『シャルリとは誰か? 人種差別と没落する西欧』エマニュエル・トッド

シェアする

4166610546シャルリとは誰か? 人種差別と没落する西欧 (文春新書)
エマニュエル トッド Emmanuel Todd
文藝春秋 2016-01-20

 エマニュエル・トッド の『シャルリとは誰か?』。
 トッドの本は何度か取り上げていて、あまりシンパだと思われるのも微妙なのですが、この本はかなり異色という印象を受けました。
 トッドの面白いところは、人口統計学的なデータを元に、従来重視されていた表面的な政治制度や宗教といったファクターを大胆に捨象し、粛々と数字で読み解いていくクールでかつダイナミックなところなのですが、この本はとても政治色の強いもので、いつもの淡々とした語り口調ではなく、かなり激烈な魂の叫びのようなものが感じられます。トッドは本当にフランス、そしてヨーロッパの現状を憂いており、相当の危機感に迫られ、死ぬまでに成し遂げなければならない最後の戦いを仕掛けているようにも見えます。
 どのように受け止めるにせよ、読んで損はないかなり濃厚な一冊です。
 以下、簡単に紹介させて頂きます。

 この本はタイトルの通り、例の「シャルリ」の騒動を受けてのものなのですが、「わたしはシャルリ」がフランス、そして世界を席巻している間、トッドは沈黙を守っていました。自分自身の宗教に対する冒涜の権利と、他者の宗教に対する冒涜の権利を混同する人びとがヒステリックな騒乱を巻き起こす中、「シャルリ現象の意味に関してわずかな疑いも表明することは不可能」だったと言います。この本は、騒動が一段落したところで、満を持して撃ち込まれたものです。
 トッドは「わたしはシャルリ」のデモに参加した層を精緻な人口学的分析を通じて「MAZ」すなわち中産階級、高齢者、ゾンビ・カトリシズムと分析します。この「ゾンビ・カトリシズム」という用語はトッドが『不均衡という病』から使い始めたもので、1960年頃までカトリック信仰が強かった地域に住んでいる人々、既に宗教的ではなくなっているものの、出自としてカトリック的要素が最近まで強かった人々を指します。
 誤解してはいけないのですが、これはカトリックの人々が何か宗教的反発心などでイスラム・ヘイトに走っている、といった意味では全くありません。重要なのは、「最近になって信仰が失われた」というところなのです。
 カトリックそのものについては、トッドはむしろ差異主義的傾向を緩和するように働いていた、といいます。

カトリック教会は階層秩序の原則に執着しているが、それにもかかわらず伝統的に普遍主義的―「カトリック」とは普遍的という意味だ―である。1960年頃までカトリック教会は、普遍的なるものにあまり開かれていないいくつかの地域文化に対して、ひとつの抑制剤として、さらには自文化中心主義を抑制する要素として働いていた。

 ここでの差異主義とは、人類学的構造に基礎づけられた人びとの共有する基本的な人間観で、たとえば日本のように長子を他の兄弟と決定的に違うものとして扱う直系家族文化圏では「人は根本的に違う」という人間観が支配的になります。一方、兄弟を均等に扱う社会では「普遍的なもの」が想定される平等主義的な人間観が一般的になる、とトッドは語っています。そしてフランスでは差異主義的地域とパリ盆地を中心とする平等主義的地域が混交しているのですが、カトリックはかつて差異主義的文化に対する抑制剤としても働いていた、というのです。
 MAZの人々はさも宗教性が世俗性、ライシテに反する異物であるかのような言説を振り回しますが、そもそもフランスでは長い間宗教性と世俗性が同居しています。

宗教社会学がこうしてわれわれに開示するのは、「共同体主義」に近年熱っぽく対抗している世俗主義の言説の反歴史性だ。ああした言説はいわば、一度も存在したことのない過去を参照しているのである。二世紀にわたってフランスはまったく同時に革命の母であり、かつカトリック教会の長女であるという二重の状態であり、実際上はローカルなレベルで共同体主義的なあり方をしてきたのだ。

