カーネルサンダースが流れたりするものか

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 思考の流れを追う、みたいなことをわたしたちはつい考えてしまうし、物語以前の思考の流れ自体に接近する、のようなことを試みてしまうのだけれど、思考の流れ、などと言っている時点で既に十二分にイメージにとらわれてしまっていてお話にならない。思考が流れるのか? 流れる時もあるかもしれないが、いつもいつも流れるものでもあるまい。
 流れ、などというと、水のような不定形のものが容器に応じて自由に形を変えたり、連続して移動していったりする姿をつい思い浮かべてしまうが、それは言葉がロジックであり、ロジックはリニアに連なって展開していく、という観念に捕らわれているからだ。そういう言葉の使い方もあるだろうが、言葉の使い方のすべてではないし、すべてどころか氷山の一角にも満たない些末な用法に過ぎない。
 水なんかでは全然なくて、砂利の中に生ゴミとかカラスの死体とかカーネルサンダースの人形とかが時々混ざったようなものが思考かもしれない。そんなものが上から下に綺麗に流れるものか。溝なんか簡単に詰まってしまうだろう。詰まったら脇にそれるのかというと、砂利とか石炭カスの中からビーバーが飛び出して穴を掘るかもしれない。そういうことはよくある。
 対象にも近いものと遠いものがあり、記憶にも近いものと遠いものがあり、自身の行動、他者の行動、環境の変化がある。そもそも、個別的なものと一般的なものがあって、なおかつ両者は厳密には弁別できない。個別的なものがいつでも一般化しうるのが言語だ。映像や写真は一部の例外を除いて常に個別的でなければならないが、言語はその本性において、一般性へに向かう引力が働いている。ではいっそ引力に任せれば「思考の流れ」に忠実になるかというと、まったくそんなことはなく、流れどころか石炭カスとカーネルサンダースなのだから、恐ろしく個別的具体的である。
 言語は世界とは全然関係ないのだけれど、世界そのものでもあるので、言語と世界の関係性、と言った時点で、既に照応のトラップにハマっている。無ー関係性とか頑張って言ってもかなり苦しい。言語と世界は裏で密通しているのだが、わたしの見ている間はその関係性は現れない。配偶者の前で交合に及ぶ不倫カップルなどいないのだ。



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