数えられなかった羊

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アラブ、イスラーム、アラビア語、エジプト、現代思想、言語・精神分析 書評と翻訳と雑記

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宗教の誕生

 宗教の誕生。
 そう言うと、祭祀遺跡の考古学的研究とか、埋葬の始まりといったことを連想するでしょう。それはそれで興味深いのですが、ここで言う宗教の誕生は別の話です。
 では、宗教的であることの反対とは何でしょうか。今日的には多分、「世俗的(secular、علماني)」という言葉が来るでしょう。しかしこの世俗概念は近代の発明であり、実際、19世紀に「無神論」とか「宗教的ではない」というネガティヴな言葉の代理として登場してきたことに始まるようです1
 わたしたちを取り巻く環境においては、宗教はしばしば「基本の生活」にプラスアルファで付け加えられる思想信条のように捉えられています。これがそもそもの誤りの始まりだということを、何度も指摘してきました2。つまり、「世俗」がデフォルトで、お望みならオプションでシューキョーもどうぞ、という具合です。
 しかし、こうした形で捉えられたシューキョーは、特殊近代的で骨抜きにされた、「原住民」が観光客相手に演じて見せる「伝統芸能」のようなもので、本来の宗教とは根本的に異なるものです。そして、結論を先取りしてしまいますが、宗教の側に立っている(と思っている)人々自身が、この宗教観、オリエンタリズム的逆投射を引き受けてしまっているところに、今日的な宗教問題の多くが根を持っています。
 「宗教」が誕生したのは、世俗が誕生した時です。つまりおおよそ近代以降、とりわけ18世紀から19世紀頃です。もちろん、それ以前にも今日で言うところの宗教現象にあたるものは存在したでしょうが、「宗教」が析出されたのは世俗概念の成立をもってです。それ以前にも宗教概念はありましたが、今日的な「オプションとしての宗教」という概念とは全く異なるものだったでしょう。
 宗教は世俗に先立ち、発生論的に先行しますが、世俗概念はその成立において遡及的に基体の位置をかすめ取り、論理的に後行するものとして「宗教」を生み出しました。そしてこの「宗教」概念によって、それ以前にあった宗教が隠蔽されることになりました。
 本質的に「無意味」であるところの世界に、宗教や何らかの価値体系が意味を「付与」するのではありません。世界は基本的に有意味で、特権的な実験室的環境において初めて「無意味」が成立するのです。丁度統合失調症患者の関係妄想のように、世界はデフォルトで意味を持ったものとしてわたしたちに迫ってきます。もちろん、その「意味」の多くは、今日的に言えば「根拠がない」ものでしょう。しかし、意味の追跡を逃れてこれを「根拠がない」と言うのは、相当な力技をもって初めて可能になることです。
 ここから始めなければ、宗教についての何も内側から理解することはできないでしょう。いや、ここで「宗教」という、一つのまとまりあるものとして語ること自体、既に世俗概念のトラップに嵌っています。そこには一つのまとまりすらないかもしれない。
 厄介なのは、「宗教者」たち自身が、この逆投射的な見方に捉えられてしまっていることです。ある種の宗教的テロリズムについて、むしろこれを近代の所産と論じるものがありますが、これも並行的です。「宗教があることによって『心の平安』が得られる」などと言う時、既にトラップに嵌っています。心の平安はあるかもしれませんが、宗教はヘーアンを得るためのオプションではない。
 個人的にここで連想するのは、ラカンの四つのディスクールです。この文脈における世俗は、大学人の語らい、つまりS2「知」が対象aに語りかけ、命令者としての第一のシニフィアンS1が抑圧される、という構造です。ここから逆投射的に想定されるのは、主人の語らい、つまりS1がS1に語りかける、あるいは命ずるという構図です。これは全く、遡及的にイメージされたパターナルな「宗教」概念にぴったりです。
 もう一つ厄介なのは、宗教自身も、こうした語らいのトラップにすぐにはまり込む、ということです。預言者は分析家のように語り、つまり対象aが無意識の主体へと語りかけ、結果として命令者S1がproductされた筈です。しかし人々はしばしば、これを端的に命令者が命令する語らいへとすり替えてしまう。こうしたことは近代以前にもあったでしょうし、あるいは「必然的な錯誤」なのかもしれません。
 しかしこれが必然なのだとしても、それに抗う要素がなければ、観光客相手の伝統芸能のような死に体に他なりません。そうでないものを発見するには、まず「宗教」というカテゴリを外して見る、という難行を試みるより他にないように考えられます。あるいは、実のところこれは難行でも何でもなく、ふと気の抜けた時に誰もがやっていることなのかもしれませんが。

