「さておかれない冗談」ということは随分前から何度も言っていて、まあ進歩がないと言えばないのですが、しつこいので同じ話をします。
例えば政治運動のようなものは、単に言明内容の集合というのでもないし、ただパフォーマンスというのでもない。ネタか本気か、みたいなことが軽く言われるのですが、そのどちらかに還元できてしまっては、そもそも政治ではないでしょう。
もう少し言えば、ネタか本気か、というこの軸上でものを考えてしまっている時点で、言明内容の直截性というか、ディベート的というか、アングロサクソン的な閉じた「科学的」思考様式にどっぷり嵌って周りが見えていない訳です。別にこの様式が駄目だとか悪いとか言うのではありませんが、自分の居場所がわかっていないようでは困るのです。
パフォーマティヴなものなのですから、冗談は冗談なんですよ。冗談的な部分はなければいけない。ただただガチの軸上にはもう何も残っていませんよ。
でも冷笑という訳ではない。そうさせない為に、冗談は冗談だけれどさておかせない、ということが勝負の分かれ目になるのです。
ははは、と笑って「さて」と真面目な話を始めようとするかもしれませんが、そうはさせない。身体が起きたところを連打で畳み掛けて、相手が怒り始めた時にはもうリカバリー不能なくらいに冗談で塗り固めないといけません。
そうでなければ、結局少し気が緩んで、また日常世界に戻っていく、そういう緊張と緩和のサイクルに回収されるだけです。
最終的には回収されますよ。連打と言っても体力に限界がありますからね。そこは仕方がない。やめないと死にます。
だから回収はされますが、ただで帰してはいけないわけですよ。
この冗談のお陰で、前の自分とは違う自分になってしまった、という目に合わせてやらないといけない。
最終的に力及ばず安心させてしまうにしても、五体満足で帰してはいけない。
五体満足で帰さないということは、こっちだって無傷では済まないでしょう。そこは仕方がない。「さておかれない」というのはそういうことです。不謹慎でしょう、大体が。
でもこれをやらないと、冗談を言った甲斐もないというものです。
これは個人的なお話ですが、なんというか、わたしはふざけた人間ですので、ふざけるのは程々にして世間的な安心につながるよう、着地点を見ていこうか、と考えることもあるわけです。
日常生活では大事ですね。ちょっとふざけすぎですからね。真面目にやっておいた方がよろしい。
でもものを作ったりする時は、中途なところで止めないで、悪意の限りを尽くさないといけない。
これは結構度胸の要ることで、「さておかれない」にはスタミナとか根拠のない確信とか、強すぎる欲望とか、そういうものを抱いておかないといけません。
わたしの場合、社会的にふざけすぎているので、そっちを少し真面目にして、その分の悪意を無呼吸連打の方に使わないといけないかとか、しょうもないことを考えているわけです。