数えられなかった羊

数えられなかった羊

アラブ、イスラーム、アラビア語、現代思想関係書籍の書評、映画レビューと言語・精神分析を巡るメモ

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好むと好まないとに拘らずサジダする

وَلِلّهِ يَسْجُدُ مَن فِي السَّمَاوَاتِ وَالأَرْضِ طَوْعًا وَكَرْهًا وَظِلالُهُم بِالْغُدُوِّ وَالآصَالِ
天と地上で凡てのものは、好むと好まないとに拘らず、またかれらの影も、朝夕、アッラーにサジダする(13-15)

 このアーヤが学問的にどう解釈されているのかは知りませんが、「好むと好まないとに拘らず」というところが、気に入っています。
 كرهですから結構強めの嫌悪だと思うのですが、とにかく天地のすべてがサジダ(跪拝)している。
 逆に言うと、サジダしていれば、つまり絶対的な恭順を示していれば、実は「好んでなく」ても、まぁ許される、とも取れます。
 もちろん、そう言ったら大勢の人に怒られるでしょうが、「とにかくサジダせよ」というのが先に来るというのは、非常に安心感があると思うのです。
 信仰というと、すぐ内面の問題とされます。その背景には、宗教を「文化」として飼い慣らし、個人の問題へと還元しようとする国民国家システムによる流れがあるわけですが、本来的には、信仰というのは単なる「個人の内面」の問題ではないでしょう。非常に社会的なものです。
 内面が大事であることに異論はありませんが、内面だけ取り出すと、自分で自分の心を覗き込んで堂々巡りする、合わせ鏡のような状態に陥ってしまうことがあります。
 「本当に本当に信じてるの?」などという問いは不毛ですし、そこを基準にすることは異端審問的袋小路と表裏一体です。
 サジダしてるんだから、いいじゃないですか。
 心は、まあ追々やっていけばいいんじゃないですか。だめですかね。
 
 信仰というのは、実はとても「世俗的」なものではないかと、考えています。

すごい体験と信仰

 以下の文章は、例によって真面目なムスリムの方には不快な内容を含む可能性がありますので、真面目なムスリム、「ふざけたこと書くな!」という方は読まないで下さい。不真面目な信徒が書いています。
 
 アブー・ハキーム前野先生がブログで入信記を綴っていらして、天と地を這う虫くらい格が違うながらも「すごいなぁ」と思って眺めています。
 わたしはなんとなーくイスラームに寄っていって、いつのまにやら入信しちゃった、という感じで、全然ドラマティックじゃないです。
 日本人ムスリマには、イスラーム圏出身の男性との結婚を機に入信、という方も多いですが(逆も稀にいる)、わたしの場合、そういうキッカケもありません。
 シューキョーに入ります、というと、エライ決意が要るものだったり、神秘体験とか肉親の死とか、大事件がないといけない感じがしますが、とりあえずわたしにはそんなものは全然ありません。
 子供の頃から哲学や思想には非常に惹かれていましたが、関心を持っていたのは哲学や精神分析で、狭義の宗教にはむしろ嫌悪感を抱いていました。近代初頭の西洋哲学はまだかなり「宗教色」が強いですが、最初の頃は「神の存在証明とか何をトロイことやってんねん」と思っていました。思想系を除けば、むしろ理系分野の方が好きでした。割と波乱万丈な人生は送ってきましたが、それで宗教に行こう、とか思ったこともありません。ハローワークに行く方が先です。
 以前に中田香織 さんの入信記を拝読した時、共感したのは、この手の「リアルな体験」のない寂しさ、というところでした。わたし自身は、後述するように、結局のところそういう経験を大して求めてもいなかったのですが。
 身近なムスリムから、あるイスラーム関係の集まりで出会ったアメリカ人(多分)のムスリム男性の話を聞いたことがあります。彼は、人生で迷っている時に、メトロで隣に座った男から「これを読んでみな」と、ポンとクルアーンを渡されたそうです。「するとそこに真理が書いてあったのさ!」と、このアメリカ人は目をキラキラさせていたといいます。語ってくれた彼は、「オレもそんな経験なくちゃいけないのかなぁ」と言っていましたが、気持ちはよくわかります。ドラマ、あったらいいですよね(笑)。
 まぁ、もしわたしが地下鉄でいきなりクルアーンを渡されても、絶対感化なんかされないと思うし、実際、最初に日本語訳を読んだ時は、ちょっとでもグッとくるところを拾おうと必死なばかりで1、正直「なんという退屈な本なんだ、これを信じているイスラーム教徒という人たちはまったく意味不明な人たちだ」と思っていました。日本語訳をパッと読んで感動するような人は、逆にわたしにはよく理解できません。ちょっと羨ましいので、否定はしませんが。
 
 と、前置きが長くなりましたが、書きたいのは「すごい体験」についてです。「すごい体験」にも色々あって、運命的な出会いでも良いし、いわゆる奇跡でも良いです。
 わたしは神様を信じていますし、天使も預言者も信じています。奇跡だってあると思っています。
 ですが、奇跡というのは滅多に起こらないから奇跡なのであって、JR中野駅で毎朝見られたりしたら、それは奇跡とは言わないでしょう。少なくともわたしは、今までにそんな凄い体験はしたことがないですし、多分これからもないし、重要なことに、そんなに見たいとも思っていません。びっくりするのでむしろ見たくないです。
 そもそも、奇跡というのは、奇跡単体で意味があるものではなく、奇跡を信仰に結びつけるのは、結局のところ個々人の心でしかありません。
 水の上を歩いてパンをどんどん増やせる人がいたとして、確かにそれはすごいパワーですが、それが神様の許しによって得た特別な力で、かつ彼が預言者である、ということの証明とは別の話です。ただ単に滅茶苦茶身体を鍛えている人かもしれないし、手品師かもしれません(いやまぁ、それだって凄いですけどね)。結局、その人の言葉を信じるか否かは、わたしたち自身の判断にかかっているわけで、それなら奇跡なんてあろうがなかろうが、本質的なことではありません。ただ、それが必要な人には必要な場面で下される、というだけでしょう。
 
 わたしにとっての信仰は、フツーのものです。免許証に住所が書いてあるように、信仰も持っている、というくらいです。
 本当はもうちょっと奥が深くて、当たり前ですが自分の中の核の部分を支えてくれてはいるのですが、毎日毎日そんなディープなことを考えて生きているわけではありません。
 そして大事なことに、むしろディープなことを考えないで済むからこそ、信仰は素晴らしいのであって、一年365日内奥の神秘と向き合わなければならないようなものは、少なくともわたしにとっての信仰とは別種のものに感じます。
 いちいち「内面」なんかと対峙しないで済むのは、やることが決まっているからです。とりあえず礼拝がありますし、クルアーンを読むのだってわたしにはなかなか骨の折れる作業です。死ぬまでには全部暗記したいですが、覚える先から忘れていくので、クルクル回るハムスターみたいに大忙しです。忙しいから、内面を覗き込んで「死のう」とかやっている暇がありません。そんなことやっているうちに、そのうちコロッと死ぬのでしょう。大変結構。
 