 外国人排斥に駆り立てているのは、宗教性そのものでも世俗性そのものでもなく、「宗教性がまだ喪失されたばかりである」という、変動期における不安なのです。そしてこの空白は、統一通貨という「偶像崇拝」ともリンケージしています。

フランスのあり方を大きく変えたのは、カトリシズム出身ではあっても、カトリシズムをすでに捨ててしまっていた有権者たちの票なのであった。つまり、単一通貨の採用は(…)唯一神への信仰の放棄に続いたのだった。一つの経済的プロジェクトへの賛同を決定したのは宗教ではなく、宗教の退潮であった。退潮いちじるしく、消失していく宗教の代替物としてひとつのイデオロギーが求められたのだった。そのイデオロギーとはこの場合、ひとつの偶像的通貨の創出であって、分析のこの段階ではわれわれはその偶像のことをユーロと呼んでも、金の仔牛と呼んでもたいして変わりはない。

神への信仰を失った空白感の中で、カトリック文化がユーロを発明した。信仰にともなっていた同情と慈愛の義務から解放されると、社会生活を階層秩序的に捉える従来からのヴィジョンが昂然と頭を擡げ、強固になる。

2005年にはすでに全人口のマジョリティにとって、ヨーロッパというプロジェクトの失敗は明白であった。(・・・)もちろんヨーロッパ主義の抵抗の拠点は、ユーロ圏の経済的破綻で苦しむことが最も少ない人びとによって構成されている。彼らがどうしてユーロの失敗で害を被らないかというと、金融的利益をもたらす資本の近くにいるからであったり、雇用の安定を保証する国家を植民地化していたりするからだ。けれども、われわれは彼らのこだわりが持っている形而上学的な次元を軽視すべきでない。通貨によるユートピアは、カトリシズムの崩壊の帰結であって、それはフランス革命が最初の脱キリスト教化の結果であったり、ナチズムがルター主義の崩壊の帰結であったりしたのと同様なのだ!

 ただし、これは個々人が強い通貨信仰を自覚的に突き動かされている、という意味ではありません。ここが重要なところですが、集団としての「信仰」の強さは、むしろ個々人の「信仰」の弱さによって基礎づけられています。
 このことは、ゾンビ・カトリシズムの人びとがフランスにおいて最後に信仰を捨てた人びとであることとパラレルな関係にあります。これまでフランスの「世俗主義者」たちは、常にカトリック教会との対立の中で彼ら自身でありました。先述の通り、世俗性と宗教性は長い間フランスで同居していたのです。

カトリック教会の最終的な消滅は、世俗主義に立つフランス人の生活に空白を残す。カトリシズムの終焉は世俗主義的フランスにとっても危機なのだ。
(・・・)
世俗性・非宗教性は一度も、神なき世界の絶対の中で自己定義しなければならない事態に遭遇したことがなかった。
(・・・)
神が存在していないというのは高度に理性的な考え方だが、人間存在の究極の目的という問題に解を与えてくれない。無神論を突き詰めていくと結局、意味なき世界とプロジェクトなき人類を定義するところにしか行き着かない。したがって、世俗主義的フランスもまた、それなりの角度から、今日の新しい宗教的居心地の悪さに貢献している。無信仰に慣れなければならないからではなく、ついに、教権主義の側からの異議申し立てという倫理的・心理的なリソースを奪われた「絶対」の中で無信仰を生きなければならなくなったからである。

もし無神論が曇りのない心理的な安らぎを長期にわたってもたらしてくれるどころか、逆にむしろ不安の発生源になるということを認めるならば、われわれはフランス国民を形而上学的に危険な状態にいるものとして表象しなければならない。そして、分析のこの段階に至ったならば、次にわれわれはフランス国民が自らの状況を構造化してくれるのに役立つような敵対者を、標的を求めているというようにさえ思い浮かべてみなければならない。さて今、いわば手の届くところにイスラム教がある。(・・・)もはや使えなくなってしまった自前のカトリシズムに代わるスケープゴートを必要としていることを認めることができなくてはいけない。

