『イスラームのロジック』アッラーフ、絶対的な帰依

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 『イスラームのロジック―アッラーフから原理主義まで』のエントリ第四回です。
 
 第三章「アッラーフ」第四章「預言者ムハンマド」第五章「ウンマ(イスラーム共同体)の歴史」と、後半はイスラームの教義的側面と歴史の概説に話題が移り、前半ほど激烈な印象を残す部分は少なくなります。
 ただ、その中でも第三章では、イスラームの本質について、「よく書いて下さいました」と言いたくなるような重要なポイントがいくつも指摘されています。

「お母さん、月に人間が行ったら、アッラーフはいなかったって。どこにいるの?」
「おまえね、アッラーフの姿は見ることはできないものだよ」
重信房子『りんごの木の下であなたを産もうと決めた』からの引用)

アッラーフは時空の創造者であって、時空によって拘束されることはない。宇宙であれ、異次元であれ、いかなる場にもアッラーフは存在しない。

 これだけであれば、多くの日本人にとってもそれほど理解困難なことではありませんが、アッラーフが世界の「中に」あるのではないということは、世界の中にあって神の如く振舞うものは一切否定する、ということです。
 中田氏は、シャハーダ(信仰告白)の文句でもあるلا إله إلا اللهラーイラーハイッラッラー(アッラー以外に神なし、no god but Allah)という有名なフレーズを取り上げ、まず一番最初に来るのが「神なし」であることを強調します。

 日本の「神」とは本居宣長が言うように本来「常ならざるもの」を意味した。(・・・)
 一方、アラビア語では「إله」とは、イブン・タイミーヤによれば「معبود(崇拝の対象)」を意味する。アラビア語の「神」の概念は、そもそも事物の「客観的」な性質ではなく、人間との関係性によって成立する。我々が崇拝することによって「神」は初めて「神」となる。
 つまりアラビア語の「لا إله(神なし)」は、一見、客観的な存在判断を示す叙述文のように見えるが、同時にじつは「我々は何物も神として崇拝してはならない」との規範を示しているのである。

 これが偶像崇拝の禁止ということで、更に言えば「世界の中に特別なものはない」「神の元では人間は平等、神の如き特別な人間などいない」という、ある種のニヒリズムがイスラームの根底にあるのではないでしょうか。もちろん、実際にはただのニヒリズムでは終わらないし、またほとんどのムスリムはこの「始点としてのニヒリズム」すら理解していませんが・・。
 
 もう一つ、非常に感銘を受けたのが次の伝承です。

海の孤島の山頂で五百年にわたり勤行に明け暮れ、跪拝したまま死んだ行者がいた。復活の日、アッラーフは、「我が慈悲により我が僕を楽園に入れよ」と、この行者を楽園につれていくように天使たちに命じた。ところが彼は三度に渡って「我が主よ、わたしの行いによってにして下さい」と求めた。そこでアッラーフは天使に、「我が僕のために、彼に対する我が恵みと彼の行為を天秤にかけよ」と命じたもうた。すると目を授けた恵みだけで五百年間の崇拝の重さに達してしまい、身体の残りの部分の恵みの分が足りなくなった。アッラーフは、「我が僕を火獄に入れよ」と天使に命じたまい、彼は火獄に引き立てられた。そこで彼が「あなたの御慈悲によって楽園に入れて下さい、あなたの御慈悲によって楽園に入れて下さい」と呼び求めると、アッラーフは彼を楽園に入れたもうた。

 アッラーフの圧倒的慈悲と力の前では、人間の努力など無に等しい。これは非常に重要なポイントです。
 「では努力し善行にいそしんだとしても、報いはないのか」と言われるかもしれませんが、ある意味その通りだと思います。
 いや、報いはあるのかもしれませんが、報われるとか報われないとか、そういう尺度で善行を測っては、「こんなに頑張ったのにこれだけ」「あいつは楽して儲けている」といった、現世的・世俗的な妬みの構造から一歩も抜け出せていません。アッラーフの元での圧倒的な無力を認めてこそ、人は平等になり、他人とその幸福を受け入れることができるのです。
 信仰の第一義は、神への絶対的な帰依であり、細かい善行をチクチク貯めることではありません。極端な話、絶対的な帰依さえあれば、善行など一つもしていなくても評価されるのが、本物の信仰というものでしょう。
 以下のテクストなども、この問題と関連しているでしょう。

信仰と道徳を分けて考えること – ろば日誌 アラビア語とエジプトとニュース
『一神教の誕生―ユダヤ教からキリスト教へ』 加藤隆 – ish
ミヒャエル・エンデ『自由の牢獄』、神と完了、自由と可能性 – ish
奇跡を見たならば、それはあなたの奇跡だ – ish
 
 本書末尾では、学生時代に影響を受けた永井均さんからの引用があるなど、最初から最後まで、あまりに多くが符牒のように自分の中に繋がっていく一冊でした。長い思想的放浪の末、イスラームに辿り着きその道をトボトボ歩いているこの選択が、正しく唯一のものであるという確証を得られた気がしました。