方で確率は極めて低いため、「中庸の美徳」が成り立たなくなる。
・リスクは選択の帰結であるため、自然に深く依存していたり、伝統的な習慣・規範が強く支配している社会においては大きくない(危険はあるが、それは選択の帰結と関係ない)。
・リスク社会化とは、「本質に関しては不確実だが、実存に関しては確実である(何を欲しているのかわからないが、とにかくいることはいる)」と言えるような第三者の審級を喪失することである。社会主義には、本質において空虚になってしまった第三者の審級の位置を、人間の集合的な知性によって取り戻し、置き換える、という性質があった。
・実際の社会主義は抑圧的であったが、その責任は「彼ら」にあり、「わたしたち」にはなかった。それゆえ、「抑圧的であるがゆえの解放感」があった。社会主義の状況を鏡とし、日本の現在を映すと、社会主義には、抑圧的であるがゆえの解放感があり、日本の現状は、抑圧的でないがゆえに閉塞的である。
・餓死するまでに「助けを求められない若者」がいるが、人は他人に助けを求める時、自分には全面的には責任がないのだ、ということを前提にできなければならない。ここで責任を求める第三者の審級が完全に失われ、「全面的に自分が悪い」となった時、人は助けを求められない。(強調は引用者による)
・第三者の審級ーーその代表が神ーーが存在しているということ、つまり人々が第三者の審級を信頼しているということは、どういうことか。それは必然的に「信仰の飛躍」を含意しています。これは根拠なしに、無条件に、「えいやっ」と飛び込むように受け入れるということである。たとえば、あなたが見に覚えのない嫌疑をかけられて、親友や恋人に「俺はそんなことはやっていない、信じてくれ」と言ったとすると、この時、親友や恋人があなたに証拠を要求し、証拠があれば信じましょうと言ったとしたら、彼らはあなたを本当には信じていない、ということになる。つまり「十分に理性的な熟考・反省のすえに(その結果)あなたを信じている」ということは、ほんとうはその人を信じていない、ということだ。(強調は引用者による)
・逆に言えば、第三者の審級が撤退し、存在しなくなるということは、すべてが反省的な選択の対象となっているということ、「ただ受け入れる」という部分がなくなっていることを意味する。
本書では、キリストの死が第三者の審級の不在を勇気をもって引き受けることであった、と解釈しているのですが、この辺はちょっと恣意的に過ぎる印象を受けます。大澤氏は当然のことながら、第三者の審級の、本質のみならず実存における空虚を引き受ける方向で考えている訳ですが、これをナイーヴに所謂宗教(的観念)を捨てよ、ととっては著しい誤読です。そもそも氏はこれを引き受けるものの代表としてキリストを語り、拒絶・隠蔽するものとしてエコロジーや科学をあげているわけです。
こんにちでは、思考の自由を取り戻したければ、ときに、むしろ、宗教に依拠する方がよい、とさえ言いうるのです。これは、何らかの宗教を信じた方がよいということではありません。(・・・)宗教を思考の触媒として活用するのです。宗教が有効なのは、それが、しばしば、不可能なこと、不可能とされていることが可能であることを教えてくれるからです。それに対して、今日、科学は、可能だと想定していること、可能だと思いたいことを確認したり、正当化するためのフィルターとして機能しています。
そうは言っても氏の援用している「宗教」は、極めて観念的なもので、ルター派を例にあげているからといって、ほとんどのルター派信徒はここで書いているようなことにはピンと来ないでしょうし、イスラームについて援用されている部分も、抽象化されすぎてほとんどイスラームそのものとは別の話になっています(非ムスリムの研究者が援用するものとしては、比較的まともだと思う)。
本書の主題からズレて、信仰の話をするなら、こうした観念的要素と、非常に泥臭い要素が混淆とし、しかも容易には分かちがたくもつれ合っていること自体は、信仰行為の「本質」的部分としてあるでしょう。つまり「本質」を取り出しすぎてしまうと、その取り出し行為によって「本質」が損なわれてしまう、という性質がある、ということです。そこが信仰の執拗さであり、厄介さであり、面白さでもあります。
氏がこうした「執拗さ」について、単なるノイズとして排除する(本質を取り出して本質を壊す)のか、あるいはこのもつれ合い自体を更に何らかの形で取り込むのかは分かりません。
ただ、氏が分かっているであろうことは、信仰そのものの内部に、信仰を否定し乗り越える、という契機があることです。だからこそ(多くのキリスト教徒が到底受け入れないであろうやり方で)キリストを例にあげているのです。イスラームに我田引水するなら、少なくともわたしの考えでは、それは「لا إله إلا…神なし、されど・・・」から始まるものです。もちろん、「إلاされど」の後が重要なのですが、そこに示されるものは「إله神」のようにイマジネールにストンと落ちるような対象物ではないのです。そんなものは全部ない、されど、と言っているのですから、まずそこを排除しなければなりません(しかし同時に、常にイマジネールで呪術的・大衆的解釈がまとわりつき渾然一体となることも、また「本質」である!)。