 集合体MAZの「最近になって信仰を捨てた」人類学的余響と不安、それを埋めるべく掲げられたマーストリヒト条約と統一ユーロ体制の失敗、それらがスケープゴートとしての「イスラム教」を求めている、という構図です。これまでであれば、信仰を捨てた人びとは「まだ捨てていない」カトリック教会との対立の中で自らを定義できましたが、世俗化が最前線まで到達した現在、彼らは自分たちを定置してくれる「宗教的な人たち」をどこか別のところから連れてこなければならないのです。
 シャルリのデモを主導していたのは「管理職および知的上級職」の人びと、つまり上層中産階級で、人口構造的に彼らは民衆層を切り捨てると同時に下層中産階級を取り込むことでマジョリティを形成しようとしている、とトッドは説きます。余談ながら、超富裕層を糾弾する言説もまた彼らにより主導されています。この言説には一理あるわけですが、それをことさらに強調することは、自分たちを「被害者」として印象付け、最下層の民衆層、都市郊外の貧しい若者などの搾取構造を見えにくくする効果を発揮しています。

 もう一つ、シャルリがテロ行為の反ユダヤ主義的次元を軽視していた、という問題が取り上げられます。これはわたし自身も感じていたことですが、トッドは『リベラシオン』紙でのマルセラ・イアクブの次の言葉を引用しています。

テロ犠牲者の追悼に、ひどく困惑させるような点があった。ユダヤ人の死者たちに割かれる部分がほとんどなかったことだ。もちろん、人は言うだろう。いや、ユダヤ人の死者たちのこともいたるところで話題になった、話題になった程度はといえば、それはたしかに、『シャルリ・エブド』の死者たちほどではなかったかもしれない、でも彼らのことを完全に忘れたわけではなかった、と。まさに、その点が問題なのだ。他でもないその点こそが、私たちの記憶を苦いものにするのだ。というのは、ここで強く受ける印象、それは、預言者の風刺画を描いたことを責めて人を殺すほうが、ユダヤ人を殺すよりも重大だという印象だからだ

 トッドは言います。

道徳的に見ると、まったく疑いもなく、トゥールーズでの殺戮(引用者注:ユダヤ系学校での発砲事件のこと)のほうが『シャルリ・エブド』でのそれよりも重大だ。ユダヤ人であるというだけの理由で子供や大人を殺すのが、ひとつの闘いを引き受けている編集部のメンバーを殺害するのに増しておぞましいことは明白なのだから。(・・・)フランス社会の第一の問題は、諷刺の自由、あるいは表現の自由の侵害ではなく、都市郊外における反ユダヤ主義の拡がりである。

 トッドはシャルリ現象を「宗教的なものとの関係においてしか理解し得ない」とし、フランス社会を特徴づける宗教的混乱の要素として次のものを挙げます。

①無信仰の一般化
②非支配的状況にあるマイノリティの宗教であるイスラム教への敵意
③非支配的状況にあるそのグループの内部での反ユダヤ主義の擡頭
④その反ユダヤ主義擡頭に対する、支配的世俗社会の相対的無関心

 そして「イスラム教をフランス社会の中心的問題として指定すれば、フランス人のマジョリティにとってではなく、ユダヤ系の者にとって、身の危険が増大するのが必至である」とします。

 このように、主にマグレブ出身のムスリムらに向けられる差異主義的な外国人排斥のメカニズムをトッドは抉出していきますが、そのトッドの手法自体、人類学的構造で人間集団を読み解くもので、ややもすると本質主義的に受け取られかねないものです。
 ここでトッドが「場所の記憶」という、非常に興味深い話をしています。
 それは、米国での移民の動向をもとにした分析で、「移民子孫は二世代目か三世代目になると、もともとの家族システムがどのようなものであっても、受け入れ社会の家族システムを採用する」というものです。このことは「家族を通して伝わる価値に想定されているパワーを相対化」します。

