感謝を捧げる

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

山本太郎氏、日本母親連盟を支持者の面前でぶった斬り! | ハーバービジネスオンライン
これは悔しいが面白かった。
大体、色々なものに感謝を捧げ出すと人間終わりだ。和製ヒップホップか。
放射能に感謝とは、誠に恐るべきは昭恵夫人也。
しかしまったくバカにならない。実際のところ、感謝を捧げるとは何か。世の中には無闇に感謝を捧げる人間がたくさんいて、大抵悪い人ではなく、かつそれなりにうまくやっている。
ここで「感謝を捧げるのは悪いことではない、何に捧げるかが重要だ」みたいな、リベサヨ的というかなんというか、まことに尤もだけれど何も言えていない話をしても仕方ない。なぜなら、ここでの「感謝を捧げる」は、そういう理性的な筋道からかけ離れたところから発しているわけで、そもそも感謝など筋道で捧げるものではない。
捉えがたい昆虫的力動により世界は運動しており、わたし自身もまた、知らない間に突き動かされている。
わたし個人は唯一の主に感謝を捧げるが、それはほとんど理神論や不可知論と紙一重の、零度の感謝だ。しかしこれを貫徹するのはとても難しい。ほとんど不可能だ。シルク(多神崇拝=共有)や「執り成し」による「汚染」は理性に対しほぼ必然的に入り込むし、あらゆる理性はカトリシズムによって染め上げられる。
一方でうっかり貫徹できてしまったところで、その実体はサティアン的無機的な倒錯へと至り、正しく神経症的たる社会に対して牙を剥くだろう。
当たり障りのないものに当たり障りなく捧げられる感謝とは何か。たぶん、感謝というよりはむしろ当たり障りのなさの問題なのだが。
「とは何か」という思考の順路自体が、既に地獄への道かもしれない。このゲームは、先の手を読みすぎてはいけないのだ。
和製ヒップホップの方がマシなのかもしれない。



シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする