数えられなかった羊

数えられなかった羊

アラブ、イスラーム、アラビア語、エジプト、現代思想、言語・精神分析 書評と翻訳と雑記

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羊は迷うのか

 羊とは縁が深いですが、「迷える子羊」というのは、キリスト教文脈でよく使われるイメージです。
 とりわけ、99匹の羊のお話が好きです。これはマタイとルカの福音書にあるもので、新共同訳だとこうなっています。

18:10 「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである。
18:11:<底本に節が欠けている個所の異本による訳文>人の子は、失われたものを救うために来た。
18:12 あなたがたはどう思うか。ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。
18:13 はっきり言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう。
18:14 そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」
(マタイ福音書)

15:1 徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。
15:2 すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。
15:3 そこで、イエスは次のたとえを話された。
15:4 「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。
15:5 そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、
15:6 家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。
15:7 言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」
(ルカ福音書)

 ちなみに、マタイ伝18章12節のアラビア語訳をみたところ、こうでした。

ماذا تظنون.ان كان لانسان مئة خروف وضل واحد منها افلا يترك التسعة والتسعين على الجبال ويذهب يطلب الضال

 グッとカッコイイですね。元はギリシャ語なので、アラビア語で読む意味は別にないですが・・。

 それはともかく、この迷った羊について、考えることがあります。
 言うまでもなく、ここでの迷った羊は導きを失った人間の象徴であり、とりわけ道から大きく外れてしまった者が言われている訳ですが、外れてしまった羊本人はどう思っているのでしょうか。
 わたしは子供の頃からマイペースで、どこにでも勝手に一人で行ってしまう子で、よく迷子になっていました。
 ある時、大きな駅の中で親からはぐれ、勝手に歩きまわっていたところ、大慌てでやってきた母親にとうとう見つけられて、こっぴどく叱られました。
 そこでわたしはこういったことを言いました。
「迷子というのは、行く場所があって、そこに辿りつけないから迷子なんだ。最初から目的もなく散歩しているなら、それは迷子じゃない」。
 もちろん、親には更に叱られた訳ですが、今でも屁理屈としてこれは通っていると思っています。
 つまり、迷子というのは、「迷っていない」道を知る立場からだけ言えることであって、フラフラ野原を歩いている羊には迷子もヘッタクレもないんじゃないか、ということです。

 実際のところ、羊が群れから逸れると色々危険で、羊当人としても少なくとも他の羊の近くにいたいと思っているのかもしれませんが、「羊のいるべき場所」というのは、羊一匹一匹の頭にはないかと思います。また一匹ではなく99匹くらいまとめて脱走してしまえば、羊的にはもう全然問題ないのではないでしょうか。
 ですから、ここで重要なのは、迷ったか迷っていないかというのは、羊の立場から言っているのではない、ということです。
 あくまで神様の立場です。
 福音書の記述でも、マタイ伝の方は「迷い出た」ですが、ルカ伝では「見失った」です。迷ったとは言っていません。羊飼いの方が見失ったのです。羊としてはイヤッホーとノリノリだったかもしれません。
 キリスト教的にはイーサー(イエス)も「神の子」で、わたしたちとは見方が違いますが、この喩えが唯一なる我らが主の視点からのものであることは変わらないでしょう。根本は変わらない筈です。
 言いたいのは、導きというのは主のご都合のものであって、人間にとってどう映るかは別問題だということです。

 時々「宗教が何の役に立つ」とか「現代社会ではこれこれの方が良いんじゃないか」という声があります。
 こう考えるのはよく理解できるのですが、それはあくまで人間の都合です。教えは第一に主のご都合のものなので、人間のためのものではありません。人間中心ではないのです。
 もちろん、主は人間のことを、人間には推し量れない尺度から「最良」の方向に導いて下さっている、と期待される訳ですが、その期待も人間の期待ですから、本当のところは分かりません。こんな風に言うと、信心深い方から怒られそうですが、わたしは常にそのように考えています。主の御心を人間が理解しようにも分かる筈がないですし、現象としては不条理に映るのが当然です。分からないから「信じる」と言うのです。分かっているなら、そんな他人任せなことをしないで、自分で頑張れば良いのですし、実際、自分で分かることは自分でやるべきでしょう(多分その方が主のお考えにも沿うものかと思いますが、もちろん本当に沿っているかは、これまた分かりません)。
 信仰の根本にあるのは、「分からないことがある」ということ、そして「わたしの知らないことを誰かが知っている」ということです。そういう諦念と謙虚さというものが、非常に重要だと考えています。
 また信心深い人に怒られそうなことを言えば、「誰かが知っている」というのも、確証のあるものではありません。もしかすると、誰も知らないかもしれない。主は全知ですから、ご存知の筈なのですが、ご存知かどうかをわたしたちは「知らない」。だから「信じる」。
 わたしは主が全知だと「信じ」ていますが、それ以上のことは知りません。
 「もしかしてご存知じゃないかもしれない」と言われて、顔を真っ赤にして怒るのは信仰ではないでしょう。その人の気持ちは真っ直ぐで素直な人だとは思いますが、わたしたちに出来るのはせいぜい「信じる」ところまでです。「知っているということを知っている」と言えば、それは逸脱で、むしろ信仰に反することだとわたしは考えます。わたしは知りません。