 わたし個人がとても勇気づけられたのは、エジプトで得た体験で、かの地の人々は九割方ムスリムなのですが、当然ながら全部が全部立派なムスリムというわけではありません。それどころか、ダメな人の方が多いでしょう。一般的な社会道徳とかいう点では、平均的日本人の方がマシかもしれません(社会道徳と信仰は基本的に別問題ですが、つながっている)。
 それでも、少なからぬ人が信仰を大切にしていて、ダメはダメなりに信じていて、できる範囲で実践している、そういう姿に非常に助けられました。ぶっちゃけ「これくらいならウチにもできるわ」と思ったところがあります(笑)。
 とても素晴らしいのは、市井のオッチャンで、別段教養があるわけでも立派な地位があるわけでもない人が、銭湯で一席ぶつみたいに、自分なりのイスラームを語る、ということです。年寄りだけじゃなく若い人でもそうですし、特に最近のイスラーム復興の流れのせいか、むしろ若い人の方がしっかり語れたりします。
 ちなみに、わたし個人の出会った範囲内では、コプト教徒の人も、欧米の「キリスト教徒」と全然違って、かなりしっかりした信仰心をもって実践し、たどたどしいながらも信仰を語るだけの弁舌と熱い魂を持っている人が多いです。これは本当にカッコイイです。
 
 イスラームには奇跡話が比較的少ないですが、有名所で、ムハンマド様صが一晩にしてエルサレムまで飛んでいって、そこから天に登った、というお話があります。この話を預言者様صがされた時、周囲の人々は「ほんまかいな」と半信半疑だったのですが、後に初代カリフとなるアブー・バクル様は「ムハンマド様がそう仰るのだから、それはそうなんだろう」と、ドーンと断言された、という逸話が伝わっています。
 このアブー・バクル様の態度というのが、わたしは非常に好きです。
 彼だって、飛んでいるところを見たわけではないし、別段根拠なんて何もなかったでしょう。普通に考えて、預言者とはいえ生身の人間であるムハンマド様صがエルサレムまで飛んでいったという話は、信じがたいです。「でも信じるんだよ! そう言ってるんだから本当なんだよ!」というのが、バクルの親父殿なのです。
 この親父殿の態度こそ、奇跡に対する真正の態度で、この腹の据わりがあれば、奇跡がなくたって大丈夫なのです。逆に言えば、この気持ちがないなら、奇跡が起ころうが天使が来ようが、全然意味なんかありません。
 
 奇跡があろうがあるまいが、神様は直接見えるものではないですから、本当のところ、疑おうと思えばいつでも疑えますよ。
 もっと言ってしまえば、疑って考えたって良いと思います。ただ、考えるにもやり方がある。
 外側に立って「どうなのかな、本当かな、胡散臭いな、やっぱキリスト教の方がええんちゃうかな」とかやっていても、いつまで経ってもラチがあきません。そういう人は、「ではこれが証明じゃ!」とか、エライ人が奇跡を起こしたって「どうせ東急ハンズで買ってきた手品でしょ?」とか思っているだけで、結局前に進まないでしょう。
 だからわたしは、一回全部呑んでしまおう、と思いました。
 わかんないですよ。わかんないし、多分、一生絶対というものはない。でも、やってみる。やりながら考える。
 というか、わかんないから「信じる」と言うんでしょう。
 犬が西向きゃ尾は東とか、そんなことなら「信じる」とか「信じない」とか、そんな議論になりませんよ。
 逆に「わかる!」と言い切ってしまっている人は、ちょっとヤバいんじゃないかと思います。一歩間違えば狂信ですし、単なる病気かもしれないし、あまりに依存しすぎに見えます。そういう時期が一時的にあっても良いと思いますが、ずーっとその調子、という人は、ちょっと冷静になった方が良いと思います。
 最初から、火を見るように明らかな答えが出る見込みなんてないんですよ。門の前でうろうろしてても始まらない。ないからこそ、実践しながら、問いながら生きていく。
 わたしはそうしようと思って、実際そうしています。
 
 何度も書いていますが、信仰と恋愛というのは似ています。あるいは結婚かもしれません。
 「どうして好きなの?」と言われたら、「背が高いから」とか「優しいから」とか色々言うでしょうが、そんなものは後付の理屈でしょう。優しい人なんて、他にナンボでも掃いて捨てるほどいますがな。
 好きになったらお腹が赤くなるとか羽が紫色になって開くとか、そういうものなら分かりやすいんですけど、実際のところ好きかどうかなんて、わからないでしょう。でも「好き」を実践して、付き合っているなら、それは好きってことなんでしょう。
 結婚したとして、じゃあ相手のことを100%全肯定、なんてカップルはあんまりいないでしょう。いたらかえって危ないんじゃないかと思います。不満なんて言い始めたらキリがないけど、なんだかんだで一緒に居たいわけで、じゃあその生活の枠組みの中で、日々問い、考えながら、少しずつ歩いて行きましょう。そういうものじゃないですか。
 信仰も一緒なんじゃないかと思います。
 
 この考え方は、本当を言うと支持できないのですが、極端なことを言ってしまえば、「来世を信じても損しない」という考え方もあります。パスカル式ですね。
 信じてなくて実はあったら大変ですが、信じてて実はなくても、別に失うものはない。そういう見方もあります(個人的には、最終的には支持しない)。
 「もしなかったら、それまでの人生で信仰に捧げた部分はなんだったんだ」と言う人がいるかもしれません。ハッキリ言いますが、そこで捧げて損するほどの大した人生ですか、アンタのは。エラくなったって博士か大臣、二百歳まで生きるでないでしょう。そんなしょぼくれた人生捧げたくらいで神様に受け入れてもらえるなら、安い取引です。イスラームは商人的発想に満ちた思想ですから、本当に文字通り「アッラーは支払いが早いでっせ」みたいな言い方がされています。良い取引です。
 捧げなさい捧げなさい。今売っとかないと、ライブドアの株みたいになってエライ目にあいますよ。
 まぁ、これは例によって余談です。この方法が「効きそう」な方は、薬代わりに使っても良いと思いますが、あんまり大事なお話ではありません。
 