  1. ちなみに、エジプトでは「世俗的」ばネガティヴな言葉なため、代わりに「リベラル」とか「進歩的」のような言葉がよく使われます。つまりエジプトにおける「リベラル」は、必ずしも「リベラル」ではないということです []
  2. イスラームの内側から外に突き抜けるということ選ばないことでは無宗教にはなれない人々の目線と神様の目線等参照 []

現実と虚構の区別は出来きすぎてはいけない

「阪神x巨人戦」が中止になったようで、代わりに血液型による行動の違いなどを紹介した「血液型ランキング」が放送されていた。離婚しやすい血液型、太りやすい血液型などが紹介されていた。
その真偽はともかく、あくまでこれは個人的な観察だが、血液型性格判断を信じている人ほど、社交性があるように思える。反対に、血液型性格判断を信じていない、正しい判断力を持った人の方が、社交性が低いような気がする。
正しい判断力のある人間よりも、判断力のない人間の方が社交性が高い――。これは、メディアによる人間への影響を調査した結果と一致する。坂元章らによる「青少年と放送に関する調査研究報告書」(2002)によると、現実と虚構の区別がつかない人ほど社交性が高いという分析結果が出ている。ただしここでいう虚構とはテレビのことを指し、テレビゲームは含まない。テレビの影響を調べた結果、現実と区別のついていないほど社交性が高いことがわかった。テレビゲームの場合、現実と虚構の区別が出来るかどうかと社交性との間に関係はなかった。
また、NHKの調査(『NHK日本人の性行動・性意識』)でも、似たような調査結果が出ている。メディアから影響を受けた人たちと、そうでない人たちを比較したところ、メディアから影響を受けた人の方が、恋人にも恵まれ、初体験の年齢も早かった。「メディアの影響」と聞くと負のイメージを抱きやすいが、実はメディアから影響を受けている人の方がコミュニケーション能力に長け、性的な領域では活発な様相を見せているのだ。
-憂鬱なプログラマによるオブジェクト指向日記 過去ログ-

 これは面白いです。最近触れているプロレス的なるものともつながります1
 ただ、この後で続けている「フィクショナルなものから人間関係を学習するのでは」というのは順序が逆で、そもそもわたしたちの生活世界を支えている多くの構造物がフィクショナルなものです。真の人間関係と嘘の人間関係があるのではなく、人間関係はフィクショナルなもので、またその関係性において機能する様々な社会的構造物も(学歴とか結婚とか)、フィクショナルです。といってももちろん、テレビドラマのような意味で「フィクション」な訳ではありません。重要なのは、いわゆる意味での狭義のフィクションと、「真剣なフィクション」を分かつ分かりやすい目印のようなものはない、ということです。こんなことは手に垢のまみれまくった議論で、ここが一筋縄にいかないから言語行為論の人とかが百年くらい喧々諤々やっているのです(笑)。
 これはフィクションの「向こう側」がないと言っているのではなく、向こう側はあるのですが、それは直接に識られるものではなく、かつわたしたちを包囲する「ある特定の」フィクションと「いかに」結びついているのか、その結びつきについてフィクション複合体の内部からは説明できない、ということです。
 まぁそう言うわたし自身は、社交性のまったくない「原理主義的」人間なのですが。

  1. それはバッタである、アッラーではないも関連 []

水を飲む場面から始まらなければならない

 かなりベタで恥ずかしいのですが、以下のような動画がありました。CMの映像のようです。

 人を助けるなり施しを与えるということは、その人からの見返りが見込めるからではありません。全然関係ない方から突然返ってきたりするものだからです。
 関連することを以下などで書いています。

世間と神様とTPP
間があるから、行いは必ず報いられる
巡り巡ってイラク人ムスリマに祝福の届けられんことを

 と、これで終わりにすれば、なんともお行儀良く説教臭いわけですが、本当のところ、これはちょっと正確ではないでしょう。
 何が足りないかと言えば、この動画で言えば、あの作業員の男は、一番最初に水を飲むべきです。順序が逆です。
 その水はどこからやって来るのか。動画の一番最初ですから、与えたものは現れません。つまり外部です。
 この動画のような物語や、「困った時はお互い様」的な思想は、御行儀よく見えが良いですし、それはそれで悪いことではないのですが、それだけではただの社会-内的な道徳に過ぎません。弱ければ役に立たず、強ければ形骸化する、それだけのものです。なぜなら、ここでは、すべてが「人」で巡らされているからです1
 しかし、与える運動を駆動しているエンジンにあたる部分は、複数の人々、つまり動画の内部の世界にはありません。
 これを神と言われて抵抗があるなら、集合そのものとでも理解すれば良いでしょう。人の集合そのものを示すシニフィアンです。
 だから、まったく不条理にも、動画は唐突に、男が水を飲む場面から始まらなければなりません。そして実際、わたしたちの生は不条理に唐突に始まり、水を飲んでいるのです。