 わたしには分からないことが沢山あるので、分かろうとして分かることについては分かろうとしますが、分かりようもないことについては単に「信じ」ます。その時、わたし自身としては「散歩しているだけ」で、別に迷ってもいないのかもしれませんが、わたしを探している人がいるのでしょう。いないかもしれませんが、いると「信じ」ています。信じているだけなので、本当かどうかは知りません。
 分からないことというのは、単に知識として知らない、ということではありません。知識として知らないことは、知ることもできるので、知りたいなら知ったら良いでしょう。頑張れば多分できます。
 分からないのは、「それがそれとしてある」ということです。
 世界の内部に生起する出来事の関係については、頑張れば相当に知ることができます。しかしそれが「なぜ」存在し、運動するのかということは、知りようがないことです。
 わたしの心理、わたしの性格といったものについて、脳や遺伝子から語ることは可能でしょうし、大いにやったら良いかと思いますが、しかしわたしが「この」わたしである、という不思議については、これは物理現象ではなく、むしろ言語の内部のことなので、いくら物質を切り開いても分かりません。ある種の立場からは、そんな問いがそもそも馬鹿げていて、問いとして成り立っていない、とも言えるでしょう。
 でも不思議で、わたしは知りたいし、知りません。

 野生動物を扱ったテレビドキュメンタリーで、サイを助けるためにヘリコプターで吊るして運ぶ、という場面を見たことがあります。
 ヘリからブラーンとぶら下げられたサイの心境としては、言語を絶する恐怖だったことでしょう。わたしなら絶対イヤです。
 人生には、サイがヘリからぶら下げられるくらい不条理で意味不明な恐れや苦しみ、不安というのが時としてあります。
 そういう時は、「きっと動物レスキューの人がわたしを助けるためにやっているんだ、きっと何かの意味があって、今は分からなくても、死んだら質問できるんだ」と考えるようにしています。
 考えているだけなので、全然違うかもしれません。
 死んだら、動物レスキューの人に、「もうちょっと他にやり方がなかったのか」とクレームを言いたいです。

投票完了前に結果公表?

 中東ニュース系サイトでも話題にされているのを見かけないのですが(絶対チェックされている筈ですが)、エジプト大統領選で、在外エジプト人の投票結果を、国内での投票が終了する前に公表する、という動きがあるようです。選挙委員会の決定とのこと。
 にわかには信じがたいことですが、ググッてみたら本当にそういう話になっているようです。
 まぁ何が起こるか分からない国ですし、これからもまだまだ斜め上な展開が出てくるでしょうが、一体何を考えているのでしょうか。
 ちなみに、わたしはクチコミで聞いたのですが、教えてくれた彼女に「はぁ!? そんなことして誰が得するの?」と言ったところ、彼女は一言「選挙が終わってみたら分かるかもね」。
 さすがエジプト人・・・。

社会への憎悪の仲裁

 これは非常に誤解を受けそうな内容で、かつ丁寧に語る気力もないので、極めて限られた方たち以外にはスルーして頂きたいことなのですが、とても鋭く気に入った一言があったのでメモしておきます。
 「5分で分からない!主権返上を目指す会 - 法華狼の日記」という記事に対するCrowClaw氏のブックマークコメントです。

ファッショの根底が「自身の主権(主体)を絶対者に明け渡すマゾヒズム」だとすると別に間違ってない。彼らは本気で「(自分も含めて)人権なんか無くなればいい」と考えてる。これは(国家ではなく)社会への憎しみ