 滅茶苦茶なことばかり書いてしまいましたが、「すごい体験」に戻ると、有名なハディースがあります。
 後に二代目カリフとなるウマル様たちがムハンマド様صと一緒にいると、白い服を着た見慣れない男がやってきて、ムハンマド様に色々とイスラームの本質について質問します。ムハンマド様が次々と正しい答えを言っていくと、男は「そのとおり」とうなずきます。預言者様に対して、いきなりやって来て突っ込んだ質問をしていくのですから、見ていた人はハラハラしていたことでしょう。一しきり質問すると、男は満足そうに立ち去っていきます。
 それを見てムハンマド様が「あれが誰だかわかるかね」と、周りの者に尋ねます。「あれは天使ジブリールだ。お前たちにお前たちの宗教を教えに来たのだ」と言うのです。
 このハディースが印象的なのは、天使が人の姿をしてやって来て、ウマル様をはじめとする「普通の人々」の前に現れているからです。
 預言者様お一人のエピソードでなら、聞いていても「そういうものだろう」と思うわけですが、この話はちょっとドキドキします。
 信徒にあるまじき暴言を吐けば、もしかするとこの男は、ただのちょっと頭のおかしい図々しい人だったのかもしれません。「天使ジブリールだ」と言われて、ウマル様が「ほんまですか、そら茶くらい出さんとあきませんわ」とか立ち上がって追いかけていって捕まえたら、その辺のオッチャンだった、ということだってあったかもしれません。
 でもお話はここで終わっています。ウマル様は追いかけなかった。男はどこかへ行ってしまった。そして永遠に、戻って来なかった。
 だから、奇跡なのです2
 奇跡というのは、結局のところ、「これ一つ」ということです。遡って再現できるものなら、奇跡とは言いません。何度もできるなら、普通の自然現象です。
 一回起こって、過ぎてしまってからでは、もうどうしようもない。確かめようもない。
 それはちょうど、わたしたちの人生が一つだけで、「わたし」がこの世に一つで、世界が一つで、この一瞬一瞬に過ぎていく時が、永遠に取り戻せないのと並行的です。
 そしてまた、アッラーがお一人であることと一つです。
 ウィトゲンシュタインではありませんが、世界に神秘はなく、世界そのものが神秘です。しかし、世界そのものという神秘は、普通に生きていてはなかなか感じられません。その世界は、毎日普通に目の前にあって、当たり前に流れていってしまいますから。
 その普通が、類まれなく普通が、時折素晴らしい輝きをもって見えることがあります。そういうものが、奇跡であり、「すごい体験」なのでしょう。
 だから、ウマル様たちにとって、その白衣の男は紛れもなくジブリールで、もう絶対にジブリールなのです。
 彼がジブリールであるということは、ウマル様がウマル様で、自分が自分で、世界が一つであることと一緒なのです。その瞬間、そう感じて、そう断言すれば、それが奇跡です。
 
 最初に、「すごい体験」というのは出会いでも奇跡でも良い、と書きましたが、奇跡というのは要するに出会いなのでしょう。
 出会いというのは、出会った後から振り返ると、それこそ「奇跡的」なこともあって、そこで出会った人のかけがえの無さに感謝するものですが、もしかするとそれくらい「自分にとって大切な人」というのは、地球上には他にいくらでもいるかもしれないわけで、出会った相手の何らかの属性に、出会いの尊さが還元されるわけではありません。また、「今となってはかけがえの無い」人だって、タイミングが違えばそんなに仲良くもならなかったかもしれません。要するに、出会いというものは一回性がそこにおいて代理されている限りにおいて、尊いのです。
 一回性というなら、毎日歯を磨くのだって、全部一生に一度で、ありとあらゆるものがかけがえの無いものです。でも普通、わたしたちはそこに特別さを見出しません。見出していたら大変です。
 そして、奇跡にしろ出会いにしろ、冷静に考えたら対象の性質自体はそれほど特別ではなくて、でもなぜだか、かけがえの無さが見出されてしまった、という事実だけが違うのです。
 すべてが単独的だけれど、普通は隠されていて、時々ふと、直接に目に入ってくることがある。そういうものが、出会いであり、奇跡なのです3

  1. ちなみに、これくらいの距離感の日本人が「グッとくる」箇所は、イスラーム的に全然どうでもいいポイントの場合が多いです(笑)。この辺の直観の通じ無さ加減は、日本人にとってのイスラームの面白さの一つです。 []
  2. イスラーム的な定義でこれが「奇跡」に分類されるかは知りませんし、ここでのお話にとっては重要ではありません。要するに「すごい話」です []
  3. ここで個人的には、ラカンのまなざしを連想しています。彼は、目の機能とは何か、と問いかけ、「隠すこと」のような答えを示します。どういうことかというと、光がモロに入ってきてしまっては、目というのは焼きつくように露出オーバーになってしまって、機能しません。ですから、目は何らかの形で「フィルタリング」する必要があるし、光量を絞る必要があります。フィルタをかけて、光の反射だけを見る。光はこの視界の中で偏在していますが、わたしたちは「見させるもの」としての光を直接意識することはなく、ただ光源を直視してしまう、という目の「間違った使い方」をした時だけ、視界を機能させているドライブを認識するのです。視界は、視界という世界の破綻する力によってのみ、視界として機能する。 []

あなたの価値は、別に人々が決めるのではない

وَلاَ تَسُبُّواْ الَّذِينَ يَدْعُونَ مِن دُونِ اللّهِ فَيَسُبُّواْ اللّهَ عَدْوًا بِغَيْرِ عِلْمٍ كَذَلِكَ زَيَّنَّا لِكُلِّ أُمَّةٍ عَمَلَهُمْ ثُمَّ إِلَى رَبِّهِم مَّرْجِعُهُمْ فَيُنَبِّئُهُم بِمَا كَانُواْ يَعْمَلُونَ

あなたがたは、かれらがアッラーを差し置いて祈っているものを謗ってはならない。無知のために、乱りにアッラーを謗らせないためである。われはこのようにして、それぞれの民族〔ウンマ〕に、自分の行うことを立派だと思わせて置いた。それからかれらは主に帰る。その時かれは、かれらにその行ったことを告げ知らされる(6-108)

 多くの人々が、自らの価値と尊厳のために、他者を否定しないでいられない。
 わたし自身もそうだ。
 そういう人々に、お題目のように共存だの相互理解だの美辞麗句を並べても、あまり意味がないように思う。人間はそれほど強くも賢くもない。
 だから、否定したくなったときは、むしろ自らの価値を守るために、否定しない方が賢いのだ、と自分を説得してみる。
 
 これは少し詭弁で、本当のところ、戦うべき時は戦わなければならない。
 ただ、中途な理解で喚いたり、弱いのに吠えるだけでは、結局我らの価値を損なうだけなのだ、という風に受け止めておこうと思う。
 人間は弱いが、本当に悪辣な人は限られているし、噛み付かれもしないのに噛み付いてくるほど暇な人も多くはない。
 
