鶴巻育子「THE BUS」と本当の夢

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 鶴巻育子の「THE BUS」という展示がとても良かったので簡単にメモしておく。
 延々とハワイでバスから見える風景を撮ったシリーズで、合計15回ほど通ったという(このシリーズのためだけではないだろうけれど)。汚れた窓の傷が絶妙に機能していて、敢えて古いバスを選んで乗り、良い感じに傷のある窓際に陣取ったそうだ。
 人物もあるけれど風景だけのものもある。普段は風景をあまり撮らないとのことで、最初は風景だけを撮っていたのだけれど、途中から人物も入れたという。まあ、人物の入っている方が見ている側としては見やすい。
 このシリーズが良いのは、風景を撮っているようでハワイ自体には興味がないことだ。意図的に窓にフォーカスが行っているものも多い。
 鶴巻自身、ハワイはあまり好きではないという。好きではないハワイを汚れた窓ガラス越しに写す。撮影者とハワイの間に一枚フィルターが入り、距離ができる。かといって「お客さん」の視点というわけでもない。ハワイのお客さんは、普通もっとハワイを愛しているし、キラキラと積極的に美しくも陳腐な情景を見せつけてくる。それはハワイへの愛のようで、ハワイを楽しむ自意識の表出でしかない。
 鶴巻の「お客さん」性はそういうところにはなく、確信犯的に一線を引いている。線を引くとより、ハワイに対して引いている。「ええ~~ハワイ~~」という具合に顔をしかめてイヤイヤ訪れている。なにせ本当にハワイが好きではないのだ。
 好きではないからバスから降りず、結果、汚れたガラス窓がソフトフィルターのように働き、風景の情報が間引きされる。情報が落ちると意味が浮かび上がる。記号的になるということだ。有り体に言えば、外界そのものではなく撮り手の「内面」がフィルター上に投射される。
 重要なのは、そこで浮かび上がった意味というのが、意味収斂的な物語ではない、ということだ。「晩秋の寂しさ」とか「一人旅の旅情」とかクソみたいなものが表現されているわけではない(余談ながら、写真家というのはやはり職人なのか、技術はあっても批評的に耐え難い、ベタな意味に落ちている作品がまま見られる。既存の物語と感情をそのまま再演しただけで、どこまでも自我の水準であって正体不明の肉塊の如き主体が発見されない。これが文学なら歯牙にもかけられない)。「意味のわからない意味」が浮かび上がるのだ。
 シリーズの一枚に、赤い揃いのTシャツを着た二人の少年(少女かもしれない)が二人向かい合っている写真がある。脇にはもう少し年少の男の子が立っていて二人の様子を見ている。二人は合掌した手を顔の前でかざすような不思議なポーズをしていて、最初はレスリングの練習なのかとも思った。よく見てみると、フラフープをしているのだとわかった。わかったが、わからない。フラフープだからなんなんだ? 意味はあるが、意味がない。
 トークの中でたまたま、武蔵御岳山を舞台にした別のシリーズで撮った、鹿の骨を焼いて豊凶を占う儀式について話されていたのだけれど、ちょうどそんな感じに、念写で映した風景にも見える。未来を占うために念写してみると、二人の赤シャツ少年が印画紙に浮かび上がった。何をしているのだろう、とよくよく見てみると、ある時「フラフープだ!」とわかった。で、だからどうしたのか。フラフープだとなんなのか。豊作なのか凶作なのか。さっぱりわからない。

 ギャラリーで一見して最初にわたしの頭に浮かんだのは、「ハワイをよく知らない人が見たハワイの夢」というフレーズだった。昔の映画にはソフトフィルターで夢の風景を表した陳腐な表現があったけれど、汚れた窓をフィルターに使った「THE BUS」は、語の真の意味で夢なのだ。お告げも解釈もない。「赤いシャツの少年が二人向き合っていて、よく見るとフラフープをしていました」。だから何なのか。幼児期のトラウマもエディプスコンプレックスもない。ただただフラフープ。これが夢だ。
 写真において発見されるべき主体とは、このフラフープでなければならない。



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