 元となっている記事は、ある種の右派勢力の主張を荒唐無稽と批判するもので、(おそらくCrowClaw氏もそうであるように)この内容自体は尤もで、確かにこの手の「漫画的」右派言論には相当馬鹿げたところがあります。また、こうした主張に対して一応釘を差しておこう、というのも理解できます。
 ただ、ここで言いたいのは元エントリの主張のことではなく、一周回って「それはそれで正しい」と看破しているCrowClaw氏の慧眼です。しかも根底にあるのが「(国家ではなく)社会への憎しみ」というのが非常に鋭い。
 わたしは、こうした一部の右派言論について、言論そのものとしては荒唐無稽と考えるものの、ここでコメント者が指摘しているような意味で、心情的には大変共感するものがあります。そしてこうした憎悪と、それを仲裁する手段、といったものは偏在する社会要因として捉えるべきで、その点を拾えていない(左派)言論は、見た目上の筋道としての正しさがあったとしても、支持も共感もできません。
 一般に、「まともな」学問的筋道を立てた言説というものは、こうした憎悪の仲裁手段として、「実際的」な社会システムや国家を立てるものです。それをどう活用するか、具体的な方法は様々であれ、基本的に「等質な人間たち」によって構成される(と信じられている)システムに預けようとします。
 これは普通に考えて、まったく「まともな」考えで、筋道に歯向かう気はないのですが、「その仲裁はあまりうまく行かないだろう」という予感を覚えます。たとえ現象として仲裁がある程度機能しているように見えたとしても、実のところ、それは彼らの考えているシステムによってもたらされた成果ではないのではないかと考えます。
 なぜならそれが「まとも」で、「等質な人間たち」というフィクションから一歩も出ていないからです。
 断っておけば、それが「フィクション」であることは、こうした言論の主張者自身も認めないところではありません。フィクションといっても、それは理想気体とか経済モデルの前提的な仮構のようなもので、嘘っぱちとかそういう意味ではないからです。しかし一方で、この前提に対し正面から批判する者がいれば、全力で撃ち返さなければならない性質の「フィクション」でもあります。そこでは大真面目な態度で「フィクション」の実際性を主張しなければ「ならない」のです。なぜなら、そここそがこの言論と世界観の倫理的基盤だからです。倫理的に「フィクション」は現実でなければならない。
 ですから、ここで疑義を挟もうというのは、「フィクション」のフィクション性ではありません。その主張内容、等質性そのもののことです。
 正確には、最終的に、等質性・平等性そのものについては、肯定的に考えています。ただ、そこに至る経路として、排除される一者を大前提とするだけです。
 例えば、日本における右派勢力であれば、天皇陛下を一者とするでしょう。
 しかし実際の人間を一者とすることの是非については、わたし自身はこれに対する批判勢力と意見としては同等です。個人的に、天皇陛下ご自身については「好き」ですし、また敬意も抱いていますが、「人間でありながら同時に特別である」存在を認めはしません。
 ですから、一者は唯一者でなければならないのです。
 この唯一者とは直接の経路が開かれていませんし、確かめることもできません。正確には「かつては開かれていたが、もう閉じられた」ものとして語られます。「かつては開かれていた」のは、はっきり言えば、唯一者の真実性を担保するためです。
 唯一者には唯一者の権利الحقがあり、わたしたちの「主権」一部は彼に属します。ただし、権利の何もかもが放棄されて預けられる訳ではありません。人間にも人間の権利الحقがあります。
 なぜそんな得体の知れないものを想定しなければならないかと言えば、めちゃくちゃなことを言いますが、本当に存在するからです。ここはめちゃくちゃでないといけないのです。それは天皇陛下を特別と考えるのと同じ事で、筋道としては飛躍しているのだけれど、飛躍していないと心に訴えることができないのです。
 預けられた分の権利は、唯一者が保持していますから、それを人間の誰にも自由にすることはできません。できてはいけません。
 実際上は、ここで色々な人間たちが間に入って、唯一者の権利を掠め取ろうとします。いわゆる宗教者的階層というのがそれです。聖職者ではなくعلماءである、というのはこれを防止するためでしょうが、はっきり言って実際にはウラマーゥだろうが何だろうが、同じような働きをしてしまうことがままあります。わたし個人としては信用しませんし、そのような「政体」も信じません。
 ですから、こう言ったところで、具体的な政体として実現できるのは、せいぜいのところ天皇主権的政体と五十歩百歩なのではないかと思いますが、運動の力線としては、それを越えるところを目指しはしています。目指しても多分無理なので、そんな中途半端でどうしようもないものよりは、とりあえず「国民主権」とでも言っておけ、というのはよく分かります。わたし自身も、おおよそそんな風に考えています。しかし、大抵の場合は、こんな投げやりな気持ちで主権を語っていないでしょう。上述のように、こここそ彼らの倫理的基盤で、踏ん張らないといけないところだからです。これは支持できません。なぜなら、わたし(たち)の倫理的基盤はそこにはないからです。
 投げやりな気持ちで「国民主権」な「民主主義国家」で手を打ち、一方で唯一者の権利を担保し憎悪を仲裁することは可能なのではないかと考えますし、また似たような二重性はかなり広い地域で見られるものです。

 最初に書いた通り、非常に微妙で十中八九誤読されそうな内容なので、ピンと来ない人はどうか忘れて下さい。

منقلبون

 今読んでいる小説の中で、キリスト教徒(コプト)のエジプト人が「この三十年くらいでイスラーム主義が伸長して末恐ろしい」ということを嘆く場面があります。アーミーヤで面白おかしく語っているもので、これが事実であるにせよ、そんなシビアな文章ではないのですが、その中で「飛行機に乗ると無理矢理クルアーンを聞かされ、その中でمنقلبونとか言ってる。縁起でもない」といった言い方が出てきます。
 これはسورة الزخرفの一節で、

سُبْحانَ الَّذِي سَخَّرَ لَنَا هَذَا وَمَا كُنَّا لَهُ مُقْرِنِينَ
وَإِنَّا إِلَى رَبِّنَا لَمُنقَلِبُونَ
かれを讃えます。これらのものをわたしたちに服従させる御方。これはわたしたちには叶わなかったことです。
本当にわたしたちは、主に必ず帰るのです。
(43:13-14)

 というアーヤの話です。
 これは主が乗るための家畜を与えて下さったことに感謝する下りで、そのため乗り物に乗る前のドゥアーなどで読まれます。飛行機で流れるというのは、そういう訳でしょう。
 ここに出てくるمنقلبونというのは、「(主の御許へと)帰るものたち」という意味ですが、文字通りには「ひっくり帰る」です。ですから、この小説の登場人物は、「飛行機が飛ぶ時にひっくり返るとか言ってくれるな」と皮肉っている訳です(多分、実際には本当の意味の分からないエジプト人というのはキリスト教徒でもいないと思うのですが)。
 以上、小ネタでした。

伝える中毒

 極私的回想で書いたような単なる自分語りですが、考えを伝えるとか、表現する、言うべきことを言う、といったことに重きをおかないよう気をつけています。
 世の中的には、少なくとも建前上、「考えをキチンと表現して伝える」ことは「良いこと」とされています。実際、これらが大事な場面というも沢山あるでしょう。
 また、何かを書き綴って(あるいは別の方法で)表現出来た時、さらにそれが他人に理解された時の悦びというのは、素晴らしいものです。「書く」ことに格別にひっかかってきた(ひっかかってしまった)人間としては、非常によく分かります。
 しかし、この悦びというのが曲者です。考え(あるいは別のもの)を「表現する」とか「伝える」ことの快感というのは、麻薬のようなものです。
 別に麻薬が絶対悪だと言うつもりはありません。時にはそういう快楽があっても良いでしょう。お祭り騒ぎだってたまにはしたいです。
 しかし、年中お祭りをやっていては世の中回りません。お祭りにそこまでの需要はありませんし、仮にお祭り専任という人がいるにしても、人口千人あたり一人くらいで沢山でしょう。
 要するにこの麻薬というものは、せいぜいのところその程度の位置付けに過ぎないのですが、一旦中毒になってしまうと、年がら年中お祭りをしたくてたまらなくなり、しかもそれが意義深いことだと思い込んでしまいます。
 世の中のほとんどの人々は、建前とは異なり、ほとんど自分の考えなどキチンと伝えていません。そもそもまとまった考えがない場合も多いですし、言わない方が身のためのことはもっと多いですし、伝えようにも表現するスキルがなく、なおかつそれで格別困りもしない、ということも沢山あります。これが重要になるのは、結構限られた局面だけの話で、それはお祭りくらいの頻度でしかありません。
 もちろん、言いたいことなどないのに発言を求められる、何か出さないといけない、という場面も、建前の関係上色々とあります。ですから、普通の人は、当たり障りのないどこかで聞いたようなことを言っておくのです。ここで本当に表現してしまったりすると、ほとんどの場合はロクな結果になりません。たまに大ヒットして弾けることもありますが、これもお祭りレベルです。
 余計なことを言ったり書いたり踊ったりしないでも、ほとんどの人は立派に生きていけますし、そういう人生も大いに意義があります。むしろ真っ当です。