 あなたの価値は、別に人々が決めるのではない。そちらを向いても、価値は上がりも下がりもしない。
 だから、価値を確かめるために向くべき方向は、一つしかない。

どうぶつ心

 イスラームは人間と動物をキッパリわけますし、حيوان(動物)と人間に言えばそれは「クソヤロウ」みたいな罵倒語です(日本語だってウマシカですけれど)。割と西洋の影響の強い地域でも、愛玩動物を飼うような習慣については是々非々の意見があります。尤も、愛玩動物という社会的位置づけと動物そのものの位置づけは別問題で、これはいわゆる「先進国」の習慣に過ぎないとは思いますが。
 というわけで、動物をあまり身近に感じすぎるのはイスラーム的に是なのか非なのか微妙な気もしますし、いわゆる「先進国」で育ったわたしが「愛玩動物」的思想に汚染されているのは間違いないでしょうが、わたしにとって「どうぶつ心」というのは、信仰とつながっているところがあります。
 もしかすると仏教的な発想なのかもしれませんが、「いかにして動物の領域に近づくか」というのは、そういう言い方をするかどうかは別として、信仰の本質を分かりやすく切り取る一つの方法なのでは、と考えるからです。
 
 一つには、わたしたちの抱えているのが「人間的」問題だからです。「人間的」なことが問題なら、「人間的」じゃないひとたちを参考にするのは、自然な道理でしょう。
 ただ、あのひとたちとわたしたちはやっぱり違うので、同じやり方をすれば良いかというと、そんなに甘くはないはずです。シャリーア、法的領域というのは、そのためにあるのでしょう。要するに自由意志や規範の問題ですが、そういう話は今回は脇に避けておきます。
 もう一つは、わたし個人にアスペルガー的性質が強く(診断を受けたことはない)、「人間的な社会的な心がよくわからない」「決まったパターンに強い執着を示す」傾向があり、これが「どうぶつ心」とちょっと通じるからです。
 これについて、わたしが非常に強い感銘を受けたのは、テンプル・グランディンです。
 テンプル・グランディンは、アスペルガー症候群を抱えながら、動物学者として成功し、家畜施設の設計などに携わっているアメリカ人の女性です。著書では『動物感覚―アニマル・マインドを読み解く』が断然おすすめですが、同時に、彼女についてのリポートを含むオリバー・サックスの『火星の人類学者―脳神経科医と7人の奇妙な患者』を読まれると良いでしょう。
 彼女に共感するのは、その文章の巧みさと、著書以前に話題になったサックスの筆致によるものが大きいでしょうし、共感している人のほとんどは別にアスペルガー症候群ではないはずですが、「感情というものがわからず人間の外的状態と彼らの言う心情を結びつける辞書を構築して対応した」等というのは、まるで自分のことを書かれているような気分になりました。
 その彼女が、自閉症と動物の行動パターンの類似性を色々指摘していています。何せ動物ですから、人間の社会で重要な社会的心情とは無縁なのですが、決まったパターンの中での微細な差異には非常に鋭く影響されます。抽象度が低い一方、状況依存的な「思考」では高い弁別能力を備えます。
 
 後者の方の理由がまったく個人的なお話かというと、そうでもなく、信仰というのはとてもとても古い思考に根を持つもので、現代的な発想で理解しようとしては、一知半解に陥ってしまう危険が高いものです。特に、社会学的視点から信仰を「外から」分析しているようなテクストに影響されすぎると(こうした仕事自体は面白いし、その成果は楽しく拝読させて頂いています)、わかりやすく整理された「文化」としての信仰しか見えず、信仰実践そのものにとってはほとんど役に立たないし、いつまで経っても内側からの信仰理解には到達できません。
 「古いもの」だからといって、動物まで遡るのはやり過ぎだろう、とツッコまれるでしょうが、信仰が根ざしているような領域というのは、とても「動物的」な部分があるんじゃないか、と感じます。いえ、動物だったら人間のような信仰は要らないのですが、動物なら脳みそに最初から刷り込まれているようなものを、仕方なく別口で改めてセットしているのが信仰なのではないか、と考えるのです。
 飛躍しているのは承知ですが、その間をつなぐものを示せば、それは「書き言葉的思考」です。これについてはウォルター・J. オングの『声の文化と文字の文化』が必読1ですが、文字を持つ世界の思考と、識字能力のない人々では、思考様式そのものが大きくことなります。そして信仰というのは、識字能力のない人がほとんど、という状態から生まれて来たものです。
 文字を持たないことで何が違うかと言うと、カテゴリー的思考、抽象度の高い思考が著しく制限され、一方で状況依存的な発想が長じている、ということがまずあります。
 以前にも引用した箇所を再掲してみます。「ハンマー」「のこぎり」「丸太」「手斧」の絵を見せ、「仲間はずれを探せ」をやってもらった時のことです(もちろん正解は「丸太」)。

読み書きのできない二十五歳の農夫はこう答えている。「みんな似たり寄ったりだよ。のこぎりは丸太をひけるし、手斧だって丸太をたたき割れる。どっちか捨てろっていうんなら、手斧かな。のこぎりのほうがいろんな仕事ができるもんな」。ハンマーも、のこぎりも、手斧も、みな道具だと聞かされても、かれは、そういうカテゴリーによる分類には関心を示さず、あいかわらず状況依存的な思考にこだわりつづける。「なるほどね。でもあれだよ、道具なんかあったってそれだけじゃどうしようもないぜ。やっぱり材料がなきゃはなしにならないよ。第一それがなきゃ、なんにも建たないだろ」。(…)そのうち一つを他の人間が除外したのはなぜかと問われて、かれはこう答えた。「きっと、そうした考えかたがそいつの血のなかにあるからだろうよ」と。

 この農夫に「あなたは動物に似ていますね」といったら間違いなくブン殴られますが、これがわたしには、グランディンが指摘した「動物的発想」とクロスオーバーして見えてならないのです。そしてそれは、わたしの中では、アスペルガー的なるものと連なっています。
 
