訳あって、というほどの訳もないのだけれど、東京二十三区内の神社を虱潰しに訪ねることを一応の口実に、なんでもない町を延々と歩いている。ぶらぶら歩いていると町ごとの風景や色合い、人間模様みたいなものが感じられる、とでも言えば通りが良いのだけれど、実際はそうでもない。いやもちろん、港区と足立区ではやはりムードが違うし、住宅と商業施設、事業所の割合などは地区によって様々だし、ハイソな地域もごちゃごちゃとした下町もあるのだけれど、それらが常に統合的な意味を持ち、例えば「白金高輪はこんな町」「北千住はこんな町」というイメージを形成するかというと、そうではない。形成しているかのように見えるとしたら(実際見えるのだが)それは八割方、白金高輪や北千住についてのイメージを予め持っているからに過ぎない。そもそも、白金高輪やら北千住やらという名前は、今となっては住所上明白に定義されたある一領域に対応しているのかもしれないけれど、歩いていて境界に線が引かれているわけでもなく、とりわけ東京ではどこまでもどこまでも際限なく町が続いている。歴史的な地名は昔の人がある地理的領域に対してなんとなく名付けたもので、そこには一定の意味や土地そのものから受ける印象などが組み込まれているのだけれど、その歴史的特徴は往々にして現代の地理の中には直截に見出すことのできるものではなく、もっと言ってしまえば、昔の人が見ていたものもその土地そのものなのか。土地というよりは、彼らの持つ意味の体系の中で一番ふさわしそうなものを選んだ、ということに過ぎない。むしろ「ふさわしくあって欲しい」という欲望が、そこに書き込まれている(だからこそ地名はシニフィアンとして正しく機能するのだが)。
ただ少なくとも、合計すればとてつもない距離を延々と歩くことで、意味からこぼれ落ちる膨大な風景というものを見つけることができる。無意味な風景だ。無意味と言いながら、そういう風景の中に撮るべき形象を見出すこともあり、それはそれで言うなれば撮っているわたしがそこに発見されるのだけれど、そんなものすら見つけられないことの方が圧倒的に多い。この「その他大勢の風景」こそが真に風景であり、ただただ靴の底が減りカロリーが蕩尽される、この時間を正しくそれ自体として見ないといけない。のだけれど、これを見るのは容易いことではない。見るのはとても難しいことだ。
よく言われることだけれど、東京に住んでいると言っても自宅と職場の往復が主で、沿線以外のことはあまり知らないものだ。東京生まれの東京育ちでも、特定のエリアを除くとまるで不案内だったりする。歩くことで東京全体の地図が頭に入ってくる、という効能は確かにあるし、まあ教養というか文化活動として意義のないことではないのだけれど、本当のところ、地図として頭にも入らない風景こそが圧倒的に多い。サヴァン症候群の子どもでもない限り、そんな風景をいちいち頭に残しておけないから、わたしたちは意味だけを受け取り、後は捨てる。東京のほとんどはそこで住んだり働いたりしている人以外にとって無意味である。その無意味の中に意味を見出す、などと言いたいのではない。見出されてしまったらそれは沿線だけを描いた地図のようなもので、既に風景ではない。本当に無意味なのだ。
正確に言えば、とことわる以前に既に書いているのだけれど、無意味と言ってもわたしにとって(そして多くの人々にとって)無意味なだけで、住んだり働いたりしている人々にとっては何らかの意味が被せられ、なんでもないコンビニが生活にかくべからざる拠点かもしれないし、雑草の茂った公園が思い出の場所かもしれない。かもしれないはかもしれないであって、こちらにとっては永遠に明らかにはならない。想像したところで勝手な妄想にすぎない。なにかあるのかもしれない、という予兆だけがあり、予兆が予兆以上のものになることはない。風景の無意味とはそうした極めて低い励起状態、テレビの主電源だけが入って画面が映っていないような緊張をはらむものであり、まったくの零度ではない。他者とはそういうものである。とはいえ、映っていないテレビからなにか意味を見つけることなどはできない。
本当はそうした映っていないテレビを、神社コンプリートとかウォーキングダイエットとか乗り潰しとかいった卑小な物語抜きで見つめることができれば一番良いのだけれど、それがなかなかできないのが凡人である。できる人もいる。短時間ならまだ可能だろう。ある種の韻文や前衛文学も短編だから耐えられる。長編になると、これはもう、相応の訓練を積んだ人間でなければ持ちこたえられないし、大抵は訓練にも耐えられない。物語のフリをして近づいて、その気になって歩いているとなにもない、ただ淡い緊張だけが持続する、そういうのがせいぜいのアプローチになる。少なくとも、わたしは大体そうしている。どこを歩いても一緒なのだけれど、どこを歩くのかは決めないといけないし、これを決めるのがなかなかに難しい。どうしても自分への言い訳が欲しくなる。人々もわたしも意味を渇望しているのだ。無意味のためにすらグローランプが要る。
もちろん、文学の話だし、アートの話だし、写真の話だ。