 こんなひねくれたことを書いているのは、わたし自身が多分に中毒の気があるからです。そうでない人は、格段こんなことを考えたり肝に銘じたりする必要はないでしょう。ドラッグというのは相性があるので、中毒にならない人もいます。お酒を飲む人のほとんどは依存症ではありません。
 それでもドラッグであることには変わりないので、「これは単なる麻薬だ」ということを、よくよく自分に言い聞かせないといけません。
 それでもなお、麻薬と心中しようというなら、それはそれで美しい生き様でしょう。個人的には好きです。
 ただ、それは単にドラッグに溺れたというだけの話で、それ以上でも以下でもありません。

 世の中には色々なドラッグをあの手この手で何か立派なことに見せかけようという罠が溢れています。
 中毒と分かって死ぬなら侠気とも言えますが、少なからぬ人々が単に罠にはまって立派なことだと思い込んだままズブズブと廃人になっていきます。
 世の中、特別なものなどありません。わたしに言わせれば特別なのはアッラー(唯一者)だけであり、それは世の「中」のものでありませんし、感覚に訴えるものではありません。ですから、特別な感じがするものは、大抵インチキです。
 せめて立派な廃人として死にたいです。

歌の外部の意味、内部の(無)意味

 音楽と信仰『さえずり言語起源論』モテるために、かつて言語は難しかったに関連してメモ。
 語の意味に先行する、もしくは別に起源を持つ統語構造について考えれば、当然、意味の起源が問題になります。
 『さえずり言語起源論』では、言わば「旋律の共通項」が括り出される形で「語」とレファレンスの連合が生じる、という仮説が示されており、これに対し、むしろ差異こそが意味の起源ではないか、といったことを書きました。
 ここで注意しなければならないのは、対象を指示することと「意味」は異なる、ということです。
 対象をある音や動作によって指示するだけであれば、多くの動物が行なっています。『さえずり言語起源論』でも取り上げられている『ヒトはいかにして人となったか』でも触れられていますが、敵である鷹が接近した時と、豹が接近した時とで異なる鳴き声を発する猿がいます。それぞれに退避すべき場所が異なるからです。あるいはもっと複雑な指示対象と音声(または別の)表現系を持つ動物というのも、いるでしょう。しかしこれらは、ヒトにおける言語とは異なります。
 人間で言えば、これは自然と沸き上がってくる笑い声であるとか、悲鳴や泣き声といったものです。表現系が固定されている、という意味ではありません。固定され「がち」であることも一つの特徴ですが、これらは明示的なレファレンスを持ち、これと強く連合し、なおかつほとんど不随意的に湧き上がるものです。

意味の意味

無自覚な者たちが他人に信仰を押し付ける

 こんなエントリが話題になっていました。
 日本人は自らの宗教性にいいかげん気付くべき - 狐の王国

良識あるものは自らの倫理観を問いなおせ。それが信仰でないことなどほぼ無いことに気付くべきだ。一つの宗教にきちんと向かい合うことも必要かもしれない。仏教でも神道でも基督教でもいい。
そうして自らの信仰に自覚的になることも、きっと必要なことだと思う。

 細部については異論もありますし、またここで言う「宗教」とわたしたちの言うところのالدينは同一ではないと考えていますが、自称「無宗教」の日本人の多くが、自分で思っているよりはずっと「宗教的」、という点は、その通りでしょう。
 このブログで書いていることの多くもそうした前提から出発しており、「小っさなムスリムに話しかける」「音楽と信仰」といったことも、この系譜に属するものです。
 件のエントリは、「宗教性」そのものより、それに対して「無自覚」であることに焦点をあてたものです。
 その「無自覚さ」と深く結びついたことかと考えているのですが、個人的に、「少なからぬ日本の人たち」に願いたいこととして、二つのことがあります。
 「他人に信仰を押し付けるな」と「他人の信仰に軽々に立ち入るな」ということです。