 このポイントが重要なのは、聖典というものが、「文字を読めないこと」を前提としてある、ということです。
 クルアーンを、特に翻訳で読まれれば、誰もが「何と退屈な本なのか」と驚くでしょう。こう書いたら他の真面目なムスリムの方に怒られるかもしれませんが、わたしは最初そうでした。クルアーンのロジックの内側に入らないまま、「一般の本」と同じ視点で眺めていると、主題ごとの整理はないわ、同じことばかり書いているわ、ストーリー的展開はほとんどないわ、まったくもって読みにくいこと甚だしい、というのが、極普通の現代人の感想のはずです。
 こうした読みにくさ、逆に内側に入った時の圧倒的な力と美しさ、というのは、クルアーンが「音」から出来ていることに由来するでしょう。
 考えてみて下さい。わたしたちは文字を知っていて、覚えておくべきことがあれば、書き留めることができます。他人の書いたものを読むこともできますし、今なら本すら開かずGoogle様にお伺いを立てるだけで、相当の情報を手にできます。
 一方、文字が使えない状況で、何とか多くの情報を蓄えておこうとしたら、どうするでしょうか。
 リスト的に整理する方法だけでは、暗記に限界があります。自然に頭に刷り込み、定着させるには、節を付け少しずつ変えながら反復する、という方法を採るはずです。みんなが試験前にやった、語呂合わせとか「スイヘーリーベーボクノフネ」みたいなアレです。
 聖典は元々声に出して読まれるもので、クルアーンは今でも音声が重要視されています。書かれたクルアーン(ムスハフ)は、言わば「楽譜」であって、本体は発声された「音」です。
 この世界を律するロジックを理解するには、一旦書き言葉を前提としたリスト的・カテゴリー的発想を括弧に入れて、「文字なき人」の心に近づいてみるべきです。
 
 「なんでそんな要らんことせなアカンねん、別にわかんなくてもいいわ」と言われるかもしれませんが、「文字なき人」の心というのは、「文字の読めるわたしたち」に圧倒されて目立たなくなっていますが、わたしたちの心の奥の方に、今でも生きているのです。
 ちょうど「古い脳」の上に人間的な大脳新皮質が発達していっているように、意識の上で目立つのは「文字の読める」心ですが、実のところ、もっと根本で「文字なき人」の心が下支えしているのです。
 信仰がコミットするのは、この部分ではないか、とわたしは考えます。
 この部分だけ、というのではありません。ですが、長い長い信仰の歴史、長い長い人間の歴史の中で、ほとんどの部分は、この部分との対話にほとんどの精力が費やされて来たのは、確かなのではないかと思っています。
 余談ながら、昨今見られる「イスラームは近代科学によっても証明される」だの、無理やり西洋近代思想と繋げようとしているような発想は、表面の方の「文字心」に依存しすぎた結果のように見えます(平和的共存のための方便としてなら、むしろ肯定的に受け止められるし、そうした努力は評価したいですが)。また、イスラームに限らず、一部のカルトのような類は、「文字心」の上澄みの上澄みが歯止めなく暴走した慣れの果てではないでしょうか。
 
 グランディンのところに戻ると、彼女は家畜施設の設計などで活躍されているのですが、「残酷ではない屠殺方法」について、多くの論考を捧げられています。これはとても面白いところで、「愛玩動物」的な発想であれば、「動物の好きな人が動物を殺す仕事をしているってどういうこと?」となるでしょう。
 彼女にとって、「自分に似たものとして愛すべき動物」と、「食べられるものとしての動物」というのは、連続しているのです。
 現代社会では、食品としての「肉」と、動物は潔癖なまでに分離されていますし、人の死すらも隠蔽されています。ですが彼女は、その二つが連続した世界を生きていて、多くの現代人なら間で葛藤するはずの矛盾を止揚しているわけです。というより、初めからそこに矛盾を感じていないのかもしれません。矛盾を作ったのは、わたしたちの側なのですから。
 わたし個人は、肉を食べなくても苦にならない質ですが、現実問題として、人は生き物を殺して生きています。一方で、生き物を愛でる気持ちもある。正確には、殺して生きるからといって、愛でる気持ちを捨てる必要はないし、愛でるあまりに潔癖になってしまう必要もない。むしろ、両方を一度に見るから、殺しすぎず、恵みを理解し、本当の意味で愛することができるはずです。
 イスラームでは「殺し方」が大切になりますが、奇しくもグランディンも「殺し方」に執心しています。愛でるからこそ、その死とも共に生き、殺しすぎず、殺し方を考える。
 清水芳見さんが『アラブ・ムスリムの日常生活―ヨルダン村落滞在記』という本の中で、お世話になったおじいさんが、可愛がっていた山羊を食べてしまう場面のことを書かれています。氏は信じられない思いで見ていたようですが、おじいさん曰く「あんなに可愛がったのに、こんな固い肉しか寄越さないなんて」。この連続ぶりは凄いです。
 正直、わたしには山羊を殺す根性があるかと問われれば自信がありませんが、少しでもそういう連続性を感じられるようになりたい、とは思っています。
 
 人間を「幼体成熟」と指摘する考え方があります。子供のまま大きくなっている、という意味です。
 ヒトがそういう生き物として創られているのなら、子供なのは仕方ないのでしょう。
 でも、ちっこい動物なりに、なるべくおっきい動物を真似て、「良いどうぶつ」になれるよう、やっていきたいです。
 大人は学校に行かないように、動物は卒業しているので信仰も要らないのでしょう。わたしはまだ小さい動物なので、神様にもらった教科書を持って学校に行きたいです。

  1. 『声の文化と文字の文化』のエントリおよび読み書き能力と状況依存的思考 A・R・ルリアの調査から参照 []

倫理的未完了

 中田考先生の某所での発言を見て、以下のテクストを拝読したら、非常に面白かったです。

規範と存在ーイブン・タイミーヤ神学の言語的基礎ー

 前にも見た気がしないでもないのですが、アルツなので右から左に抜けていたようです。フサイニー師「イスラーム神学50の教理」を読んだタイミングだったので、非常に頭がすっきりしました。
 
 自分用に強引にまとめると(例によって自己流ですので、間違っていたらごめんなさい)、イブン・タイミーヤにおいては、

・タウヒードのニ分類
主性に於けるタウヒード:アッラーが唯一の創造者であるとの認識
神性に於けるタウヒード:アッラー唯一者のみに崇拝を帰すこと

・アッラーの意志のニ分類
存在意思 الإرادة الكونية:意志即実在となる意志
規範意思 الإرادة الشرعية:即存在とはならないが望ましいものに対する意志、倫理的意志

・主性に於けるタウヒードはイスラーム以前からも存在する考えで、イスラームの使信の本質は神性に於けるタウヒードにある。
・神性に於けるタウヒードの実現には、何が人間に要求されているのか理解されなければならない。それは存在意志ではなく規範意志の問題である。
・そして、予定を認めることが即素朴決定論(「悪いことをしたのもアッラーが決めた運命なのだからわたしのせいじゃない」)とならないのは、以下の立場による。

そして世界に生起する事象が、自らの力を越えるものとして「予定」と言われねばならないのに対し、自己の行為に対しては、それを「予定」と言うことは出来ない。それは人間の行為が、アッラーの「存在」意思のみならず「規範」意思の対象であるという意味において、規範関与的事象として他の事象から存在論的に区別されることに基づく。しかしイブン・タイミーヤは「人間の行為がアッラーの『予定』ではない」、と言うわけではない。彼は「自己の行為を『予定』と呼んではならない」と言うのである。つまり「予定、シャリーア」問題は純理論的問題、即ち「叙述文」で表現される問題ではないため、実践的に解決せねばならない、即ち「要求法」の形で解決が与えられねばならないからである(下線引用者)

