「なんだかんだ言っても同じ人間」による寛容さなど寛容のうちに入らない

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 『原理主義から世界の動きが見える』の中で、中田考先生が面白いことを指摘されています。

(・・・)日本というのは決して寛容な世界ではないわけです。日本に当てはまらないと思ったものに関しては、いかに残酷になりうるのかということを表している。
 また、キリシタンの迫害のときに、仏教徒や神道派のなかから、「彼ら(キリスト教徒)はわれわれとは違うのだけれども、自由のために彼ら、そして彼らの意見は尊重しなければいけない」という議論はいっさい出てこ無かった。ここにも異質な部分に関しては受け入れないという事実が、日本には一貫してありましたね。
 つまり、日本のいう「寛容」というのは、「あくまで人間同じなんだ、だからいっしょになれるんだ」というスタンスの「寛容」なわけです。

 自分がぼんやりと感じていた違和感を上手く表現してもらえたようで、非常にストンと落ちました。
 ムスリムではない日本人と話していて、少しいい加減なムスリムの態度等を例にあげ「彼らも同じなんだな、と思って安心したよ」と、本人としてはポジティヴなつもりで語られることがあります。これが非常に不愉快です。
 彼らは少しも悪意がないようで、「何だかんだ言っても同じ人間」のような仲間意識を抱き「寛容さ」を発揮しているつもりになっているらしいですが、何だか小馬鹿にされているような気分になります。「同質性」「共通点」だと彼らが感じている部分が、彼らの心の中で完結していて、こちらと少しも向きあっていないからです。
 
 イスラームに限らず、こうした場面というのは、日本でしばしば経験されるものでしょう。少し変わった趣味嗜好や思想信条などを示した時に、「わかるわかる」「○○のようなものだね」と勝手にまとめられて「受けいれられ」てしまうケースです。
 もちろん、本当のところは少しも「受け入れ」ていないわけで、それくらいなら「承服し兼ねる」「何だその奇妙なものは」とぶつかってくる方が、余程真摯に向き合っています。
 そもそも「何だかんだ言っても一緒」という同質性が確認できなければ安心できないのでは、寛容の名に値しません。裏を返せば「(一定の閾値以上に)決定的に違うもの」「議論の開始点を遡ってみたものの、共通基盤が見つからないもの」には、寛容さを発揮できないということでしょう。どうにも違うものを、納得しかねないなりに否定せず留保する、というのが真の寛容さではないのでしょうか。
 
 ちょっと話がズレますが、ある「飲み会」の席で「宗教上の理由でお酒は飲みません」と断ったところ、「あぁ、なるほどね。僕はね、そういう国を旅行したこともあるけれど、そういう人たちともうまくやっていけると思っているよ」と返されたことがありました。わざわざ「宗教上の理由」と明言しまうわたしも、「空気読めて」いないのですが(笑)、別に頭を下げて「うまくやって頂く」理由もありません。
 彼らは逆に、お酒を飲む人々を侮蔑仕切っている人々に囲まれ、「お前は酒を飲むし偶像崇拝者だが、そういうヤツでも殺すのは良くないと思うし、うまくやっていけると思うよ」と言われる状況を想像できないのでしょうか(同じ理由で、ムスリムがズィムミーに対し「寛容」と言う言説には、やはり少し無理がある、とも思いますが)。
 
 エジプト人のムスリムと話していると、時々非常に独善的というか、イスラーム中心的な言葉を投げつけられることがあります(ただし非イスラーム圏内ではあまり経験しない。彼らも「アウェイ」では大人しい)。「ちっとも寛容じゃないじゃないか」と少しカチンと来るのですが、そこで自分たちが批判している当の対象を前にしたからと言って、全否定するというわけではない。
 人にもよりますが、彼らは全般に、変だと感じたら「変だ」と言うし、無理にわかったフリをしようとすることがあまりありません。場合によっては正面切って批判してくるし、そのやり方には無礼なものもあるのですが(この無礼さは批判されてしかるべきだし、その点では日本人は圧倒的に上品)、だからといって全否定するというケースは稀です。
 喧嘩の許容領域が広いとでも言うのでしょうか。「気にくわないことがあれば喧嘩するが、だからといって縁が切れるわけではない」というグレーな領域が、日本と比べるとずっと広いように見えます。
 大体、エジプトという国は長い歴史の中であっちの国に征服され、こっちの民族に支配され、と繰り返してきたわけで、「異質なもの」との出会いには慣れきっています。現在のエジプト社会も、宗教だけでもコプト教徒が10%程度いますし、身体レベルでの「人種」にしても実に多様で、社会階層による思考様式や「常識」の違いも日本の比ではなく、さらに外国人も非常に多いです。異質なものに一々目くじら立てていたら始まらない、という習慣が染み付いているのでしょう。
 イスラームという括りで見ても、常に異文化・異教徒とのぶつかり合いがあったわけで、時にはまともに戦いになりましたが、そう年がら年中殺し合いばかりしていてはお互い身がもたないわけで、「こいつホンマ気にくわないけど殺すのは明日にしとくか」とかで流していた部分が多いでしょう。
 
 心情的には「何だかんだ言っても同じ人間よねー」という共感の仕方も理解できますし、狭い「共感領域」に訴えることで得られる一体感や楽しみというのも、わかるつもりです。
 また逆に、エジプトのような「寛容さ」(エジプトしか例がないのも貧相で恐縮ですが)というのも、少なくとも普通の日本人の目から見れば最初はちっとも寛容に見えないもので、向き合ったりぶつかり合ったり人間関係が濃すぎて疲れます。
 ですから、「日本的」な均質性の重視や同調圧力を全否定しようというのではないのですが、そのチャンネルからしか「寛容さ」を発揮できず、かつそれが唯一のチャンネルだと信じているのでは、あまりにも度量が狭いのではないでしょうか。
 
 とりあえず、よくわからないものに対して、軽々しく「了解してしまう」愚は避けたいし、避けてもらいたいものです。