包丁を持って転ぶこと

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 前にもどこかで同じことを言った気もしますが、包丁を持って転ぶことについて考えています。
 ある人が包丁を持って転んでしまい、うっかり友人を刺してしまったとします。勿論、わざとではありません。わざとではありませんが、刺してしまったのは事実なので、謝ったとします(それもできない人もいますが)。そして重要なことに、刺された側もこの謝罪を受け入れて許したとします。これもなかなか難しいとは思いますが、仮定の話ですので、心から100%許したとします。
 元より意図的に刺したものでもなく、謝って許したのなら、罪の問題としては一通り清算されていると言えます(法的な過失責任といったことは、喩話なので一旦脇に置いて下さい)。しかし刺された傷がこれでスッと消えてしまう訳ではないですし、一生残る傷跡ができるかもしれませんし、死んでしまうかもしれません。誰が悪いというのでもなく、刺した方にとっても刺された方にとっても不幸な事故でしたが、傷は単に傷で、癒えるには自然の定めた時間がかかるし、治らないかもしれないし、治っても跡になるかもしれません。
 こういうことが、至るところであるのです。
 人によって持っている包丁は違いますし、よく転ぶ人も転ばない人もいます。包丁を持って転びそうな人のそばには近寄らない方が身の為ですが、わたしたちは部屋に篭ってじっとして生きていくことはできないので、否応なくそういう人と関わる機会というのは出てきます。毎度毎度刺されるというものでもなく、刺されるリスクと天秤にかけて余りあるプラスがあるなら、危険を冒してでも近づこう、となるかもしれません。ある意味、そうした危険をある程度背負うことで、大抵の人間はご飯を食べています。でも、ご飯を食べることに役立たないなら、君子危うきに近寄らずというのもまた自然なお話です。
 包丁を持ってよく転ぶタイプの人は少なくともその自覚を持つべきですが、自覚すらままならない人もいますし、自覚できてもやっぱり転ぶという人もいて、むしろそれが大勢と言えます。そういうものはほとんど血の問題で、ちょっと努力してどうにかなるものではありません。人にはそれぞれの種類の包丁があって、転びやすさも人によって違いますが、その程度や種類が急にパッと変わることはまずありませんし、大抵は一生を通じて僅かな変化しかないものでしょう。
 一方でまた、鉄のような肌をしていて、ちょっと刺されても全然大丈夫、という人もいます。素晴らしいことですが、これも血のもので、頑張ったら肌が鉄になるというものでもありません。
 結局それぞれ持って生まれた分のようなものをわきまえて、「これくらいなら大丈夫」「危険だけれどここは仕方がない」と判断していくより他にないものです。事故のようなものですから、気をつけても起こる時には起こるし、起こらない時には起こりません。そしてこの場合、起こった後の話というのはどうにもならないので、常に起こる前のことだけが問題になります。
 今日刺された人も明日は刺す側になるかもしれず、逆もまた然りで、なおかつ刺したことに気づいているかも分かりません。それを気づいてもらう、ただ分かってもらうだけのことが大変な救いになりますが、それすら叶わないこともままあります。
 わたし自身は鉄の肌ではなく、むしろすぐ切れる方で、なおかつ結構そこそこ転んでいるのではないかと思います。知らぬ間にも転んでいるかもしれません。
 刺してしまったら申し訳ないし、刺されてしまっても仕方がないとは思いますが、最初に書いた通り、それで傷が消えるわけではありません。消えないまでも、言葉を尽くすことには意味があると思いますが。
 そういうことを、ずっと考えています。



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