 日本人と言っても色々な人たちがいますから、十把一絡げにするのも危ないのですが、概ねこの国の文化は、あまり人のことに立ち入らず、また人の介入も受け付けないものです。もちろん、やたら何にでも鼻を突っ込むのはどんな文化圏でも問題な訳ですが、閾値となる距離というのは文化圏によって異なります。
 例えばエジプト人は、良く言えば義侠心に溢れ、悪く言えばおせっかいな傾向が強く、日本であればプライバシーの枠をとっくに乗り越えた領域まで、お互いにズカズカと入り込み合います。人と人との距離が非常に近く、常に他人と一緒の空間で生きることに慣れきっていますし、それが当たり前だと考えています。地下鉄で隣り合った人と話すのも普通ですし、下手をすると「ウチの倅の嫁に来ないか」くらい突っ込んでくるオバちゃんまでいます。
 これに比べれば、日本では人と人の距離がずっと遠く、「迷惑かけないから迷惑かけるな」という暗黙の圧力があります。もちろん、良い点と悪い点がある訳ですが、それはともかくとして、あまり立ち入らないのがスタンダードな訳です。
 にも関わらず、なぜか信仰の領域になると、ものすごく図々しく礼儀知らずな人が大勢います。というより、過半数がこの部類に入るかと思われます。
 といっても、「他人に信仰を押し付けるな」については、多くの場合はそれを「信仰」と自覚していないのでしょう。「選ばないことでは無宗教にはなれない」で書いた通り、「デフォルト無宗教」などというのは、極めて限局されたファンタジーに過ぎないのですが、この辺にまったく無自覚な人が多いです。そのため、自分が何をやっているかも分からないまま、「自称無宗教な曖昧な精神性」を平気で押し付けてくるのでしょう。それはあなたの信仰であって、わたしの信仰ではない。
 もしこれが逆に、たとえばわたしが、さして親しくもない相手にイスラームの素晴らしさか何かを滔々と語ったとすれば、良くてキチガイ、悪いとテロリスト扱いです1。似たようなことを平然と行なってしまっていることを、それこそ「日本文化」的な恥と知って頂きたいです。

 「他人の信仰に軽々に立ち入るな」ということについても、おそらく件の無自覚性、信仰一般に対する経験や知識の無さ故のことでしょう。他人の信仰実践について平然と立ち入る人がいます。しかも自分とは違う宗教の信仰者に対して行うのですから、驚くべきことで、状況によっては非常に危険なことです。例えば、非ムスリムの日本人が、日本人ムスリムに対し、斎戒や礼拝といった具体的信仰行為についてやたら立ち入ってくるようなことです。
 何にでも鼻を突っ込むエジプト人でも、この辺は非常にデリケートな問題で、家族などの非常に近しい距離の相手でなければ、軽々と口を出すものではありません。それが礼節ですし、また主と人間の関係こそが第一義という信仰の本分でもあります2
 加えて、そんな馬鹿なことをしない方が「身のため」でもあります。もしもコプトのエジプト人が、親しくもないムスリムのエジプト人に対して「お前はちっとも礼拝していないが、それでもムスリムか」などと口走ったら、どんなとんでもないことになるか分かったものであはりません。下手をすれば路上の喧嘩から宗派まるごとの大乱闘にでもなりかねません。
 別にエジプトをスタンダードにする気は全くないのですが、なにせ国民カードにも宗教が記載されているくらいですから、信仰があるというのは当たり前のことで、「信仰心が弱い」というのはそのまま「ロクでなし」と一緒、まして無宗教だの無神論者だのとなれば、ニコニコ笑いながら人殺しでもしかねないサイコ野郎か何かの扱いです。一方で、信仰実践の形というのは、人によって様々です。それでも、各人がその人なりに正しい考えるやり方で生きようとしているのです。これに対し、「お前の礼拝の仕方は間違っている、お前は信仰心が足りない」などと言えば、どんな危険な発言か分かるでしょう。一万歩譲ってその礼拝の仕方が間違っていたり、本当にその人の信仰心が弱かったとしても、それは主とその人の問題です。誤りがあれば主が裁かれるのですから、放っておけば良いのです。まして他人に対し軽々にタクフィール(不信仰者宣告)をするのは、それこそハラームです。
 少なからぬ日本人が平然と他人の信仰に立ち入るのは、こうしたクリティカルな空気がないからでしょうが、それは端的に自らおよび多くの人々の暗黙的信仰心に対して無自覚であるというだけです。現代日本的文脈でこれを何に例えれば分かりやすいのか、ちょっと難しいところですが、例えば他人の子育て方針に対して口出しするのは、かなり親しい間柄でないと慎重になるべきでしょう(子供がいないのでこれで適切か自信がないです)。

 上に書いた通り、「他人に信仰を押し付けるな」「他人の信仰に軽々に立ち入るな」というのは、人との距離が遠く、立ち入った振る舞いを良しとしない「日本的規範」からすれば、むしろまったく当たり前に受け入れられることかと思います。にも関わらず、厚顔無恥な行いがうっかりまかり通ってしまうのは、やはり件の「無自覚性」に由来するのではないでしょうか。

  1. ムスリムが多数派の地域にも、そういうことをやる人はいますが、馬鹿はどこにでもいます []
  2. この辺は天啓宗教と他の宗教では少し捉え方が違うかもしれませんが []

てんかん患者と運転

 祇園で起きた事故(事件かもしれない)のせいで、またてんかんに対して関心が集まっています。
 良い意味で関心が向き、正しい認識が広まるなら結構なのですが、元々あるてんかん患者への誤解や差別意識が更に煽られている感もあります。
 この辺りの誤解については、