(このことは)子どもたちの無意識の中にハンマーで叩きこまれたような強い価値というものの伝達ばかりを想像する「精神分析的」モデルを遠ざける。

 もちろん、そうした「強い価値」の伝達もあるのですが、一方で学校や町、職場などでぼんやりと共有・模倣される「弱い価値」の伝達の積み重ねが、最終的に凌駕していくのです。
 そもそも「ひとつの家族システム、それは現実には、同じテリトリー内で配偶者をやり取りする家族群」です。人びとの流動性が高まっても地域文化が維持されるのは、そもそも、家族システム自体が親から子へと「強い価値」により伝達されるというより、交換の場によって維持されているものだからです。

根本的な逆説は、ここでは強いシステムを生み出すのが弱い価値だということだ

 リトル・イタリアやチャイナタウンのような「特別ブロック」も、移民第一世代・第二世代のうちはある種の緩衝材として機能しますが、それはソフトランディングのための通過点に過ぎません。

移民たちは常に、移住先がどこであっても、もし受け入れ社会が彼らに対してそれを禁止しないならば、その場所の市民になるのが運命だ。(・・・)実際には誰でも、現にいる場所で、たとえできるかぎり家族から引き継いだものに忠実であり続けようと願っていても、何よりもまず、周りの人々のうちの一人になりたいと切望するのである。このメカニズムは、子供や青少年においては格別に強い。学校や界隈の影響に抗して子供を教育しようとする家族があるようだが、そういう闘いはたいてい、あらかじめ敗北が決まっている闘いだ(強調引用者)

 では、平等主義的・普遍主義的人間観の敷衍(そんなことができたとして)によってこうした問題が克服できるかというと、ことはそう単純ではなく、トッドは「普遍主義的外国人恐怖症」という現象を示します。
 「兄弟が平等ならば人間は平等であり、民族も平等だ」というのが、平等主義的家族構造のメンタリティですが、実際に外国人と接したときには、必ず食い違いがあります。そしてその差異が非常に大きかった場合、「人間はみな平等だ、非常に異なるものがいた場合、それは人間ではない」というロジックが働くケースがあるのです。
 トッドは聴衆の一人に教えてもらったジョークとして「レイシズムってのはアラブ人みたいなものさ、存在しちゃいけないんだ」というのをあげています。
 差異主義的外国人恐怖が抽象的なラベル、例えば「イスラム」そのものを問題にするのに対し、普遍主義的外国人恐怖は振る舞いや礼儀といった目に見える具体的差異に向かいます。

アラブ恐怖症はフランスの民衆のもので、その動機においては平等主義的だ。イスラム恐怖症はブルジョワのもので、不平等主義的だ。

 一方、普遍主義的な外国人恐怖には「壊れやすい」一面もあるといいます。実際に存在するのは具体的な生きた人間でしかないからです。

この固有の壊れやすさの理念型を現代のフランスでかなりうまく例示するのは、FN(国民戦線)の男性活動家がマグレブ出身の若く可愛い女性といっしょに暮らしだし、党員証を破り捨てるという、珍しくもないケースであろう。

 トッドはFN(国民戦線)とPS(社会党)のそれぞれの外国人恐怖を次のように図式化しています。

PSは客観的に外国人恐怖症である。不平等主義的な人類学的構造に根ざしているこの党は差異主義であり、すべての移民の子供がネイションの一員になることを本当には望んでいない。
FN支持の選挙民は主観的に外国人恐怖症である。平等主義的な人類学的構造から生み出されているこの選挙民は、移民が体現する具体的な差異の存在に我慢がならない。

 このようにして、フランスにおけるジハーディズムの問題とされているものは、フランスの「うまくいかなさ」の原因を拙速にイスラム教に結びつけているものにすぎず、その本質は「フランス社会における若者」の問題であることが抉り出されていくのですが、これがジハーディズムにいかに先立つかを示すため、トッドは1999年に記した『経済の幻想』再版序文を引用します。