الَّذِينَ يُؤْمِنُونَ بِالْغَيْبِ وَيُقِيمُونَ الصَّلاةَ وَمِمَّا رَزَقْنَاهُمْ يُنفِقُونَ
主を畏れる者たちとは、幽玄界を信じ、礼拝の務めを守り、またわれが授けたものを施す者
(雌牛章3節)2

  1. もちろん、この些末な現象面だけを見て道徳的に振る舞うことも、別に悪いことではない []
  2. 「われ」はもちろんアッラーです []

何もないならアッラーを信じればええやん

 主に原発を巡る言説の中で「何を信じて良いものなのか分からない」といった表現を目にするし、一般的にも「混沌の時代」を表現するものとして「信じられるものが何もない」みたいなことがよく言われます。
 何もないならアッラーを信じればええやん、と思うのですが(笑)。
 いや、実際のところ、唯一者を信じればそれで良いと思っています。もちろん、唯一者を信じたところで、「群馬のマイタケは危ない」とかそんなことは教えてくれません。もしかすると、どこかの学者がファトワーを出して「三陸沖の魚はハラーム」とか言い始めるかもしれませんが、そんなものはヒゲのオッサンがテキトーに言っているだけですから、我らが主の御言葉でも何でもありません。自分で考えて信用できると思うなら信用すればいいし、そうでなければオッサンの寝言だと思っておけばいいでしょう。
 これはかなりアホな想定ですが、原発(でも何でも)を巡って色んな学者が色んなことを言っていて何が本当か分からない状況で唯一者を信じるというのは、人の言うことを何も信じないのと一緒です。要するに何だかよく分からないのだから、自分で考えて自分の責任において「こんなもんやろ」というのを選んでおけ、という、至って常識的というか、身も蓋もないものです。
 そして世界は、基本的に身も蓋もないもので、別に「混沌」としているのは「物語なき現代」だとか「超大国なき世紀」ばかりではありません。いつだって世界は混沌としているし、どこからがルールでどこからが反則でどこからが演出でどこからがガチなのか分からないプロレス的なものでしょう。
 もちろん、非常に多くの学者や識者が、一致した意見を出す、という状況は大いにあり得ます。そういう場合は、この意見を信用してもまぁ大丈夫な確率が高いでしょうが、その時は、信じる信じない以前に多分あなたやわたし自身も同じような考えなのではないかと思います。もし違ったらどうする、というのは、一つ大問題としてありますが、それも主に尋ね自分で決めるしかないでしょう。
 唯一者を信じるというのは、基本的にはそういうことではないかと、わたしは考えています。
 じゃあ何も信じないでもいいじゃないか、というと、確かに良いと思います。しかし、大抵の場合、わたしたちは、何も信じていないつもりで何かを信じてしまっています。自分が何を信じているのか知らない、その状況は、大前研一を信じているよりもっと危ない状態でしょう。ですから、信じるものを唯一者にピン止めしておくというのは、か弱い人間に与えられた恵みとも言えます。
 何もないならアッラーを信じればええやん。だめですかね。