てんかん報道(特に、報道関係者のかたへ)|てんかん(癲癇)と生きる
てんかんと京都の事故について 東北大学病院・中里信和教授 - Togetter

 などをご参照頂ければ良いでしょう。

 さて、こうしたてんかんについての基本的認識が整った上で、なお運転などに対する制限をかけるべきか、かけるとしたらどのように行うか、という問題があります。
 「てんかん患者」ではなく「発作を起こす可能性の高い患者」については、申告すべき制度になっているのに、差別や職業上の不利益を理由に申告しない例がままあるようです。もちろんこれは問題ですが、現状のてんかん認識が変わらないまま、単に当人の良心とか遵法意識に訴えるだけでは、方法として合理的ではないでしょう。
 すると例えば、「発作を起こす可能性が高い」患者について、医師に警察等への申告を義務付ける、といった発想が出てきます。これはシステマティックに状況を改善しようとしている点では尤もなのですが、少し考えれば分かる通り、かなり恐ろしいやり方です。国家が市民の健康状態を管理し、「病人」についてはその権利等を制限していく、という方法は、一定の範囲で致し方ないにしても、可能な限り避けるべきです。
 もちろん、運転中に大発作がおきれば、人を傷つけ、場合によっては死に至らしめる可能性もあるわけですから、「免許を取り上げろ」という気持ちもよく分かります。わたしだって、道を歩いていて意識を失った人間の運転する車に轢かれたくはありません。しかしこうした方法を検討するなら、この方法によって促進される「国家による身体管理」という、優生学とも連なる危険についても共に勘案し、両方のリスクを秤にかけないといけません1
 加えて、「突然意識を失う」病気というのは、別にてんかんだけではありません。てんかんの大発作が起きることは、正しい治療を受けていれば滅多にありませんが、この程度の確率なら他の多くの病気(自覚のないものも含め)であり得るでしょう。心臓発作リスクの高い人についても、運転を禁じるのでしょうか。それなら「充分な睡眠時間を確保できない労働環境」にいる人からも、是非免許を取り上げて頂きたいです2。「車で来ているのに酒をすすめられると断れない性格」の人も免許停止してもらいたいです。
 これら全部をひっくるめて、「危ない人」からは一律免許を取り上げろ、というなら、それはそれで分からない主張ではありません。上述の「身体管理」による危険性を考えると、到底軽々に一票は投じられませんが、それでもてんかんに的を絞って見当違いな制限を加えるよりは真っ当でしょう。個人的には、てんかんよりは先に「車で来ているのに酒をすすめられると断れない性格」の人たちにGPSでも付けて管理して頂きたいですが。

 実際問題として、てんかん問題だけでなく、高齢者による事故なども増えているようですし、何らかの形で自動車の運転に制限を設けること自体は必要かと思います。ただ、その場合には、「てんかん」という括りでものを考えないこと、身体的条件を元に権利が制限されることの危険を充分に勘案し、後者については暴走に至らないよう慎重に監視する必要があるはずです。
 ちなみに、もっとスマートな方法として、例えば意識を失ったら自動的にブレーキがかかるような技術を開発する、といったものがあります。決して非現実的な話ではありませんが、そうしたシステムの義務化するとしたら、法整備だけでなくコスト的な問題も大きな壁になるでしょう。それをおいても、これはこれで是非進めて欲しい方策ではありますが。

 てんかんは決して珍しい病気ではなく、わたし個人も何度か大発作の現場に居合わせたことがありますし3、また知人でてんかんを理由に就職を諦めてしまった人がいます。これは本人の腰が引け過ぎなので、「世間のせい」だけにする気はありませんが、それくらいのプレッシャーを知らない間にかけてしまっている、ということは自覚して良いのではないでしょうか。

  1. わたしはサヨクではないので、後者のリスクが絶対悪だとは思わない。またこれはファシズム的な危険であるが、ファシズムが絶対悪だとも考えない。むしろ様々な点でファシズムそのものについては肯定的に見ている。単なるリスクの大小の問題だ []
  2. その労働環境がないと「生活できない」というなら、てんかん差別を恐れて職場に告白できずに運転しているてんかん患者をどうして責められるのか []
  3. これは差別意識を助長する発言なので、少し気が引けるのだけれど、ドストエフスキーではないが、非常に美しい光景で、脳裏にこびりついて離れることがない。こうした「神聖化」は差別と裏腹で、まったくもって危険なのだけれど、単純に審美的には胸を打たれる風景だ []

宗教と同じ

 「投資は宗教と同じ」とか「○○は科学を称しているがあんなものは宗教と同じだ」という時の「宗教と同じ」は、論理的決着のつく見込みのない水掛け論を指して「神学論争」と言ったり、「○○のメッカ」などというのと一緒で、単なる慣用表現に過ぎない。しかし、これが慣用表現として成り立ち得るということは、いささか不気味ではある。
 なぜなら、「宗教と同じ」の「宗教」とは、「検証可能性を明示できない信念体系を無条件に奉じる」ことを指しており、そのようなものの代表としての「宗教」概念が、広く共有されているということだからだ。
 ただし、不気味だというのはこの「宗教」イメージではなく、その共有についてだ。このようなイメージが無条件に奉じられているとは、まったく「宗教と同じ」ではないか。
 「宗教」に限らず、こうした大雑把なイメージが広く共有されている時、その対象について深く吟味されている可能性などほとんどない。こうした慣用法を軽々に用いる者たちは、例えばそれが「宗教」であるなら、宗教について何も知らないし、知らないままにただ「宗教のように」無条件に奉じているだけだ。
 もちろんわたしたちは、大抵のことは深く吟味などしない。面倒くさいから、池上彰にでも喋らせて済ませておきたいのだ。
 それを差し引いても、この「宗教」が広く流布し、何の遠慮も危機感も感じないまま使われているという状況はかなり特殊であるし、不気味な風景である。天皇制について語るのと同じ程度には、刺される恐ろしさがあるならともかく、多分そんな危機感は微塵もない。この「まるで宗教」のような風景は何だろうか。
 わたしはイスラーム教徒だが、「宗教」など微塵も信じていない(いや、微塵くらいは信じているだろうか)。