自由主義的な経済分析がとても適切に、いったいなぜ、少なくともいったいどのようにして、西洋の若者たちの簒奪が起こるのかを説明してくれる。グローバリゼーションが世界の労働市場を一体化する。第三世界を含めて地球規模で見るとき、若者は比較的大勢いるし、働かせやすい。小数の高齢者が資本を握っている。諸要素のコストが遅かれ早かれ平均化していくという法則により、もしある先進国が自由貿易に門戸を開けば、この場合いちばん夥しく存在する要素は資本であり、人口学的には資本は高齢者層に同定できるわけなので、これが優遇される。そして相対的に希少な要素である労働が、こちらは人口学的に若者たちを指すわけだが、これが不利な立場に置かれる。これこそまさに正確に、われわれが生きている状況なのだ。すなわち、若者たちの労働や消費や移動の自由が、自由貿易によって圧し潰されているのだ。最も権威ある高等教育機関を卒業した僅かなパーセンテージの若者たちが現実に、貧困化のこのメカニズムに晒されない場所にいる

 「中産階級と高齢者たちの福祉国家」がいかに若者から簒奪していくか、トッドは描き出します。

もし若者が不満だというなら彼らは外国へ行けばよい。アメリカでも、オーストラリアでもどこでもよかろう、というわけだ。若者の旅行と海外移住は、われわれのメディア、とりわけ高齢者たちを購買層としているメディアの好みのテーマの一つだ。アメリカで学生か料理人、ロンドンでバーテンダー、西アフリカで人道支援者、すべての冒険はやってみるに値する。なら失業と軽犯罪にはまっている都市郊外の若者たちの場合、シリアでのジハード戦士もあり得るのではないか? 冗談を言っているのではない。大真面目に、「イスラム国」という蜃気楼は若者の海外移住の一形態だと主張できる。
(・・・)
今日のフランスで思春期以降に見えてくる展望は、単にテレビゲームとソーシャルネットワークと解放されたセックスライフだけではない。それはまた格差の拡大や、いまや受け入れられてしまっている10%の失業率という、道徳的に頽廃した光景である。そしてさらには、互いに対立しているかのように装う政治家たちや、ただの芝居と化している議会の茶番である。また、社会的に保護されている中産階級のエゴイスティックな冷淡さである。
まさにその中産階級のクオリティライフをテレビは毎度褒めあげているけれども、その瞬間にも(・・・)わが国の刑務所はどんどん満員になっているのだ。

 この本の特に終盤のあたりは、なにかヒップホップのよく出来た歌詞でも読んでいるかのような、激烈な印象を受けました。
 トッドの見解について、各論では様々な受け止め方をする方がいらっしゃるかと思いますが、非常に値打ちのある言葉なのは間違いないと思います。

 この本そのものとは別の話になりますが、わたし自身は、なんであれ、予断をもつことは空虚なことで、あらゆる集合的な人間観、あるいは、なんであれ全体を理解しようとする試み全般に虚しさを覚えつつあります。
 すべては書かれたまま、書かれた時間と順序をもってしか進まない、と感じています。
 基本的に、わたしたちの脳みそは、せいぜいのところ村レベル程度のことしか考えられないようにできているのでしょう。人類の歴史の99%以上は、その程度のスケールの人間集団しか相手にする必要がなかったのです。これだけ大勢の色々な人たちを一緒に扱うという事態には、ほとんどの人の頭はついていけないのです。
 テクノロジーが世界を時間・空間的に小さなものにしたとしても、わたしたちは、自分で思っているほど大きなスケールでものを考えられるわけではありません。一見、抽象度をあげてことを概観できているように感じたとしても、実際にやっていることは村レベルなのです。ただ違うのは、どこが村の境界なのか、どこが自分自身の限界なのか、それが見えづらくなっていることだけです。
 わたしは、わたし自身に書かれた村がどこまでなのか、その中で書かれた小さな運命を生きるとはどういうことなのか、それを考えています。

追記:
 補足記事をアップしました。中産階級とは誰か、権威・不平等における外国人恐怖(『シャルリとは誰か?』捕捉)



シェアする

フォローする