 ここで強調されているのは、信仰において決定的なのが(叙述的世界解釈ではなく)倫理的水準、あるいは法的水準だということです。
 
 非常に面白いのです。
 ここから先はわたしの勝手な展開ですが、自由意志は倫理的水準においてのみ成立する、とも言い換えられるでしょう。あるいは「時間差」とも言えます。
 「常に既に予定」ではあるのですが、倫理的要請として、わたしたちは行為の前の時点、つまり「自由を留保されていると想定される時点」において、語らなければならない。常に「それは予定(運命)であった」のですが、「定めであった」と振り返ることが許されるものと許されないものがある、ということです。たとえ過ぎ去ったものであっても、ある過去の一時点から、過去における未来として行為を語ることが要求される、そういう領域があり、そこにのみ自由がある、と言えます。あるいは、自由は時制の制御において成立する。

 さらに進めると、これはちょっと涜神的なので少し発言が憚られるのですが、もしすべての意志が即座に実現するとしたら(すべてが存在意志)、神に自由はないのではないか、という、割と伝統的な議論があります。実際に自分の意志が即実現すると想像して頂くとすぐわかりますが、意志が存在と直結しているとしたら、逆説的にもわたしたちには自由を行使する猶予がなくなってしまいます。自由というのは、単に何かが「できる」という意味ではなく、「隙間」のようなものを必要とするものです。もし神様が全然「隙間」のない存在なら、奇妙なことに自由がないのでは、というお話があるわけです。
 タイミーヤの議論で面白いのは、アッラーにおいても意志に二つの段階があり、言わば「時制の差」のような関係を成している、ということです。奇妙な言い方ですが、ここにアッラーの「自由」がある。正確には、わたしたちにはそこに「自由」があるように見える(アッラーご自身にとっては自由かどうかは多分問題ではない)。
 アッラーはいつでも存在意志において意志を発動することができたのでしょう。神とは、すべてを過去として語れる者です。
 にもかかわらず、しなかった。それは「神における自由」とも言えるし、あるいはまた、わたしたちの目線から見て、つまり、わたしたちにとってアッラーの存在意志と規範意志が「弁別できてしまう」という、感覚の水準において、アッラーは自由であるように「見える」。
 「にもかかわらず、しなかった」というのは、わたしたちという時間内存在の目線からの判断で、アッラーにとってはすべてが完了しているはずです。定めを定めとして決定できるということは、すべてを「完了したもの」として眺めている、ということです。
 しかし重要なのは、わたしたちにとって、そこに時間差があるように認識できてしまう、ということで、これと倫理的水準=自由と法の成り立つ領域が存在する、ということはパラレルなのです。
 
 わたしにとっては、この問題は時間、もっと言えば時制という言語的視点で考えるとスッキリします。完了/未完了として読み替えると、一番分かりやすいように思います。
 「自己の行為を『予定』と呼んではならない」というのは、言わば「未完了で語れ」ということです。何かが依然進行している。その進行しているものというのは、実際上は終わっていることかもしれません。كان يفعلみたいな状態です。だからこれは、過去・現在・未来と一直線に伸びていくタイムラインの問題ではなく、ある運動にとって相対的に「完了しているか、していなか」ということです1。信仰実践とは、アッラーにおいて完了しているものを、未完了の立場で引き受けるところにある、ということでしょう。
 
 すべては完了しているが、何かがまだ終わっていない。ただ、わたしに課せられた義務としての自由においてのみ、「倫理的に完了していない」。

  1. ここが「完了/未完了」という考え方の面白いところで、完了/未完了というのは、過去・現在・未来というタイムラインとは別の次元において区別されるものです。しばしば「時間軸の明瞭なヘレニズムと不明瞭なヘブライズム」のような対比が語られますが、ヘブライズムと同根のセム的思想において中心にある時間観は、絶対的な器としての時間ではなく、事物の本性との関係で相対的に完了しているか、展開中か、という時間なのでしょう。 []

『フサイニー師「イスラーム神学50の教理」―タウヒード学入門』マフムード・アブ=ル=フダー アル=フサイニー 奥田敦

4766408209 フサイニー師「イスラーム神学50の教理」―タウヒード学入門
マフムード・アブ=ル=フダー アル=フサイニー 奥田 敦
慶應義塾大学出版会 2000-09

 砂を食むような辛い読書を想定して手に取ったら(ごめんなさい)、思いのほかエキサイティングで楽しかったです。
 十六世紀末から十七世紀の西洋哲学のテクストを読んでいるような気分になりました。近世哲学に馴染みのある方には、非常に取っつき易いと思います。

 一つ個人的に楽しんだポイントを取り出すと、自由意志に関する部分です(自由意志という言葉は使われない)。
 まず、人間の行為について、以下のような分類が示されます。

選択的行為:
 その人間の力能、具体的行為、両者をつなぐ連繋(具体的行為の獲得)の三つの軌跡أثرがあり、すべて神をもととする。
非選択的行為:
 においては、その人間の力能と具体的行為の二つのみが、神による軌跡として存在する(連繋は存在しない)。

 つまり、いずれにおいても、人間自らが軌跡を引き起こすことはできないわけです。
 しかし、人間は選択的行為と非選択的行為の区別を知っており、前者においては自らの選択を意識することができ、この区別に従い、審判の日の清算が行われる、とされています。

 至高なる神が必然として意志を持つということから、被造物の存在は「因果関係」によるものでも、「事物の本性」によるものでもないことが引き出される。(・・・)至高なる神は、薪が火に触れたときに薪に燃焼を作り出す。

 だが、スンナの徒には、表面的にも本質的にも純粋な天命(がすべてを決定する)という決定論者の言う決定論的な天命の主張は、受け入れられない。(・・・)主こそは、すべてのことがらの創造者であり、その行為において彼にはいかなる協働者もいない。人々は、表面的(な感覚の部分)で、選択を確定し、たとえば「書く」という選択的な行為と、「震える」という非選択的な行為とを分けるのである。(・・・)スンナの徒にあって、「天命」と「選択」は矛盾しない。なぜならば、この二つはそれぞれのための異なる場所を持っているからである。前者の場所が「心」であり、後者の場所が「外的な感覚」である。主は「選択的な視角」については、《あなたがたは、あなたがたが耕す(畑の)ことを考えたか》(出来事章63)という御言葉で中止を払い、「天命的な視角」については《あなたがたがそれに種を蒔くのか、それともわれが種を蒔くのか》(出来事章64)という御言葉で注意を払っている。こうして「天命的な視角」は、イスラームの教えにおいては信仰すなわちイーマーンの柱であり、「選択的な視角」は、方すなわちイスラームの柱である。