 ただし、それが信念体系(などという笑止千万なもの)ではないのと同じくらい、趣味好悪の対象とも異なる。
 どちらにも誤読され得り、確かにどちらにも似ている要素はあるが、そこに取り違えた途端、最も重要なものは失われ、ついでにそれほど重要でないものたちもほとんど失われる。
 ジャズは信念体系ではないが、ジャズ狂いにとってのジャズは、単なる好悪ですらない。例え他人から見てそれが趣味好悪のものに映ったとしても、その好悪を欲望したのは彼または彼女ではない。そんな甘い気持ちでジャズに一生は捧げられまい。
 ジャズ狂いはジャズに呪われている。
 そしてジャズ狂いにとって、ジャズは「音楽>ジャズ」などとカテゴライズされる一ジャンルでもない。
 そんなつまらないものに一生を捧げたりする者がいるだろうか。
 いや、いるのだろうし、そういう者たちが「宗教」を信じているのだろう。

モテるために、かつて言語は難しかった

 『さえずり言語起源論』「音楽と信仰」に関連して一つメモしておきたいのですが、統語構造が意味と独立に発展した、あるいは文法が意味に先立つ、と考えると、古い言語独特の難渋さというのに合点がいきます。
 言語学の専門家でもなければそれほど多くの言語を知っている訳でもないので、古い言語一般にそうした傾向があると言えるのかは確証がないのですが、少なくともラテン語とアラビア語(フスハー)についていえば、現代人から見ると全く非能率的としか言い用のないコテコテの屈折語的特徴があります。ラテン語はその後フランス語やイタリア語、スペイン語となり、これらはどれも文法それ自体としてはラテン語からグッと簡略化されています。アラビア語についても、現代口語のアーミーヤはフスハーより文法が簡略化されています。
 簡略化されていった経緯については、過剰な係り受け的法則や屈折性は、意味内容の伝達だけに目的を限るなら必要のないものですし、日々の生活の中で使われている内に省かれていく、というのは、至極自然な流れでしょう。
 ですが、それならなぜ最初にあれほど煩雑な文法構造があったのでしょうか。仮に言語がすべからく簡略化していくのだとしたら、原始言語はものすごい複雑な文法を持っていた、ということになりそうです。簡単なものから始まって段々複雑化する、というのなら分かりますが、最初に複雑なものが突然出てきて、それが段々簡単になる、というのは、いささか奇妙に思えます。
 しかし、もし「統語構造の複雑さ」自体が追求されていた時期が言語にあったとするなら、少なくとも歴史上のある時点で、異様に複雑怪奇な言語があったとしてもおかしくありません。つまり、最初は流石に簡単な構造だったものが、ひたすら「複雑さ」を求めて発達し、その後「意味内容の伝達」という別の目的のために簡略化されていった、ということです。
 なぜ複雑さ自体が追求されたかといえば、その方がモテるからです。
 言語が「さえずり」的起源を持ち(起源の一つとして持ち)、「さえずり」の基本的な目的が「性的ディスプレイ」、あるいはその延長としての情愛表現だとするなら、それは求愛ダンスであり、ダンサーが超絶テクニックを競うように(あるいは家禽化されたジュウシマツが歌の複雑さをエスカレートさせたように)、統語構造が複雑化していってもおかしくありません。そしてダンスが、ダンス全体として表現したいことがあったとしても、個々の動き自体には、通常個別の明示的意味がないように、この言語において重要なのは、全体としての複雑さ・超絶技巧であり、単語の意味ではありません。
 こうした要素は、現代でも詩文などの世界で残っています。韻を踏んだり五七五に合わせることは、意味の伝達にとっては何の役にも立ちませんが、その方が「カッコイイ」からそうするのです。
 日本語でも古文は現代語より文法が複雑で、係り受け的な「お約束」が多く見られますが、こうした要素は意味伝達の合理性だけ考えるなら、必ずしも必要ありません。ですが、その独特の「カッコ良さ」については、多くの日本語話者の理解するところでしょう。
 現代でも中世ヨーロッパのようなダイグロシア状況にあるアラビア語圏では、1400年前の言語が他の地域ではあり得ないほど良く保存されている訳ですが1、このアラビア語世界では、詩人の朗読に若者が詰めかけるほど、現代でも詩文の人気があります。言語の「音楽的」要素が、少なくとも欧米や東アジアよりずっと評価されているのです。弁舌の立つ人が尊敬され、こうした人の語る言葉は、アラビア語として聞いている分には実に技巧に富みカッコイイのですが、例えば翻訳して意味内容をまとめようとすると、実は大して中身のあることを言っていない、ということがよくあります。新聞の文章すら、やたら大げさでムダにカッコイイです。逆に言えば、中身はスカスカだったりします。
 あるエジプト映画の中に、大して教養もないチャラチャラした今時のエジプト青年が、好きな女の子に振り向いてもらうために、バルコニー越しに慣れないフスハーで詩をうたいあげる、という場面がありました。これはもちろん、映画的に戯画化した風景であり、流石に今時のエジプト青年がバルコニー越しにフスハーで詩を読んだりはしないと思うのですが、少なくとも映画的誇張としてはあり得る程度に、難しい言語でカッコ良く語ることは「モテる」要素なのです。現代日本では、例え映画の一場面としてでも、時代劇以外ではこんな演出は成り立たないでしょう。そして、この詩の朗読で「伝えられているメッセージ」は、要するに「好きだ」とか「結婚してくれ」とかいうだけです。
 このアラビア語的カッコ良さというものが、かつて言語をドライブし発展させた推進力だったのではないかと考えられます。もちろん、これは言語の起源および目的の一つであり、そのすべてという訳ではありません。しかし、「メッセージの伝達」という、現代的視点に囚われがちな現代日本人としては、この要素についてとりわけ注意して目を向ける必要があります。

