9・11以降イスラームそのものを非難する趨勢に抗すべく、「テロリストはextreamistであって正しいムスリムではない」といった言説が多く見られるようになった。ブッシュですら「敵はテロであってイスラームではない」と一応付け足している。
適度な妥協の道として、悪くない抗弁なのかもしれないが、「良いムスリムと悪いムスリムがいる」ということで、何かもっと重要なことがないがしろにされてしまっている気がする。「良いクリスチャン悪いクリスチャン」でも同じことが言える。
「良いムスリム、悪いムスリム」とは、一体何にとって良かったり悪かったりするのか。世俗社会の法秩序に対して? それでも良いだろう。ただ、そのような良し悪しなら、イスラームそのものにとってはなんら本質的ではない。
「良い力士」とは、普通は相撲の強い力士のことだ。相撲が強くて品行方正ならなお良いが、品行方正なだけの力士は善人であっても別に良い力士ではない。
あるいはまた、アメリカ在住のムスリムがお酒を飲んだら、彼は良いムスリムなのか、悪いムスリムなのか? 彼を取り巻く世俗的法秩序にとって、なんら悪はない。ただ、イスラーム的には褒められたことではないだろう。
この時、信仰を個人的空間に押し込める近代的宗教観に立ち、世俗社会にとってのプラグマティックな善悪だけで測るなら、お酒を飲むムスリムを「別に悪くないムスリム」と言っても構わない。本当に純粋にそれだけの話なら、問題ないだろう。だが、ムスリムたちが「良いムスリム悪いムスリム」を語るとき、しばしば「ムハンマドSAWはそうは言っていない」等々と述べる時、信仰内部のロジックがねじれた形で外部に抜け出て、世俗的な善悪と混同されている。一体どうしてこんなことになるのか。
第一には、ただ単に問題が混同されている、ということ。悪魔を崇拝していても法定速度を守るなら良い信仰者、というお話なら、そうはっきり言えばよい。
しかし、ことはそう単純にならない。プラグマティックに割り切るつもりでも、実際には議論はそう進まない。なぜなら、対象が善悪そのものにコミットしている(と考えられている)信仰の問題だからだ。
だから、第二の問題こそ本質的だ。信仰は善悪の問題ではないのに、それを善悪かのようにとらえてしまう誤読。
信仰は道徳ではない。善悪を決めたり「良いヒト」を作るのが信仰ではない。そんなものは世俗社会のルールが決めれば良い。善悪を超えた激烈さにいたるからこそ信仰は信仰なのであり、「良いムスリム悪いムスリム」など簡単に言えてしまうようでは、その信仰は本物ではない。もちろん、世間の冷たい風に抗して、精一杯の「理性」を発揮しての言葉なのだろうから、非難するつもりは毛頭ないが。
何度でも言う。信仰は善悪ではない。信仰は善を為すかもしれないが、時に悪も為すかもしれない。プラグマティックな良し悪しではなく、善悪そのものを裁定できるものがあるとすれば、それは善悪を超えたものでなくてはならない。
この問題について、素晴らしく平易に述べている一冊に『イエスはなぜわがままなのか』がある。本当は当たり前のことなのに、信仰世界から足が遠のいている人々は、うっかりしすぎているのではないか。