 人間の意志と力能は、日常的な意味では事象の原因ですが、その原因を結果に結びつけているのは常に神の創造であり、実際上は原因ではありません。神か諸原因のもとで結果を創造するのです。
 しかしながら一方で、感覚の水準においてはわたしたちは選択を意識できる(だからこそ日常的には選択を原因と考える)のであり、法的水準はここにおいて適用される、ということです。

 天命と神慮を信じることは、人がシャリーアに従うことと抵触しない。なぜならば、人間は状況にあった法を課せられることによって、すべての瞬間において法の「名宛人」だからである。

 これは、すべてを天命に帰す決定論者の言い分と、人間に生起する力能を認める自然主義者やムアタジラ派の中間と言える立場です。

 この議論の面白さは二つあって、一つは神が不断に世界に介入していることと、もう一つは、それにもかかわらず法的領域、つまり人間の行為が裁定される領域があることが、感覚から語られていることです。
 このうち前者について言うと、前提として世界を神が創造したとして、その上で「神様は世界を創られたけれど、その後は放ったらかし」というのと「世界の運動には常に神が介在している」という二つの立場があり得るわけです。前者の立場を採るとしたら、創造後の世界に運動が存在するのは、被造物の中に原因があるから(「仕込まれている」)ということになりますが、これは汎神論ととられ批判の対象になり得ることは、中世から近世の西洋哲学を眺めても明らかです。そこで、スンナの考え方としては、被造物の中に原因はなく、それらを契機として神による不断の創造が行われる、と捉えるようです。
 ゲーリングスの機会原因論のようで、非常にスリリングです(ちょっと違いますけど)。
 わたし個人は、タウヒードの考え方が、わたしの単独性、世界の唯一性という、ちょっと近代思想に被れた脳みそから出てくる発想と被って感じられているのですが、常に神が介入している、という感覚は、この世界の唯一性の危うさ、というものと背中合わせに感じられ、ストンと落ちるものがあります。
 といっても、日常感覚として自然、ということではなく、そう捉えることが、わたしにとってのイスラーム、「近い神」という感覚とより親和する、ということです。

 これに関連した注釈で、クルアーンにおけるアッラーの「意志」を、以下のように分類しているのも興味深かったです。

1 「望み」、「実在的意志」:望まれたことが即実在となる意志
إِنَّمَا أَمْرُهُ إِذَا أَرَادَ شَيْئًا أَنْ يَقُولَ لَهُ كُنْ فَيَكُونُ
何かを望まれると、かれが「有れ。」と御命じになれば、即ち有る(36-82)

2 シャリーア的意志、法的意志:法的判断に関わる意志
يُرِيدُ اللّهُ بِكُمُ الْيُسْرَ وَلاَ يُرِيدُ بِكُمُ الْعُسْرَ
アッラーはあなたがたに易きを求め、困難を求めない(2-185)

 アッラーの意志がすべて即実在だとしたら、その間に法的領域はなくなってしまうわけですが、丁度人間にあって感覚としての法的領域が残るように、アッラーにおいても「意志すれど実現はしていない」領域が確保されているのが面白いです。

 なんだか、信徒の端くれの分際で面白いだの何だの気楽な書き方をしてしまってすいません。
 一つ難点を言えば、本書の中心となるフサイニー師の講義に入る前の、著者によるテクストの中で、「科学的イスラーム」というか、「イスラームは近代科学によっても証明されている」という、本ブログで何度か批判した文脈での語りがあり、これは個人的には受け入れがたいです1
 こうした考えにより、より安らかな信仰生活を送れる人というのもいらっしゃるでしょうし、別段それも否定はしませんが、考え方として倒錯的だと思いますし、少なくともわたしにとっては、胡散臭く見えるだけで信仰にとってちっともプラスにはなりません。

  1. 「科学的イスラーム」の問題と理神論等参照 []

誰にでもそれぞれの孤独がある

誰にでもそれぞれの孤独がある。
だから分かち合うべきは、分かち合え無さそのものだ。
唯一の神を信じるとは、そういうことなのではないか、と思うことがある。

賛美する動物

أَلَمْ تَرَ أَنَّ اللَّهَ يُسَبِّحُ لَهُ مَن فِي السَّمَاوَاتِ وَالْأَرْضِ وَالطَّيْرُ صَافَّاتٍ ۖ كُلٌّ قَدْ عَلِمَ صَلَاتَهُ وَتَسْبِيحَهُ ۗ وَاللَّهُ عَلِيمٌ بِمَا يَفْعَلُونَ
あなたは、天地の間の凡てのものが、アッラーを讃えるのを見ないのか。羽を拡げて飛ぶ鳥もそうである。皆それぞれ礼拝と唱念を心得ている。アッラーはかれらの行っていることを知っておられる (24:41)

動物は皆、生まれながらにしてアッラーを知っているなぁ、ということはよく考える。
彼らはそれぞれのやり方でアッラーを賛美している。
動物のようになりたいけれど、人間が動物のようになるには、人間に与えられた決まった回路を通らなければならないのだと思う。
 
どんどんバカになったら動物みたいになれるんじゃないか、でもバカになるのも簡単じゃないな、と思っていたら、予想外にちゃんとバカになってきたのだけれど、やっぱりどうもバカになるだけではダメらしく、バカになっただけ少し損したな、などと考えるこの頃。
でもまぁ、バカはバカで悪くない。

『聖なる家族―ムハンマド一族』森本一夫

4634474646 聖なる家族―ムハンマド一族 (イスラームを知る)
森本 一夫
山川出版社 2010-02

 ムハンマド様صの末裔とされる人々の歴史と社会的位置づけを概説した一冊。
 入門書的な本なのに、目新しい内容も多く、非常に楽しく読めました。内容もさることながら、著者の飄々とした語り口が気持ち良いです。保坂修司さんのスタイルを彷彿させます。イスラームについての深い前提知識がなくてもまったく問題ありません。
 個人的に特に面白かったのは、ムハンマド一族の「社会増」という現象。
 そもそもムハンマド様の子孫をどのように定義するのか、という大問題から分かりやすく解かれているのですが、その問題は一旦脇に避けても、生物学的な子孫の自然増以外に、ムハンマド一族は社会的な要因で「作り出され」ているのです。
 その原因の一つは、一族の受ける特権と系譜同定の困難さによる詐称等ですが、もう一つ著者が紹介している面白い例が、「超自然的な理由による社会増」です。著者は、個人的にテヘランで出会ったサイイド(ムハンマド様の末裔)の青年についてのエピソードを紹介しています。

