わたしは、わたしの存在する限りにおいて、零度の信仰を生きるだろう

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 例えば、毎日何かをドゥアー(祈り、祈念)していて、その願いが叶ったとする。アルハムドリッラー。主は必要なものを与えられる。
 しかし当然ながら、その起こった出来事が本当に祈りを聞き入れた主の御力によるものなのかどうかは、分からない。常識的に考えて、祈りは別に全然関係ないだろう。
 「祈りの効果」を実証したいなら、祈った場合と祈らなかった場合の対照実験をすべきだが、そんな面白いことをする人はいない。
 いや、信仰について非常に無知で人生経験の浅い人なら、本気で「祈ったグループ」「祈らなかったグループ」の対照実験をするかもしれない。そしておそらく、結果に有意な差異はないのだが、「伝統的」な信仰者たちは、「実験の為の祈りは聞き入れられない」とか「祈った人が違えばその意味が違うのは当然」などなど、いくらでも理屈をつけて実験の結果を受け入れないだろう。
 実験で祈りの効果(あるいは信仰に関する何でも)を確かめようとする者も愚かだし、「祈りの効果」(あるいは信仰に関する何でも)に実証的な(イマジネールな)形でしがみつくのも愚かだ。
 なぜなら、正に実質的な差異が生じない、その点にこそ、信仰の意味があるからだ。
 そこで差異が生じる、あるいは生じることに依拠せざるを得ないとしたら、それはご利益宗教であり、呪術や呪いと変わらない。あるいはマイナスイオンでもマクロビでもいい。
 ある人がある時祈り、生きる、その繰り返しようのない一回性、単独性、つまり「一般性の無さ」それ自体に信仰は深く結びついている。
 一般的に繰り返せるものなら、経験主義的科学がいくらでも担ってくれよう。そして担わせるべきだ。そうしたものを信仰に結びつけるのは、「スピリチュアル」であり、呪術であり、ニセ科学であり、単なる無知だ。
 一般性と法則に回収され得ない、先験的な一回性そのものだけを注視しなければならない。
 そこで信じても、信じなくても、まったく違いがないにも関わらず、信じていなければならない。
 もちろん実際上は、信仰も他の多くの事柄と多く、現世的で社会的な多くの事柄に結びついている。言わば「文化」化している面がある。そうした面を全否定しようというのではない。ただ、そこは本質ではないし、いつでも捨てられるのでなければおかしい。
 ラーイラーハイッラッラー、「神なし、されど・・」なのだ。その後にアッラーがおられるが、アッラーは唯一の例外であり、例外であるということは、一般的には「神なし」であって、世の中に不思議なことはない。普通に生きるしかない。
 世界の内部に奇跡はないが、起こったすべてが奇跡であるものとして映る、その目線だけが、信仰の拠り所とできるもののはずだ。
 信じても信じないでも変わらないことは、わたしが居ても居なくても世界が変わらないと並行的だ。
 わたしは、わたしの存在する限りにおいて、零度の信仰を生きるだろう。