 「音楽と信仰」で書いたのは、この古い言語の性質こそが信仰の言語なのだ、ということですが、これが「信念体系・戒律体系としての信仰」といった(漫画的)誤解への批判となるのは、話し言葉的思考というものと関係します。
 「読み書き能力と状況依存的思考 A・R・ルリアの調査から」」「『声の文化と文字の文化』ウォルター・J. オング」「カテゴリー的思考への固執、識字能力と思想変化の速度」で書いたことですが、読み書き能力のない人々は、一般に文脈志向的な考え方をし、カテゴリー的・リスト的な思考を苦手とします。「ハンマー」「のこぎり」「丸太」「手斧」から「仲間はずれを一つ挙げよ」といった考え方が苦手なのです。一方で、「「兵士」と言わず「勇敢な兵士」、「王女」と言わず「美しい王女」というように、決まり文句や対比的な修飾句を多用する」という特徴があります。これらは「意味内容の伝達」に限って言うなら冗長ですが、文字を使わずに記憶しなければならない場合には、こうした修飾や節付けがあった方が想起し易い、という特徴があります。またもちろん、詩文的なカッコ良さもあります。
 信仰のディスクールを現代風に書き起こして、その内容を並び立ててみる、ということは可能です。現代ならずとも、大昔からそうした学問的研究というのは山ほど為されてきました。それらが信仰と無関係とは言わないし、また一定の重要性も持ってはいるのですが、根本にある人を巻き込んでいる力ではありません。一番大切なのは、「天上の音楽」としての信仰の言葉であり、それがなければ六信五行などと紙に書いたところで、ただのお説教やお題目と変わりありません。そんな道徳の教科書のようなものは信仰ではありません2
 信仰の言語は、一般に古い言語がよく保存されている領域ですが、ここで重要なのは、かつての言語で重要であったようなモテモテダンスとしての言語です。そこを忘れて字面だけ書き言葉で黙読などしても、ボクシングを本で勉強するくらい無意味です。
 より正確に言えば、「信仰の言語」というより「信仰が言語」です。信仰とは、天上から響き渡る、超絶技巧で韻を踏んだラップのようなものです3

 上で触れたことですが、「カッコイイ」「モテモテ」ということと並んで、記憶ということも、文法の複雑さに関係している筈です。屈折語的特徴や、係り受けといった法則は、意味内容の伝達にとっては冗長ですが、声に出して何度も唱えて暗記する場合には、独特のリズムを作り記憶や想起を容易にします。「こう来てこう来てドーン!」的なリズムがあるので、口をついて出やすいのです。
 しかもこの記憶というのは、現代人が本を暗記するというのとは違います。読み書き能力がない人々が、文字の力を借りずに、音だけで伝えていくものなのです。リズム的・時間的要素の重要性は、受験暗記の比ではありません4
 アラブ世界では、今でも暗記能力というものが高く評価される傾向がありますが(もちろん暗記偏重の弊害もある)、これはアラビア語の音楽性、詩的要素といったことと無関係ではないでしょう。更に言えば、社会的評価ということは「モテ」に連なるものであり、要するに「ノリ良く読んでよく覚えるとモテる」とも言えます。モテと記憶もつながっています。アラビア語の屈折的特徴、フスハーの保存、信仰の社会的重要度、詩文の尊重、弁舌ばかり達者で実際的能力に乏しい権力者、アラブ人の交渉上手、といったことは、すべて一つに連なっている筈です。
 そして信仰、記憶、モテ、文法、音楽も、同じ流れの中にあります。

 逆に言うと、書き言葉の発明と普及、ということは、文法の簡略化や信仰の社会的位置の変化と関連している筈です。「書き言葉的思考」と読み書き能力はイコールではありませんし、重要なのは個々人の読み書き能力ではなく、社会全体での識字率と思想傾向ですが、書き言葉の普及と口語文法の簡略化との間には相関性が見いだせるかと思われます。
 もちろん、ここで詩文的要素がすべて捨て去られてしまう訳でではなく、現代語でも残っているわけですが、「詩」「音楽」と言った形で言語本体から分離されて捉えられるようになります。「信仰」もまたこれと同じく、言語の本流とは独立した一分野として認識されるようになります。この大勢自体には抗えるものではありませんが、分離後の姿だけを見ていては、そのものの本質を見誤ることになります。

 最初に書いたとおり、わたしは言語の専門家ではありませんので、以上は詩的=私的試論に過ぎません。古い言語もラテン語をかじってアラビア語を学んだ程度ですから(どちらも屈折語)、他の多くの言語、とりわけもっと古い言語における文法の複雑さについては分かりません。古代言語を知悉されている方の意見を是非伺ってみたいものです。

  1. もちろん現代標準アラビア語(MSA)とクルアーンの時代のアラビア語が全く同じフスハーという訳ではなく、基本的な文法は変わらないものの、語彙語法については大きく異なる。 []
  2. そして信仰者自身にも、道徳の教科書的なものに信仰を貶めようとする「ノリの悪い」「モテなさそう」なヤツらが沢山います。「ノリの悪い」「モテない」人は信仰を語らない方が良いと思います。ダンスが踊れないから日がな一日女の服装のことなどに唾を飛ばしているのです。 []
  3. 以前に般若心経をヒップホップ風に現代語化したものを見かけましたが、あれは信仰の真髄をかなり射当てています。 []
  4. 受験暗記と言えば、今でも暗記では語呂合わせなどがよく使われています。「イイクニ作ろう鎌倉幕府」という文には意味がない、あるいはその意味はどうでもいい訳ですが、この方が覚えやすいからそうするのです。ノリが良いものは覚えやすいです。 []
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