身も蓋もないもの、神一重

 最近の合成技術はここまで進んでいますよ、という映像。

 必ずしもあり得ないような場面ばかりではなく、普通に撮影できそうに思える風景まで見事な合成で創られているのに驚きます。
 それだけなら「すごいなぁ」というだけなのですが、この映像を見ていて何か不思議な感覚を抱きました。
 一つには音楽がとても良い。見ていて切ない気分になります。「あの世界は作り物だったのか」ということでしょうか。
 多分そうではないでしょう。作り物なのは大抵之人は分かっているのですから。
 この映像に対して「俳優業は思ったほど面白くない」とコメントした人がいますが、同じように感じた人は多いと思います。何がポイントかというと、「画面の向こうの人々にとっても、画面の向こうの世界は存在しない」ということです。
 スクリーンというのは「こちら」と「あちら」を遮るもので、一般的には、彼岸の美しい世界に対して「わたしたち」は手が届かない、という構図が想定されます。彼岸とは不可能なもの、スクリーンは不可能性の可能性を映すものです。
 しかしこの映像でハッとさせられるのは、彼岸の世界の住人たちが、緑色の「つまらないもの」に囲まれていることです。「なんという美しい世界」と驚いているのは、わたしたちではなく、彼岸の人々です。ハトのフンのような世界で彼岸を前に立ち尽くしているのは、「わたしたち」ではなく「彼ら」なのです。
 この感じは、映画の中の人物が、カメラを向いて語りかけてくる時に少し似ています。サルトルなら、鍵穴から覗いていた人物が恥そのものとなって消失する、と言うであろう瞬間。ラカンであれば、正にそこにおいて眼差しが「眼に見える」ものとなる時。恍惚が消える時に、不気味なものが立ち上がります。
 これは「こちら」と「あちら」が地続きになったとも言えますし、実際そのように考えさせることで、「ことが収められる」のですが、本当のところ十分ではありません。「ことが収められる」というのは、正にそのような効果を持つことで、この映像は切なさを喚起し、わたしたちを世界に向きあわせている、ということです。「鎮める」効果ということです。ですから、残りのものとしては、何か「鎮めている」ものがいる筈です。
 何が「鎮めている」かと言えば、見も蓋もなくグリーンのシートでしょう。
 緑のシートは、「身も蓋もない」ものが見も蓋もなく目に見えるようになった姿なのです。
 身も蓋もないものは、実のところあまり目に見えません。でも、時々見える。
 そういう時、わたしたちはガッカリするのですが、問題はガッカリして捨て鉢になるか、「鎮められる」か、ということです。ほとんどの人が理解しないであろう物凄い突拍子もないことを言い放つなら、それがニヒリズムとタウヒードの分かれ目です。逆に言えば、両者の間は紙一重だということです。
 あるいは神一重か。

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