書かれるアーミーヤと小説のアラビア語雑感

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 ぼんやりと今時のエジプト本屋風景を眺めながら、「書かれるアーミーヤ」のことなどをメモしておきます。なお、わたしはエジプトのことしか知りませんので、ここでのアーミーヤはエジプト方言のことです。他のアラブ諸国では事情が異なるでしょう。
 まず、フスハーとアーミーヤの何たるかについてはWikipediaでも見て頂くとして(笑)、両者の差異は単にちょっと訛っているとか発音が違う、といった生やさしいものではありません。文法からして異なりますし、頻出語彙・構文にも大きな開きがあります。外国人が初めて聞いたら、およそ同じ言語とは思えないくらい違う印象があります。
 にも関わらず、多くのエジプト人(おそらくアラブ人全般)は、あくまで「一つの言語の別の局面」と理解していて、外国人でも多少馴染んでくると「確かにそうかも」と分かるようになってきます。特にアーミーヤを文字に落とすと、意外なほどフスハーと近いことが分かります。
 よく言われるようにアーミーヤの記法は定まっていないのですが、大体のデファクトスタンダードというのはあり、そもそもあんまりメチャクチャに書くとエジプト人でも判読不能になるので、ある程度の範囲には収まっています。日本語で「おおきい」「おーきい」は、前者が「正しい日本語」ですが、意図的に後者で書かれることもあり、どちらでも日本人には問題なく理解できるでしょう。この状況から「正しい日本語」という概念を差し引いてやれば、アーミーヤ記法の現状に近いかと思います。
 さて、現代小説で使われている言語ですが、依然フスハーが圧倒的優勢です。しかしこのフスハーはほとんどの場合、古典的なゴリゴリのフスハーではなく、所謂中間言語やロガトゥルムサッカフィーン(文化人の言語)に近いです。わたしたち外国人からすると、文法構造はフスハーのため「平易なフスハー」だと感じますが、人によっては「アーミーヤが混じっている、純粋なフスハーではない」という人もいます。
 新聞などでは、一般記事はこうした「平易なフスハー」、論説文の一部は古文調の固いフスハーで書かれ、例えば特集記事の中で「市民の声」をそのまま書く時に部分的にアーミーヤが使われたりしています。
 小説に戻りますが、基本「平易なフスハー」で書かれますが、問題は会話文です。会話文もフスハーで書くものと、そこだけアーミーヤになるものがあり、これも依然前者が優勢です。また、一つの小説の中で、状況やキャラクターにより使い分けられている部分もあります。
 一時代前ですが、翻訳を載せているタウフィーク・アル=ハキームの小説の中で、裁判官と庶民が会話する部分があるのですが、裁判官がフスハー、庶民がアーミーヤで喋っています。実際には、せいぜい「上品なアーミーヤ」と「庶民的アーミーヤ」で会話される筈ですが、ここでは差異を際立たせるために、文体を使い分けているものと思われます。
 現代作家であるバハーゥ・ターヒルの短篇集では、ほとんどの場面で会話も「平易なフスハー」で書かれていますが、子供との対話を主題にした作品では、会話のみアーミーヤで書かれています。これは「いくらなんでも子供の言葉をフスハーでは書けない」と感じたからでしょう。
 全く余談ですが、最近は衛星放送でアニメなどの子供番組がフスハーで提供されることもあり、読み書きを知る前からフスハーをある程度自然に理解する子供がいます。知人のエジプト人が、まだロクに喋れもしない甥っ子と遊んだ時の体験を話してくれましたが、彼はテレビと会話するように、キチンとしたフスハーで嬉しそうに喋っていて、最初は我が目を疑ったそうです。テレビ恐るべしです(笑)。
 このように基本的に「平易なフスハー」で書かれる小説ですが、当然ながら語彙レベルでは大量のアーミーヤが混入しています。フスハーに対応語を持たない場合だけでなく、対応語があっても敢えてアーミーヤのまま書いている場合があります(例えばフスハーでエレベーターはمصعدだが、口語では必ずアサンセールと呼ばれ、このまま書かれていることがある。エレベータの管理をしている門番がمصعدなどという高級な言葉を知らない、ということもある)。
 また、全文がアーミーヤで書かれた小説・エッセイ集も存在します。これらに共通しているのは、語り口調のノリが軽い(冗談・皮肉的)ということと、いずれも主人公または語り手が、一人称で読者に語りかけるような形式を取っているということです。つまり「お話形式」、語り部が聴衆の前で物語るような形式ということです。
 アーミーヤにも「濃度」のようなものがあり、コテコテのアーミーヤから、割とフスハーに近く外国人にも分かりやすいものまであるのですが、小説の中には部分的に非常に濃い言葉遣いがされているものもあります。
 一般に、アーミーヤで書かれた文章は、外国人には分かりにくいです。極めて平易な内容であれば、むしろフスハーより取っ付き易いくらいなのですが(文法構造そのものはアーミーヤの方が遥かに簡単)、日本語と一緒で口語では省略が多用されるため、それをそのまま書かれると、文脈に対する十分な理解がないと、何を言っているやらサッパリ分からなくなるからです。また、文字では表現されない話し方のノリなどが暗黙的に前提とされている場合があり、エジプト人に音読してもらうと「あぁ!」と了解するのに、文字で書かれていると意味が分からない、ということがあります。これは、レベルは違ってもエジプト人にも起こることで、あんまり省略が酷いとエジプト人にも分からなくなるようです。どんな言語でもコンテクストの理解と部分の理解は相互補完的・同時的ですが、逐語的理解の困難さがとりわけ高い、とは言えるでしょう。
 アーミーヤは文法そのものは簡単なのですが、慣用表現や成句、諺などが大量にあり、かつ日常生活で多用されます。これが外国人には非常に厄介です。英語の難しさと難しさの質が似てきているように感じます。教養ある心優しいエジプト人が「外国人向け」に喋る時は、「濃い」慣用句を意図的に説明的表現に置き換えてくれるので分かるのですが、エジプト人同士の会話を盗み聞きしようとすると、非常に大変です。小説でも、「濃い」表現が使われていると、エジプト人に尋ねなければ永遠に分かりません。
 また、どんな言語でもそうですが、「共通の物語」の知識・理解がないと、狭義の言語的理解があっても意味が分からない場面が多々あります。エジプト人の「共通の物語」は「一に宗教、二に映画、三四がなくて五にサッカー」だと思いますが(笑)、このうち映画は結構盲点なので、苦しめられることが多いです。とにかく彼らは、俳優とか映画の一場面とかを例えに使うことが多いです。外国人からすると「そんなもの見ていない人には分からないじゃないか」と感じるのですが、エジプト人に聞いてみると、これがまた見事なまでに全員見ていて、ちゃんと例えとして伝わるのです。恐るべし、エジプト映画です。
 以上、語学音痴が七転八倒しながらテクスト散策して感じた雑感です。万国のアラブ文学研究者およびアラビア語の達人殿、アホが生意気なこと言ってすいません。