非合理的な名誉の死なんてどこにでもある

 うろ覚えなのですが、モーメンさんの『地図が読めないアラブ人、道を聞けない日本人』の中に、負けると分かって戦いを挑み死を選ぶ武将の話にモーメンさんが驚く、という下りがあります。「こんな不合理な行動はアラブでは考えられない、不利な状況なら一旦引いて体制を立て直すべきだろう」ということです。
 この件をうろ覚えなままにエジプト人の友人に語ったところ、「そんなことはない、ムタナッビーはどうなるんだ」と返されました。ムタナッビーというのはアラブの有名な詩人ですが、人を罵る詩を書きまくって恨みをかい、ある時待ち伏せにあいます。一度は逃げ出そうとするのですが、少年従者に「あの勇ましい詩を読んだムタナッビーが逃げるのですか」と言われ、戦いを受けて殺されてしまいます。
 「合理性を退け名誉をとる」という意味では、両方とも似たようなものです。
 この時わたしは、多くの人の陥りがちなトラップに見事に嵌っていたことに気づきました。
 トラップというのは、「民族性による説明」のようなもので、例えば「日本人は名誉を選び、かつてはハラキリという風習があった(が、アメリカ人なら合理的だからそんなバカなことはしない)」等々といったものです。
 でも、おそらく間違いなく、「名誉の死」などという概念は、世界中どこにでもあるのです。その名誉を「いかに」守るか、という、具体的な様式については、それぞれのお国柄というのがあるでしょうし、例えばハラキリの具体的な手順とか作法、ハラキリを巡るcode(こういうハラキリは良い、こういうハラキリはダメだ)は「日本独自」と言えるかもしれません1。しかし、「時には合理性を退け名誉を取る」などという抽象度の高い現象については、洋の東西を問わずある状況では出現するに決まっています。
 件の武将のエピソードには、エジプト人であるモーメンさんが「これは実に日本的」と感じた要素があったのでしょうが、おそらくそれは、かなりの程度で文脈依存的なものだった筈です。モーメンさん自身もそれを「名誉の死」のような抽象度の高い事柄と勘違いしている可能性がありますが、実際のところは、その死に至る具体的な流れに対して違和感を抱いた筈であり、冷静になって違う状況を想定してみれば、似たような現象がアラブでも世界中どこでもあり得ることがわかったはずです。

 この手の勘違いというのは世の中に溢れていて、何かというと「自殺は日本の伝統」「四季があるのは日本だけ」みたいなザックリした話が聞かれるものですが、所詮人間、手二本足二本、同じ地球の上に住んでいる訳ですから、抽象度の高い事象になればなるほど、世界中どこでも大差ない筈です。
 問題は、実際は単なるディテールの差異に過ぎないのに、これを一般性の高い大きな枠組上の違いと勘違い(あるいは意図的にすり替え)し、さらにこれを「日本と世界」という、これまた大掴みな構図に落としこんでしまう、ということです。ちなみに、こういう場合の世界というのは、基本的に(世界の国々のほんの一握りにすぎない)欧米諸国のことしか想定していません。更に言えば、その「世界」と対置される独特なる類まれなる地域というのも、「日本」という括りに無条件に落とされています。なぜ青森や東アジアではいけなかったのでしょう。

 まぁ、この話は割りと言い尽くされた感のあるものですし、民族性ジョークであるとか、カジュアルな娯楽の一種として「独自性」を語る程度なら、とりたてて目くじら立てるようなものではないかもしれません。わたし自身も惹かれるところはありますし、実際面白いものもあります。
 しかし、例えば「日本」に対する賛辞がそのまま自らの自尊心を満たすような言説に埋もれてしまう(あるいは埋もれさせる)のは、危険というよりはみっともなくて哀れです2。もちろん、そういうみっともなく哀れな民は、日本にしかいない訳ではないですが。

  1. しかし、その「独自」は日本というよりある時代と地域に対して帰属するものであり、例えばあるやり方のハラキリが、戦国時代には正しくても江戸時代には正しくなかった、江戸では良かったけど駿府では無作法とされた、といったことは大いにありうる。 []
  2. しかも、そういうところでセコイ自尊心を満たしているヤツに限って、自分は何もしない。以前にオリンピックだか何だかに出場する選手の服装が問題になり、「日の丸を背負っているのにあのだらしない格好は何だ」とか批判している人がいましたが、背負われてる側が言っているんだから凄い話です。文句というのは、実際のところ、世話している方ではなく世話になっている側がグダグダ言うものです。 []

それはバッタである、アッラーではない

 割りとよく言われることですが、日本語の「神」という言葉は、godやإلهに照応していません。godやإلهも広い意味を持つので、重なる部分はありますが、イスラーム(キリスト教やユダヤ教でも)における唯一神の概念を考えると、ここにおいて最も重要な要素が「神」という語には完全に欠落しているように思われます。
 godやإلهに「神」を訳語として充てることについては、伝統的に長い議論があります。日本語の「神」の語感は啓典宗教におけるそれとは大分異なり、要するに「ずば抜けた存在」的なものです。ネットスラングだと、単に何かに秀でた人が「神」と呼ばれることすらあります。これはもちろん俗語用法ですが、こうした用いられ方がするということは、「神」の根底的イメージとの間に通底するものがあるからです。
 考えれば考えるほど、日本語の文脈の中だと、唯一神的な概念が表現しにくいです。というより、本来どんな言語でも容易ではないのですが、一神教が伝統化している領域ではその難しさに「慣れて」いるのではないか、とも考えられます。
 一方でイスラームにおけるアッラーを「アッラー」とカタカナ表記してしまうことの弊害というのもあります。こう書いてしまうと、所謂「アッラーの神」的なイメージ、つまり「中東の方の変わった神様」的なイメージが生まれ、それこそアッラーとは似ても似つかない印象を与えてしまう場合があります。アラビア語における「アッラー」という語は、固有名詞であるものの、同時に普通名詞と連続的な印象が一目瞭然で、名前と同時に意味があり、言語に埋め込まれている印象があります。カタカナ表記「アッラー」からは、こうした(重要な)印象が一切払拭され、まったく正反対のイメージが出来上がってしまう弊害があります。
 極力日本語に埋め込まれた語を考えると、例えばキリスト教で用いられていた「天主」とか、「唯一者」「唯一神」「一者」などの言葉が浮かびますが、こなれてはいませんし、今度は「神」の要素が希薄になってしまう面もあります(このエントリでは試しに使ってみます)。

 わたし個人としては、「神様」という言葉自体は近づきやすく嫌いではないですし、実を言えば訳語そのもののことを云々したい訳ではありません。
 唯一者の概念を理解する手がかりとして、一度「神」を全部捨ててみてはどうか、と考えただけです。唯一者というのは、アッラーのことですが、もちろんキリスト教やユダヤ教における神様(早くも使ってしまった!)も同じです(これはまったく当たり前のことなのですが、日本語文脈だと驚くほど理解されていない! これも「神」概念の弊害が一因だろう)。そもそもイスラームは「神なし、ただし唯一者を除いて」、もっと言ってしまえば「神なし、唯一者あり」が根本にあるわけですから1
 とりあえず一旦、神は全部ナシです。
 あれは全部偽物です。
 偽物というより、マンガです。この「あれはマンガだ」という日本語表現は、ここにピッタリ合います。つまり、そこにはイメージがある。世界内的な連続があり、一つの塊として掌握できる。
 それは単に、滑稽で無用なものなばかりでなく(それだけなら楽しめばいい)、害悪ですらありえます。別段、それこそマンガ的なイスラームのイメージで「偶像だから壊せ」とか言いたいのではありません。そういう人はいるし、実際壊しても良いと思いますが2、ここでの要旨ではありません。
 イスラームにおいて一番ダメなことと言えば、それはシルクです。他にもダメなことはあるでしょうが、唯一者概念の理解ということに絡めて言えば、シルクが第一に来るでしょう。
 シルクは、しばしば「多神崇拝」とか訳されてます。別に間違いではありませんが、違和感があります。多くの神を「崇拝」というところにポイントがあるのではない筈だからです。シルクという語の語根的イメージで言えば、shareする、分かち合う、仲間、並び立つ、といったものが浮かびます。会社を意味するشركةも同語根です。つまり並び立つものとか仲間とかが一緒にいる、という感じです。
 これを「アッラーに並び立つものを認めてはいかん」とだけ考えると、また危うい解釈になります。間違ってはいないと思うのですが、そう言ってしまうと、何だかケチンボで独占欲の強い神様が一人いて、「わし以外を拝むとは何事ぞ! きーっ!」とか言っているイメージになるからです。この発想は、それ自体がシルクで、もう全然反対方向に走っています。
 並び立ててはいけない、というのは、唯一者が本来は、原理的文法的に「並び立てる」ことが不可能な存在であるからです(少なくともわたしはシルクの問題をこう考えている)。「丸い四角」があり得ないような意味であり得ない、ということです。にも関わらず、油断していると、人間は「丸い四角」的な無茶なものをイメージ化して、あたかもそれが対象そのもの、ここでは唯一者そのものであるかのように考えてしまいます。こうしたイメージ化の当初の目的は、理解を助けることであったのかもしれませんが、その後一人歩きしてイメージが概念を乗っ取ってしまうのです。「マンガ化」された結果、描かれたキャラクターが対象そのものに成り代わるようなものです。
 「アッラー」とカタカナで書いてしまうと、それは「アッラーの神」的な中東の髭の生えたオッサン的イメージになって、そういう神様であれば、他にヒッラーとかホッラーとか、色んな神様がいることは容易にイメージ可能です。そうなってしまった後で「並び立ててはならない」と言えば、それは「アッラー」がケチンボで、ホッラーのことが嫌い、とかいったイメージになって当然です。これは全然、シルクの理解ではないし、むしろこの理解自体が始まりからしてシルクでしょう。
 並び立てることがいけないのは、「それ」が本来、「丸い四角」のような不可能だからです。並び立てるのがいけないのは、並び立ててイメージ出来てしまった時点で、既にそれは「それ」ではない、ということです。
 「そんなものは、何がなんだかサッパリ分からない」というなら、むしろそれが正しいです。そんなにすんなりイメージできないし、イメージできてはいけないのです。イメージ的理解の困難なものを、分からないままに受け止めるべきなのです。

