平和にやっているからこそ放っておくわけにはいかない

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 「ボクたちはボクたちで平和にやってるんですから放っておいて下さいよぉ」というのは、誠にもって政治的に正しいのだけれど、越境性を失えばそれはアートではないという意識に立てば倫理的に認容はできないし、集団を島化し分断するという点で、語の真の意味で「反社会的」だろう。
 だとしてももちろん、見境なくひたすら越境ばかりしていても仕方がないのだけれど、移動こそ生であるなら島化とはある種の時間の空間化にほかならない。だからこそ皆、島にしたいのだ。執拗なるホメオスタシスが、時というものをなかったことにしたがる。一見すると時の受容にも見える「年齢相応」とか「ライフステージ」のような思想は、時に名前をつけ数直線上に並べられる、つまり一覧展開可能なものとしてしまう意味で、反-時間的であり、これもまたホメオスタシスの釈迦の掌である。
 棲み分け論の甘さというのはこういうところにあるのであって、結果として棲み分け的状況ができてしまっても問題はないし、むしろ好ましいことではあるのだけれど、原理原則として棲み分けを立ててしまってはルールの絶対化と同じことをやっているだけで、「獰猛なる超自我」に一層の力を与えるだけの結果となるだろう(獰猛なる「見える化」と統計学的超自我、アルゴリズム化の誘惑)。
 何度でも言うが、平和にやっていることそれ自体がいけないわけではない。その平和の行間に不安と暴力が入り込まなければ、なかったことにするフィクションの共有でしかなく、(神経症的ではなく)倒錯的な露出文明の補強という意味しかない。それはちょうど、わからなさというものを排除し名前をつけ蓋をする、正典=カノンなき離乳食的文化とパラレルな関係にある。
 平和にやっているからこそ放っておくわけにはいかない。そこが倫理をコード的道徳から分かつ分水嶺だろう。



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