(青年の)お父さんはおおよそ以下のことを語った。まず前段として、一族の女性に大きな卵型のほくろをもつ人がいたこと。それから話のヤマとして、ある日、一族の子どもが火の入ったパン焼き窯に落ちたが、やけどひとつ負わずに救出されたこと。そして、その時点ですべてが明らかになったこと。つまり、女性のほくろは預言者のふたつの肩甲骨のあいだにあったとされる通称「ハーシム裔のほくろ」であり、D君一族にはサイイドの血が流れていることが「判明」したというのである。さらにお父さんは、そうして「再発見」された血統は、当時のシーア派の最高権威であったB師によっても認定されたと語ってくれた。

 非常に興味深いです。
 現代日本の世俗的空気の中で育った人間なら、「それは違うやろっ」とツッコみたくなるのが普通だと思います。ですが、重要なのは、当事者を含む人々が、邪心なくこれを信じ、社会的な認定が成り立っている、ということです。
 超自然的な理由によるのでなくても、上述のように、そもそも厳密な血統の同定は極めて困難です。通信手段も限られた時代に、各地に散った末裔のデータベースを管理し続けることなどほとんど不可能ですし、遺伝子的調査手法が使える現代であっても、ムハンマド一族は単純に父系の連なりがある子孫だけを指しているわけではないので、同定は簡単ではありません(もちろん、対象が対象だけに遺伝子を調べる方法など実際上不可能)。
 つまり、「ムハンマド一族」という存在は、最初から社会的な存在であって、生物学的根拠というのは、絶対のものではない、ということです。社会が承認しているなら、それが「ムハンマド一族」なのであり、それで十分なのです。そして超自然的な現象にしても、「実際に」あったかどうかなどということは大して重要でもなく、要は皆がそう信じられるかどうか、というだけです。「説得力」があれば合格点なのです。
 
 わたしたちは、科学技術の力などによって、あたかもモノ自体が直接確認できるかのような世界観にすっかり洗脳されていますが、経験主義科学は対象世界への無限の漸近線を描くだけで、対象そのものを直接わたしたちに認識させてくれているわけではありません。ですから、実は現代社会であっても、「合意」こそが「真理」というのは通用してしまっているのですが、こうして世俗社会とは大きく異なる社会的力動によって動いている世界を見ると、「みんなが信じればそれが真理」という力の大きさを、改めて確認させられます。
 
 著者はムスリムではなく、超自然的な力も「信じていない」と断言されていますが、ポジティヴな語り口のせいか、信徒の端くれのそのまた爪垢のような人間が読んでも、不快感なく楽しめました。有難うございます。
 どうでもいいことで一つ不満を言えば、百ページちょっとの分量で新書的な内容なのに、1200円はちょっと高いです(笑)。

『イスラーム教 「異端」と「正統」の思想史』菊地達也

4062584468 イスラーム教 「異端」と「正統」の思想史 (講談社選書メチエ)
菊地 達也
講談社 2009-08-11

 タイトルからアクの強い一冊を予想していたら、意外と淡々とイスラーム法学・神学の展開を追う構成でした。イスラーム思想史概説書としても読めると思います。ただしシーア派、特にイスマーイール派に多くの紙数が割かれています。
 個人的には、冒頭での「異端」概念を巡る論考と、末尾近くのスンナ派での理論構成、そしてドゥルーズ派などの「限界宗派」についての記述が、特に面白く読めました。
 
 いくつか興味深かったところをメモしておきます。
 まず、イスラームにおける「異端」概念についての議論から。

 キリスト教とイスラーム教が比較される場合、前者がorthodoxyを求める宗教であるのに対して、後者はorthopraxyの宗教であると説明されることがしばしばある。ユダヤ教内の律法主義を批判しながら成立したキリスト教では信条・教義の正しさが求められるが、ユダヤ教と同様に戒律重視であるイスラーム教では、まず求められるのはおこないの正しさということである。宗教の全体的な傾向について言っているのなら、このような対比は間違ってはいない。近代初期までの西欧においてたびたび実施された異端審問のように、人の思想・信条に立ち入り、それを裁こうとする試みは、同時代の中東イスラーム圏ではあまり起きなかったのも事実である。

 もちろん、異端排斥的な教義論争がなかったわけではなく、本書内の引用箇所でも留保がされていますし、マアムーンのムウタズィラ派正統化による「異端審問」についても概説されています。
 本書全体の流れとしては、まず比較的教義の明確な「異端」が分離することで「その他大勢」としてのスンナ派が析出されてきて、多数派が遅れて理論構成する、という展開となっています。この歴史展開について、キリスト教におけるグノーシス派の「分派」との比較なども触れられています。
 
 続いて、スンナ派におけるカリフ論と無謬性についての議論から。

 (・・・)イマーム派系のイマーム論では、イマームは人間の中で「最良の者」であると定義される。これに対し、マーワルディー1の理論において重視されるのは、カリフの資質よりむしろ統治契約成立の有無である。マーワルディーはカリフの条件として、公正であること、知識があること、五体が健全であること、臣民を統治し公共福祉の増進を促すような意見を持っていること、イスラーム教の敵と戦う勇気と気概を持っていることなどをあげている。だが一方では、カリフ選出時に「もし、より優れた方の人物を推挙したが、不在や病気であったという事情や、あるいは劣っている人物の方が、人々の服従を得やすいとか、人身を掌握しやすいとかの理由によるのであれば、この選挙は有効で」あるとも主張している。マーワルディーにとって、カリフは無謬どころか最良でなくても構わない。劣っているからこそ都合が良いという理由でカリフが選ばれることすら、彼は許容する。また、カリフが在任中に精神に異常を来したり、身体に欠損を生じた場合にカリフが廃位される場合もありえると考えている。このような事態も、理論上は無謬のイマームには起こりえないことであろう。

 何の根拠もない個人的な感覚としては、預言者ムハンマド様صといえど人間であり、「宗教的な事柄」2以外では間違い得る、と考える方がイスラームの原理に即していると思え、ましてカリフやその他の指導者となれば、こうした実際的な捉え方をする方が共感できます。
 
 ちなみに、カリフ制と言えば中田考先生ですが、氏のweb上にあるテクストのうち、カリフ制に特に関係の深そうなところをリンクしておきます。
karif.pdf カリフ制こそ解答(pdf)
現代イスラームのバイア論(1)
現代イスラームのバイア論(2)
イスラーム法学に於けるカリフ論の展開

4766412389 統治の諸規則
アル マーワルディー 湯川 武
慶應義塾大学出版会 2006-05

  1. 10-11世紀のシャーフィイー学は法学者 []
  2. 但し「宗教的な事柄」とはクルアーンの聖句のみを指すわけではなく、啓示にも様々な種類があり、例えばムハンマド・イブン=ユースフ・アル=シャーミーは啓示の状態を八つに分類していますが、その中には通常の覚醒状態で「使徒の直面している問題に対しアッラーが彼の舌を用い神的採決を下す」ことも含まれています []
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