 ですから、シルクの禁止と「神なし、唯一者あり」というのは表裏一体で、要するに「神」とか言われてるものは、全部が全部例外なくダメだということです。世の中にはそんな凄いものはないのです。不思議も奇跡も撫で牛も叶え杉もラッキーグッズもレメディーもないのです。常識で考えろということです。
 実際問題としては、世の中には「常識的に考えておかしい」ものがたくさんあります。それらが全部著しい害悪かというと、別にそうでもないでしょう。程度とユーモアの問題です。ユーモアがなくなったら、あるいはシャレが通じなくなったら、先日書いた言い方で言うなら「プロレス的」なものが分からなくなったら、それはただの害悪であり、排除すべきです。しかし、ユーモアのある間、プロレス的精神のある限りにおいては、ハラームとは言えない、とわたしは考えています。これは対象そのものというより、受け止める人の側の問題で、以前に音楽について考えたように、その人においてダメならそれはダメです。プロレス的余裕のない人においては、多くのものが害悪です。その人はやらない方がいい。でも、他の人にとっては問題ないかもしれません。
 ともあれ、ここで重要なのは、こうした山のようにあるマンガ的キャラクター群の是非ではありません。唯一者がそうしたキャラクター群の一人ではない、ということです。正確には「そういうイメージを抱いてしまっていたら、お前は既に理解を踏み外しているぞ、気をつけろ」というメッセージです。
 誰でもちょっとは道を踏み外すので、ちょっと外れて草むらでバッタを捕まえているくらいなら良いかと思いますが、バッタを追いかけて穴に落ちて帰ってこられなくなったら大変です。シルクというのは、バッタを追いかけて道を外れはじめると、GANTZのチャイムのようにピロリンピロリン鳴る警告音ではないかと、わたし個人は考えています。「それはバッタである、アッラーではない」。

 ではイメージを拒む唯一者とは何なのか、というのは長い長いお話で、色々な人が色々なことを言っています。でも一番重要なのは、そうした諸々の言説というより、「マンガ」を拒みながらなおかつ「それ」について思考する、ということが、誰にでも可能だということです。別に修行のような思考を言っているのではなく、「それ」は思考対象とすることが可能、想定可能、という意味です。
 例によって迷走しましたが、ここがスタート地点であって、「神」に振り回されていると、そもそもの入り口からして間違えているのではないのか、というのがわたしの考えです。当然ながら、この考えを「イスラームの考え」と言う気はありませんし、言いたくもありません。イスラームについての世の中的な知識が欲しいなら学者に尋ねれば良いし、イスラームについて知りたいなら主に尋ねれば良いでしょう。

  1. これが乱暴な言い方であるのは承知していますが、根本を理解するには一度こうしたラディカルな発想をすべきではなのかと考えています。少なくとも、わたしはこういう発想をしています。「イスラーム的」に正しいかどうかは知りません []
  2. 現実問題としては、現代においては、こうした対象を文字通り物理的に破壊することにはデメリットの方が大きいと思います。無用な衝突を生む、というのではなく、他の壊すべきものを忘れさせるからです []

「結局のところどうしたいのかだけを見る」「現象として大変なら大変なのだ」

 どうでもいい個人的な心がけなのですが、異常に気が短く情緒不安定な人間として、最近二つのことを心がけています。以前よりは少しキレなくなった気もしなくもないです。
 その二つというのは、「結局のところどうしたいのかだけを見る」と「現象として大変なら大変なのだ」です。
 「結局のところどうしたいのかだけを見る」というのは、目の前の目的とか不満とかいったものに極力とらわれないようにし、「そんなこんなで最終的にどうしたいねん」という方だけを見るようにする、というものです。
 例えば旦那や彼氏がいつも生返事でイヤだ、とかいう不満があったとして、できればこの不満を解消したいとします。それが解消できれば結構なのですが、解消しようともがくうちに関係がこじれてしまう、というようなことが世の中には山ほどあります。
 この場合、「結局のところどうしたい」かと言えば、彼(あるいは彼女でも子供でもジジババでも)と仲良く平和にやっていきたい、ということです(そうでないならまた話は別)。だとしたら、この大局の目的だけを見て、目の前の問題が解決されたかどうかには、なるべく重きを置かない、解決したら「めっけもん」くらいに気楽に構えておく、ということです。
 往々にして、この手の不満や問題というのは、実際はその問題自体が重要なのではなく、自分の心や相手との関係の中にある何らかの問題が小さなことに引っかかって具現化しているものです。その問題自体は、冷静に考えると割りとどうでもいいのです。でも、そのどうでもいいことにすっかり絡め取られて、自縄自縛に陥ってしまうというのもよくある話で、これを避けるには、「要するに自分はどうしたいねん」「結局どういうオチだったら満足やねん」というのをまず確認して、その点さえクリアできれば、後のことは寝て忘れるくらいに思っておいた方が良いです。そうやって気楽に構えている方が、自然と解決することもままあります(しないこともある)。
 「現象として大変なら大変なのだ」というのも、この手の問題に絡んでいるのですが、同じ例えで言えば、「生返事ばかりでイヤ」な場合に「ちゃんと話を聞く」とか「共感を示す」というのは、そんなに大変なことには見えません。不満に思っている側にとっては、実に容易いことかもしれません。ですが、まず第一に、相手にとって簡単かどうかは別問題です。
 それから第二に、こっちの方が大切なのですが、相手にとってすら簡単だった場合でも、いざ実際に実現しようとしてみると、色々別の問題を引き連れてきたりしてうまくいかない、どちらにとっても簡単で造作も無いことなのに、指摘されると腹が立って喧嘩になる、なぜだか分からないけれどすんなりいかない、というようなことが、世の中に往々にしてあります。
 問題は、ことが「大変」ではなく「簡単」である(ように見える)ことです。仮に「引っかかって具現化した」問題が「家にフェラーリがなくて不満だ」とかいうものなら、普通に考えて簡単には実現できないのは誰にでも分かるでしょう。なまじ簡単そうに見えるから「なんでそんな簡単なことができないの! きーっ!」とかなるわけです。子供に対するお母さんも、よくこの状態に陥るかと思います。
 この場合、「簡単なはずなのに上手くいかない」の「はずなのに」は忘れることです。簡単そうに見えるその見た目のことは全部忘れて、実際問題として現象としてなかなかうまくいかないなら、それは(なぜだかは分からないけれど)大変なことなのだ、と考えた方が楽です。簡単そうに見えて、実は逆立ちでスキップするくらい難度が高いのです。
 簡単なはずのことがなぜ難しいのか、の「なぜ」のことは考えてはいけません。原因を見つけ出して取り除こう、などと思いあがったことを考えてはいけません。サタンが介入しているのでしょう。主に救いを求めなさい。
 なぜだか分かりませんが、とにかく難しいのです。
 そんなに難しいことなら、すぐに出来なくても諦めるしかありません。文句があるなら、自分で逆立ちでスキップしてみればいいのです。大変ですよコレは。下手したら転んで首の骨折ります。諦めた方がいいです。

 この二つのポイントは、どちらも要するに「諦める」ということなので、分析的思考を摩滅させ社会の進歩を停滞させるものかもしれませんが、分析的思考なんか出来ても何の役にも立たないし、社会が進歩しなくて上等なので、諦めたら良いでしょう。主がお望みであれば、そのうち勝手に解決します。
 以上、まったく個人的なライフハック(笑)でした。

プロレス史観、プロレス宗教

食べログのやらせ問題も大相撲の八百長問題もそうなんだけど、当然そういうことはあるだろうなということを織り込んで判断するといったプロレス史観がどんどんと失われ、情弱のマジレス運用が社会のデフォルトになっていることに微妙な恐怖感を覚えるTwitter / @igi: 食べログのやらせ問題も大相撲の八百長問題もそうなんだ …

 これ上手いですね。
 この反対というか、対偶みたいな位置にあるのが「プロレスはガチなんだ!」と本気で言い張る「原理主義」で、文字通り所謂ところの「原理主義」、あるいは単なるパラノイア的なカルトも似た位置にあります。両者は値として等しい。
 何が言いたいかといえば、信仰に対する「狂信的」否定的態度も、額面通りのマジレス運用しかできない福音派みたいな人々も、同じものの裏表だということです。
 実際上の信仰というのは、実にプロレス的なものでしょう。
 プロレスラーは少なくともとても身体が丈夫だろうし、時にはガチで殴り合いもするでしょうが、その他諸々も同時にあるのがプロレスで、それを分かって楽しむのが大人のプロレスファンというものの筈です。
 というより、実際の人生というのは、往々にしてどこからがガチだか分からないプロレス的なものでしょう。
 信仰からプロレスが失われたら、カルトと子供じみた「無神論」しか残りません。

わたしは、わたしの存在する限りにおいて、零度の信仰を生きるだろう

 例えば、毎日何かをドゥアー(祈り、祈念)していて、その願いが叶ったとする。アルハムドリッラー。主は必要なものを与えられる。
 しかし当然ながら、その起こった出来事が本当に祈りを聞き入れた主の御力によるものなのかどうかは、分からない。常識的に考えて、祈りは別に全然関係ないだろう。
 「祈りの効果」を実証したいなら、祈った場合と祈らなかった場合の対照実験をすべきだが、そんな面白いことをする人はいない。
 いや、信仰について非常に無知で人生経験の浅い人なら、本気で「祈ったグループ」「祈らなかったグループ」の対照実験をするかもしれない。そしておそらく、結果に有意な差異はないのだが、「伝統的」な信仰者たちは、「実験の為の祈りは聞き入れられない」とか「祈った人が違えばその意味が違うのは当然」などなど、いくらでも理屈をつけて実験の結果を受け入れないだろう。
 実験で祈りの効果(あるいは信仰に関する何でも)を確かめようとする者も愚かだし、「祈りの効果」(あるいは信仰に関する何でも)に実証的な(イマジネールな)形でしがみつくのも愚かだ。
 なぜなら、正に実質的な差異が生じない、その点にこそ、信仰の意味があるからだ。
 そこで差異が生じる、あるいは生じることに依拠せざるを得ないとしたら、それはご利益宗教であり、呪術や呪いと変わらない。あるいはマイナスイオンでもマクロビでもいい。
 ある人がある時祈り、生きる、その繰り返しようのない一回性、単独性、つまり「一般性の無さ」それ自体に信仰は深く結びついている。
 一般的に繰り返せるものなら、経験主義的科学がいくらでも担ってくれよう。そして担わせるべきだ。そうしたものを信仰に結びつけるのは、「スピリチュアル」であり、呪術であり、ニセ科学であり、単なる無知だ。
 一般性と法則に回収され得ない、先験的な一回性そのものだけを注視しなければならない。
 そこで信じても、信じなくても、まったく違いがないにも関わらず、信じていなければならない。
 もちろん実際上は、信仰も他の多くの事柄と多く、現世的で社会的な多くの事柄に結びついている。言わば「文化」化している面がある。そうした面を全否定しようというのではない。ただ、そこは本質ではないし、いつでも捨てられるのでなければおかしい。
 ラーイラーハイッラッラー、「神なし、されど・・」なのだ。その後にアッラーがおられるが、アッラーは唯一の例外であり、例外であるということは、一般的には「神なし」であって、世の中に不思議なことはない。普通に生きるしかない。
 世界の内部に奇跡はないが、起こったすべてが奇跡であるものとして映る、その目線だけが、信仰の拠り所とできるもののはずだ。
 信じても信じないでも変わらないことは、わたしが居ても居なくても世界が変わらないと並行的だ。
 わたしは、わたしの存在する限りにおいて、零度の信仰を生きるだろう。

排水口の髪の毛

 症候とは排水口の髪の毛だ。
 風呂の排水口に絡み付いて発見されるもの、それがわたしだ。
 もちろん、そこにある残骸はゴミだ。「どうしようもないもの」だ。
 一方で、紛れも無いこのわたしから生まれ出たもので、ついでに言えば、頭からだ。
 取っても取っても排水口には髪の毛が貯まるし、それを止めようとしたら、風呂に入らないかわたしがいなくなるかしかない。
 排水口の髪の毛は、わたしの影であり、見える世界の中に発見される残骸としてのわたしだ。
 わたしは、この排水口の髪の毛と共に生きていくしかない。この髪の毛を止めようとしたら、わたしが死ぬしかないのだ。
 ある者たちは、この症候と向き合い、風呂に入らないという戦略を取る。すると髪の毛は、風呂以外のあらゆるところに散らばり、より始末に終えない症候となり、しかも体も臭くなる。排水口に髪の毛を貯めないというのは、そういうことだ。
 かといって、掃除をしないで放っておくこともできない。排水口が詰まってしまう。
 一緒に生き、掃除し続けるしかないのだ。
 わたしは生きている限りにおいて、排水口につまるわたしを掃除し続ける。

 ところで普通、排水口に詰まる髪の毛というのは、わたしだけのものではない。家族の髪の毛も一緒だ。
 そしてどれがわたしの髪の毛で、どれが家族の髪の毛なのかというのは、排水口にあってはもう区別がつかない。
 だからこれは、わたしたち家族の症候だ。

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